38 / 409
第38話 竜紅人と紫雨 其の三
くつくつ、くつくつと、いかにも楽しそうな紫雨 の笑う声が、耳を掠めて遠ざかっていく。
この場を楽しみながらも、未だに収めようとしない殺気を漂わせ、ゆっくりと部屋の出口へ歩いて行く紫雨の背中を、竜紅人 は何も言えずにただ見つめていた。
紫雨の言葉に、まるで影ごと床にでも縫い付けられたかのように、竜紅人はその場から動けずにいる。
言いたいことを全て呑み込みながらも、思わず抑えることが出来なかった、そんな言葉のように思えて竜紅人は、吐息混じりの小さい声で、善処すると応えた。
「……だが断じてあいつの嫌がる真似はしていない」
竜紅人がそう言うのと同時に、紫雨の腕が動く。
痛みに備えるように竜紅人は、ぐっと奥歯を噛み締めた。
だが予想に反して紫雨の手は、竜紅人の頭を鷲掴むと、これでもかとばかりに、くしゃくしゃと強く竜紅人の髪を掻き混ぜる。
「……ちょ……!おっさん!」
戸惑いながらも竜紅人が紫雨を呼ぶと、今度はまるで窘めながらも何処か力づけるように、竜紅人の頭の上に強く手を弾ませるのだ。
「本当に嫌ならば、お前が言葉に『力』を乗せて従わせるように、あいつも似た術を使って抵抗するだろう。ただでさえ惚れている男のすることだ。全て従いたい質があいつにはある。躾ることだな」
「なっ……」
あからさまな物言いに、竜紅人は顔を赤らめながら、紫雨の腕を払った。
「これはこれは。可愛い反応をしてくれる」
頭の上から、それは楽しそうにくつくつと、機嫌良く笑う声が聞こえてくる。だがそれに騙される竜紅人ではなかった。長年の経験だ。
彼の深翠と視線を再び合わせれば案の定、笑っていない目が竜紅人を見下ろし、身に纏う殺気は未だに収まっていない。
まるで頭の天辺から足の爪先まで舐めるように見られ、見張られた挙げ句に言動のひとつひとつまでを、注意深く見定めようとしているかのようだと竜紅人は思った。
(……第一、躾るって何だよ)
心の中でその言葉に反発していた竜紅人だったが、そういえばと思い当たることがあった。
唾液だ。
真竜の唾液は、人のそれとは少し異なる。
元々は雌竜に交尾を促す為のものであり、雌竜の身体を傷付けないように、催淫作用のある唾液を飲ませる本能が、雄竜にはある。
だが僅かに神気を含んだそれが、人の味覚には甘く、美味しく感じるらしい。
こくりと香彩 が喉を鳴らして、それを飲み干す姿を思い出す。何かに耐えるような顔をして、無意識の内に自身の腹を手で押さえながら、甘く甘く熱い吐息をつく、その扇情的な姿。依存性でもあるのか舌を差し出せば、蕩けた表情を浮かべながら、舐めては吸い尽くす。
もっと酔い痴れたいのだと言わんばかりに強請る香彩を、竜紅人は敢えて取り上げた。
唾液や体液に含まれた催淫作用が、香彩の身体にどんな影響が出るのか分からなかったこともあるが、ただその作用の所為で求められているのだと、思いたくなかったからだ。
それは一度や二度ではなかったように思う。
(……ああ、そういうことか)
過ぎれば駄目なのだと、やんわり示せばいい。そしてよりいい方向はこちらなのだと、示せばいい。
ただそれにはかなりの忍耐と理性が必要だ。負けず嫌いの香彩に煽られて、嫉妬も伴って手酷く抱いてしまった自分には、痛い言葉だと今更ながらに思う。
腑に落ちた表情を見破られたのか、紫雨から殺気が消えた。だが一体何が面白いのか相変わらず、くつくつと笑い声が降ってくる。
すっ、と。
顔に貼り付いていた、質の悪い笑みが消えた。
「……雨が少し強くなったな」
「──!」
そう紫雨に言われて、竜紅人はびくりと身体を動かした。
意識していなかった、屋敷の屋根を叩く雨の音が響いてくる。
「なるべく早く中枢楼閣に戻れ、竜紅人。いつでも儀式に移ることが出来るよう、準備はしておく」
返事がないことを、初めから分かっていたかのように、紫雨が部屋を出て行こうとした。
「ああ、もうひとつ、療 からの伝言を忘れていたな」
引き戸を開けながら彼が言う。
先程よりも少し強くなった風が雨の匂いを運び、部屋に広がった。
それは竜紅人の声帯を柔く縛るようであり、今まで自然に出ていた声が、急に発声しにくくなる。
「──罰、か?」
妙な渇きを覚えながら、引き攣 り掠れた声を何とか音に出せば、雨の匂いという『縛り』は自身の中で、更に自身を締め上げるようだった。
ともだちにシェアしよう!