55 / 409

第55話 泡沫の夢 其の二

   ここは夢床(ゆめどの)。  意識の奥に存在する潜在意識の眠る場所であり、今まで考えないようにしていた、もしくはすっかり記憶の奥に封じ込めてしまった、漠然とした不安が形となって顕になる場所。  ああ、だからか、と。  すとんと心に落ちたのは、変わってしまった竜紅人(りゅこうと)の伽羅色の瞳だった。微かに滲ませる『妬み』と『焦り』を孕んだ目の理由が、それなのだとしたら。蒼竜屋敷に張られた結界を見て香りを変化させた香彩(かさい)に、激しく嫉妬して執着心を見せたのも頷けるのだ。 (……ああ、だから)  この心は。  心を顕にする夢床(ゆめどの)は、あの時にまるで予言のように自分に伝えたのだ。 ──もしも僕が原因で、貴方を深く傷付けてしまうことがあるのなら。 ──僕は……貴方を手放すだろう、と。  (くずお)れて、心の地に付いていた手足が、ずぶりと音を立てて沈み込む。  それはまさに思考の深みだった。  考えれば考えるほど、それはどんどんと深みに嵌まっていく。  このまま沈んでしまったらどうなるんだろう。身体は元気なまま、心だけが死んでしまうのだろうか。それとももう何も考えられなくなってしまうのだろうか。 (……だったらもう、その方がいい) (僕の存在が……) (貴方を傷付けることになるのなら)  (たとえ貴方が僕だけを求めていたとしても) (僕がもう……)    僕がもう、耐えられそうにない。  あの人に抱かれると分かっていながら、貴方の側にいることも。  あの人に抱かれた身体で、貴方の隣に立っていることも。      心が幾度目かの悲鳴を上げる。  離れたくないと嘆くこの心ごと、心の地に全て沈ませたなら、きっと新たな自分がこの夢床(ゆめどの)に浮上してくるはずだ。  思考の深みという名の泥濘(ぬかるみ)の中に、貴方への想いを封じ込めた、新たな自分が。  その自我もまた『香彩(かさい)』だ。  気付けば身体はもう、二の腕辺りまで沈み込んでいた。  香彩は目を閉じて、最期の時を待つ。  思考の深みが香彩の顔に差し掛かった。  もうすぐ息が出来なくなる。  貴方を好きで好きで堪らないと叫んでいた心を、自分自身の手で殺すのだ。  泥濘(ぬかるみ)はやがて鼻梁にまで達して、気が遠くなる。  その時だった。  泥濘(ぬかるみ)を引き裂く獣の声がした。  くゎいくゎいと。  特有の鳴き声によって、香彩の身体のほとんどを沈み込ませていた、深みが消え失せる。  ふさりとした尾が見えた。 「え……、(ぎん)……()……?」  それは音も立てずに、心の地に降り立ったのだ。  香彩の目の前には、灰銀色の綺麗な毛並みを持つ、まだ幼い仔狐がちょこんと座っていた。  優雅な尻尾をふさりと振り、まるで最後の仕上げとばかりに心の地を払えば、泥濘(ぬかるみ)は跡形もなく消え去る。  どうしてこんなところにと思う暇もなく、仔狐は再びくゎいと鳴き、まるでついて来いとばかりに歩き出した。  その後を慌てて香彩が追う。  銀狐(ぎんこ)は文字通り、灰銀色の毛並みを持つ狐の魔妖(まよう)で、妖狐の一種だ。だが他の妖狐と違うのは、成獣した銀狐(ぎんこ)族の長は、(いにしえ)の盟約により、真竜の加護を受けることが出来るのだという。本来であれば妖狐もまた、真竜の餌だ。だが銀狐(ぎんこ)族だけは真竜と同等とされ、真竜もまた銀狐(ぎんこ)を喰らおうとはしない。  加護を与えた真竜はその後、銀狐(ぎんこ)族の長の(つがい)となる為、時期長と定められた仔狐は、自分の真竜を求めて旅に出るのだという。  縛魔師(ばくまし)の修学で学んだことを思い出しながら、香彩は銀狐(ぎんこ)の後姿を見つめる。  とても小さな狐だった。  この銀狐もまた未来を定められ、旅をしているのだろうか。  だからこの狐が連れて行こうとする先に、気配があるのだろうか。 (……ああ)   真竜の香りがする。  竜紅人が森の木々の香りとするならば、それは花と土の香りだ。 (でもこの香りは……)  時折混ざる森の香りと、覚えのあるこの芳香に、香彩は目を見張る。  それは春の出会いと別れの季節と、秋の衰退と次の世代の為の季節に、月映えに彩られて咲き誇る。『神彩の香桜(かおう)』と呼ばれ、自分の名前の由来となったもの。  『竜紅人の御手付き(ものである)という名の鎖(あかし)』に良く似た、甘い芳香を放つもの。 (……神桜(しんおう)……)  神桜の甘い香りと、竜紅人の香り、そして土の香りが、この白い世界に漂い充満し、香彩を包み込むようだった。  やがて何もない白い空間の先に、小さな銀狐(ぎんこ)は足を止めた。  連れてきたとばかりに、独特の声色で銀狐(ぎんこ)が遠吠えをする。響き渡るその鳴き声に応えるかのように、白い世界が振動した刹那。  銀狐(ぎんこ)の見ていた方向から、一陣の風が吹いた。それは颶風にも似た強い風となって、香彩を襲う。  思わず目を瞑り、片腕で頭と顔面を守る動作をしたその時だった。  突如、ごうと鳴っていた風の音が消えた。  しんとした世界が戻りつつある中で、さわ、と優しい花擦れの音を聞いた気がして、香彩は目を開けた。 「──!」  現れた光景に、思わず息を呑む。  白い世界の中に、たくさんの神桜の樹が、見事に綺麗な藤色の花を咲かせていた。  まるで神桜に呑まれてしまいそうな空間の中で、香彩はよく知っている気配を感じ取る。  思わず心とそして身体が昂りそうになって、香彩は大きく息をついて自分を落ち着かせた。  それは想い人とよく似た気配だった。いや想い人そのものの気配と言ってよかった。  何故ならそれは彼が生み出した、自分への想いの証だったのだから。  

ともだちにシェアしよう!