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第81話 皇宮母屋

 後のことを(ねい)に任せ、香彩(かさい)は逃げるようにして陰陽屏から出た。  階段で一層目まで降りて、凹の形をした中枢楼閣の一番端まで早歩きで歩く。  中枢楼閣の北側には、凸の字を上下を反対にしたような形の、皇宮母屋(こうきゅうぼや)という名前の楼閣があり、中枢楼閣とは長い渡床(わたりどの)で繋がっている。  その渡床の中央で香彩は、ようやく歩みを緩めた。  何故か足が重く感じてしまって、先程まであれほど早く歩いていた足が、嘘のようにその歩みを止めてしまう。  香彩は小さく息をついて、三層から成る皇宮母屋を見上げた。  大宰(だいさい)政務室は二層目だ。  格子窓が全て閉じられていることに、香彩は深い安堵を覚える。もしもここからその姿を、ほんの少しでも見てしまったら、たとえ召致が掛かっていたとしても、躊躇いの心の方が(まさ)っていたかもしれない。  ただでさえ今この足は、渡床の中央で止まってしまっているのだ。 (──どんな顔をして)  会えばいいのだろう。  居た堪れない  蒼竜に浚われた経緯をあの人は知っている。それに(りょう)と紅麗の奥座敷を訪れている時点で、情事の気配の残る蒼竜屋敷を訪れている時点で、竜紅人(りゅこうと)と何があったのか、ほぼ全て知られてしまっているのだ。 (……だったらもう、いっそのこと)   開き直ってしまえば楽になるというのに、心はまだそこまで強靭でないことは、香彩自身が一番良く分かっていた。 (それに……)  つい先程まで蒼竜と繋がっていた場所の、何とも言えない違和感が、居た堪れなさに拍車を掛けている。  まるでまだ蒼竜が挿入(はい)っているみたいだ、などと考えてしまって、香彩は心の中で、わぁと叫びながら勢い良く(かぶり)を振った。 (──もしかして竜紅人)  だから朝も身体を繋げたのだろうか。  そんなことをふと、香彩は思う。  昨日の神桜の件について、報告をする為に皇宮母屋(こうきゅうぼや)へ上がるか、召致されるか、どちらかになることは彼もよく知っていただろうから。  胎内(なか)に出された神気の塊は、たとえ洗い流したとしても、身体の奥にその気配を残す。  『読む』ことや『読み解く』ことを得意とする者や敏感な者は、元々本人が持つ気配の中に、紛れるようにして存在する神気を『読み取る』ことが出来るだろう。  それはまさに牽制であり、この身体が竜紅人のものであるという印だ。 (……あの人も、分かるんだろうな……)  気配を読むことに長けているあの人のことだ。きっともうこの渡床に立っている時点で、この身の内にある神気も読んでいるはずだ。  香彩はもう何度目かのため息をつきながら、皇宮母屋(こうきゅうぼや)へゆっくりと一歩、また一歩と歩き出した。  皇宮母屋(こうきゅうぼや)の頑丈な扉の前に立つと、それはひとりでに開き始める。  常に大司徒(だいしと)の強力な結界が張られ、呼ばれた者、召致したもの以外、入ることの許されない場所だ。  三層から成るこの楼閣は、一層目には国の祀りの全てを行う潔斎の場が。二層目には大宰(だいさい)政務室とその私室が。そして三層目には国主の政務室と私室が存在する。  大宰(だいさい)と国主の政務室は中枢楼閣の六層目にもあるが、国行事前になると潔斎の場での政務が増える為か、こちらで過ごすことが多い。  皇宮母屋(こうきゅうぼや)内に足を踏み入れれば、どんな『力』が作用しているのか分からないが、大きな扉がゆっくりと閉まっていく。やがて背後で扉閉の音がやけに大きく響いた気がして、香彩は身を竦ませた。  同時に辺りを漂う、洗練された澱みのない空気に、背筋を叩かれたかのような気がして、香彩は前を向く。  普段であれば固く閉じられている潔斎の場の引き戸が、国行事の前仕度の為か、今は大きく開かれていた。  場の中央付近の床に、紅筆で描かれた四つの陣が見える。それらは門を護る四神達の陣だ。  そして四神の陣の中央、潔斎の場の真中(しんちゅう)ともいえる場所には、白い敷包布(しきほうふ)が敷かれていた。その四隅には『場』を浄める為なのか、神気の気配のする榊の枝が挿されている。  司徒(しと)という立場で、これまで幾度も国行事を見てきた香彩だったが、それは初めて見る光景だった。  雨神(うじん)の儀で使われることのない、陣や敷包布(しきほうふ)を見て疑問に思っていた香彩は、ふと頭の中で浮かんだある答えに、顔を赤らめた。  すぐに潔斎の場から視線を逸らして、二層目へと向かう階段へ向かう。一歩、段を上る為の足を踏み出して、香彩は歩みを止めてしまった。  頭の中に浮かんでくるのは、先程の潔斎の場の光景だ。自然と視線が再びそちらを向いてしまって、香彩はいま見た光景を頭から追い出そうとでもするように、(かぶり)を振った。  意を決したかのように一歩、また一歩と階段を踏み締める。だがやはり香彩の脳裏には、潔斎の場に此れ見よがしとばかりに敷かれた、白い敷包布(しきほうふ)の光景が浮かんで離れてくれない。 (──あの場所で)  自分は、目合うのだ。  四神の陣の中央で、敷包布に横たわる自分を想像する。  それはいつか必ず訪れる未来であり、潔斎の場でその準備がされている事実に、香彩の階段の手摺を持つ手がふるりと震えた。  そんな震えを誤魔化すように、ぐっと手に力を入れる。  一体それは何に対する震えなのか。  分からないままに、やがてそれは収まり、香彩は安堵の息をついた。  

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