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第26話 罪の証 其の四
「亡き妻もあいつも……そして想う者も、愛しいと思う者は全て、この腕をすり抜けていく。この腕 には誰も残らない。あとはもう老いて死に逝くだけなのだとしたら、譬え一時 の夢であっても、最上級の酒を呑みながら『自分の為だけの存在』を愛でるのも、また一興」
「え……」
療 が口の中で呟く。
「そうは思わないか? 療」
紫雨 が療の、透き通った紫水晶のような瞳を覗き込むようにして見る。そして何かに安心したように言うのだ。
お前はあいつと違ってやはり素直だな、と。
決して療に答えを求めているわけではないのだろう。
話は終わったとばかりに沓脱石 の上で沓 を脱ぎ、室内へと上がる紫雨を、療はただ茫然と見つめていた。
姿が映るのではないかと思うくらい、綺麗に磨き上げられた玄色の、奥の部屋へ真っ直ぐに続く内廊下を、紫雨の背中を見ながら歩く。
上背のある筋肉質の大きな背中が、今は何故か小さく感じられて、療は戸惑いながらも、どこかほっとしていた。
療は一度、紫雨に生命 を助けられたことがある。意識が朦朧とする中で最後に見たのは、自分を護ろうとしてくれている、頼もしい大きな背中だった。
そんな経験があった為か、療は無意識の内に紫雨に対して、絶対的な信頼を寄せている。
気付けば『紫雨なら大丈夫だ』と思う自分がいる反面、決して全てがそうではないのだということも分かっていた。
思っていた姿とは違う姿を見て、取り乱して混乱する程、療はもう幼くはない。
驚き、戸惑いもするが、そんなこともあるのだと、受け入れる心の余裕はまだあった。
そして垣間見た彼の心のほんの一部であったとしても、自分に見せてくれたのだとしたら、こんなに嬉しいことはあるだろうか。
(……それが憂いだったとしても)
自分にほんの少しだけでも話してくれたことが、嬉しくて仕方ないのだ。
そう思うのと同時に、紫雨が先程話した内容が切なくて、療の胸はぎりと痛む。
──愛しいと思う者は全て、この腕をすり抜けていく。
──この腕 には誰も残らない。
そんなことないのだと、言いたかった。
(……香彩 にはまだ紫雨が必要だし、竜ちゃんだって)
オイラだって……。
だがその言葉は、あの背中に黙らされた気がした。
言ってはいけないような気がした。
何も言わないであの背中を慰める方法があればいいのに。
たとえば、後ろから……。
(……え)
心内で思ったことに療は愕然とした。
あまりにも負の感情に引き摺られ過ぎだと、己を叱咤する。
目覚めそうになる何かに、重い蓋をして療は前を見据えた。
紫雨がまさに今、遊姫の待つ部屋の戸を開けようとしているところだった。
それは初めて香彩と共に、この部屋を訪れた時とまさに同じ光景だった。
柱や梁、屋根板は玄の色を使用し、それ以外は全て家具や調度品に至るまで、濃淡のある紅に染められた部屋の中、薄紅の捲 られた天蓋の下に、床に手を付き叩頭する少女がひとり。
「紫雨様。ようこそ、おいで下さいました。お初に御目文字仕 ります。桜香 と申します」
ゆっくりと淑やかな動作で、桜香が顔を上げる。長く艶やかな髪が、少女の動きに合わせてさらさらと揺れた。
その姿に紫雨の息を呑む気配が伝わってきて、療は小さく息をつく。
無理もないと療は思った。
話でどんなに聞いていても、実際その姿を目にしてしまったら驚きを隠せないだろう。
療もまた初めて桜香に会った時は、ある程度は予想していたものの、やはり驚いたのは事実だ。
楽しそうに弧を描く瞳は、紫雨と同じ深翠色。
綺麗に手入れのされた真っ直ぐな髪は、腰の辺りで切り揃えられている。その色は春の宵に咲く春花に、朧月 のほのかに霞む、蒼滄な月色を溶かし込んだ様な、淡い藤色。
まさに香彩に酷似した、桜香の姿。
そして紫雨にとって亡き妻に酷似した姿。
驚愕の思いを振り切るように、もしくは胸に溢れた何かを振り払うかのように、紫雨は桜香の前に進み出て、右手拳を自分の胸の上に置いて一礼をした。
心真礼という。
自分の上司までの位の者や、敬意を払うべき相手に対して行う礼だ。
それを桜香に対して行う紫雨の姿に、何故か療の胸に熱いものが込み上げそうになって、どくりと脈打った。
まさに紫雨が桜香を『個』と認めた瞬間だったからだ。
「こちらこそお初に御目に掛かる。香彩が大変世話になったと療から聞いた。厚く御礼申し上げる」
紫雨の言葉に、桜香は悠然とした動きで首を横に振る。
「……隠された私の存在が、貴方様のご子息をずっと苦しめていたこと、心より御詫び申し上げます」
「丁寧な詫び、深謝する。だが貴女 もまた被害者だ。捨て置けとまでは言わぬが……あまり気にするな」
紫雨の言葉に桜香は淡く笑むと、深々と一礼した。
「私のこの姿、さぞ驚かれたでしょう?」
顔を上げてそんなことを聞く桜香に、ああ、と紫雨が応 えを返す。
「療から話は聞いていたが正直、驚いた。どちらかというと……香彩というよりは、亡き妻によく似ている」
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