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第55話 泡沫の夢 其の二
ここは夢床 。
意識の奥に存在する潜在意識の眠る場所であり、今まで考えないようにしていた、もしくはすっかり記憶の奥に封じ込めてしまった、漠然とした不安が形となって顕になる場所。
ああ、だからか、と。
すとんと心に落ちたのは、変わってしまった竜紅人 の伽羅色の瞳だった。微かに滲ませる『妬み』と『焦り』を孕んだ目の理由が、それなのだとしたら。蒼竜屋敷に張られた結界を見て香りを変化させた香彩 に、激しく嫉妬して執着心を見せたのも頷けるのだ。
(……ああ、だから)
この心は。
心を顕にする夢床 は、あの時にまるで予言のように自分に伝えたのだ。
──もしも僕が原因で、貴方を深く傷付けてしまうことがあるのなら。
──僕は……貴方を手放すだろう、と。
頽 れて、心の地に付いていた手足が、ずぶりと音を立てて沈み込む。
それはまさに思考の深みだった。
考えれば考えるほど、それはどんどんと深みに嵌まっていく。
このまま沈んでしまったらどうなるんだろう。身体は元気なまま、心だけが死んでしまうのだろうか。それとももう何も考えられなくなってしまうのだろうか。
(……だったらもう、その方がいい)
(僕の存在が……)
(貴方を傷付けることになるのなら)
(たとえ貴方が僕だけを求めていたとしても)
(僕がもう……)
僕がもう、耐えられそうにない。
あの人に抱かれると分かっていながら、貴方の側にいることも。
あの人に抱かれた身体で、貴方の隣に立っていることも。
心が幾度目かの悲鳴を上げる。
離れたくないと嘆くこの心ごと、心の地に全て沈ませたなら、きっと新たな自分がこの夢床 に浮上してくるはずだ。
思考の深みという名の泥濘 の中に、貴方への想いを封じ込めた、新たな自分が。
その自我もまた『香彩 』だ。
気付けば身体はもう、二の腕辺りまで沈み込んでいた。
香彩は目を閉じて、最期の時を待つ。
思考の深みが香彩の顔に差し掛かった。
もうすぐ息が出来なくなる。
貴方を好きで好きで堪らないと叫んでいた心を、自分自身の手で殺すのだ。
泥濘 はやがて鼻梁にまで達して、気が遠くなる。
その時だった。
泥濘 を引き裂く獣の声がした。
くゎいくゎいと。
特有の鳴き声によって、香彩の身体のほとんどを沈み込ませていた、深みが消え失せる。
ふさりとした尾が見えた。
「え……、銀 ……狐 ……?」
それは音も立てずに、心の地に降り立ったのだ。
香彩の目の前には、灰銀色の綺麗な毛並みを持つ、まだ幼い仔狐がちょこんと座っていた。
優雅な尻尾をふさりと振り、まるで最後の仕上げとばかりに心の地を払えば、泥濘 は跡形もなく消え去る。
どうしてこんなところにと思う暇もなく、仔狐は再びくゎいと鳴き、まるでついて来いとばかりに歩き出した。
その後を慌てて香彩が追う。
銀狐 は文字通り、灰銀色の毛並みを持つ狐の魔妖 で、妖狐の一種だ。だが他の妖狐と違うのは、成獣した銀狐 族の長は、古 の盟約により、真竜の加護を受けることが出来るのだという。本来であれば妖狐もまた、真竜の餌だ。だが銀狐 族だけは真竜と同等とされ、真竜もまた銀狐 を喰らおうとはしない。
加護を与えた真竜はその後、銀狐 族の長の番 となる為、時期長と定められた仔狐は、自分の真竜を求めて旅に出るのだという。
縛魔師 の修学で学んだことを思い出しながら、香彩は銀狐 の後姿を見つめる。
とても小さな狐だった。
この銀狐もまた未来を定められ、旅をしているのだろうか。
だからこの狐が連れて行こうとする先に、気配があるのだろうか。
(……ああ)
真竜の香りがする。
竜紅人が森の木々の香りとするならば、それは花と土の香りだ。
(でもこの香りは……)
時折混ざる森の香りと、覚えのあるこの芳香に、香彩は目を見張る。
それは春の出会いと別れの季節と、秋の衰退と次の世代の為の季節に、月映えに彩られて咲き誇る。『神彩の香桜 』と呼ばれ、自分の名前の由来となったもの。
『竜紅人の御手付き という名の鎖 』に良く似た、甘い芳香を放つもの。
(……神桜 ……)
神桜の甘い香りと、竜紅人の香り、そして土の香りが、この白い世界に漂い充満し、香彩を包み込むようだった。
やがて何もない白い空間の先に、小さな銀狐 は足を止めた。
連れてきたとばかりに、独特の声色で銀狐 が遠吠えをする。響き渡るその鳴き声に応えるかのように、白い世界が振動した刹那。
銀狐 の見ていた方向から、一陣の風が吹いた。それは颶風にも似た強い風となって、香彩を襲う。
思わず目を瞑り、片腕で頭と顔面を守る動作をしたその時だった。
突如、ごうと鳴っていた風の音が消えた。
しんとした世界が戻りつつある中で、さわ、と優しい花擦れの音を聞いた気がして、香彩は目を開けた。
「──!」
現れた光景に、思わず息を呑む。
白い世界の中に、たくさんの神桜の樹が、見事に綺麗な藤色の花を咲かせていた。
まるで神桜に呑まれてしまいそうな空間の中で、香彩はよく知っている気配を感じ取る。
思わず心とそして身体が昂りそうになって、香彩は大きく息をついて自分を落ち着かせた。
それは想い人とよく似た気配だった。いや想い人そのものの気配と言ってよかった。
何故ならそれは彼が生み出した、自分への想いの証だったのだから。
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