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第82話 大宰私室にて

 まるで頭の中を、様々な感情で掻き回される様だと、香彩(かさい)は思った。感じる心すら麻痺でも起こしたかのように、徐々に愚鈍になっていく。  あの光景に自分は、何を考え、何を思うのか。   拒否のようで拒否ではなく。  拒絶のようでそうではない。  自分の心をどう捉えていいのか分からないまま、ただ階段を上がる度に感じる、今朝与えられた下半身への違和感だけが、紛れもない現実のことのように思えた。  階段を上り切って二層目の、紅の敷物が敷かれた床に足を付ける。  渡床(わたりどの)とは違う柔らかさを、(くつ)越しに感じた時だった。  何かの『力』が働いていたのだろうか。  今まで何も感じていなかったことが不思議な程の、あの人の強い気配を感じ取って、香彩の背筋を、ぞくりとした何かが駆け上がる。 「……っ」  思わず上がりそうになる声を、何とか抑え込んだ。まるで背後から肉食獣に、鋭い目付きで見られているかのような、そんな錯覚を覚える。次第に怖気立つ身体を心を、奮い起たせながらも、足は日常の習慣だとばかりに自然に歩き出すのだ。  大宰(だいさい)私室に向かって。  いつものことだと、香彩は自分に言い聞かせる。  いつもあの人が自分に召致を……呼び付ける時には政務室にいた試しがないのだ。  大宰私室は、政務室の隣にある。  極限られた者しか入ることの許されない部屋だと知ったのは、果たしていつだったか。  一時(いっとき)大司徒(だいしと)私室から大宰私室(ここ)へ、住まい替えをした時のことを香彩はふと思い出す。  その時に聞いたのだろうか。記憶が定かではない。  (のち)に香彩が遅刻の常習犯と化した為に、再び大司徒(だいしと)私室に住まい替えをした。  竜紅人(りゅこうと)があの人に頼まれて、紅麗の例の噂が出るまでの間、わざわざ六層目まで上って香彩を起こしに来てたのは記憶に新しい。 (……ほんの一時期だけだけど、住んでいた部屋なのに)   腹を空かせた獅子か虎の巣穴に、わざわざ自ら供物を捧げに行くような気分になるのは、何故だろう。  何も知らなければ、こんな気分にはならなかったはずだ。呼ばれたことがただ面倒なのだと、ほんの少し悪態をつくだけで、いつもの日常を送っていたはずだ。    香彩はそんなことを思いながらも、大宰(だいさい)私室の戸を軽く叩く。  ここまで来てしまった以上、たとえ心内で愚痴を言って葛藤していても仕方ない。成すべきことを成さないといけない。 (……報告をして、調査許可貰わなきゃ……)   国にある他の神桜がどうなっているのか。  本体は無事なのか。  流石に本体のある南の山中には、別の縛魔師が向かうだろうが、せめてこの周辺の神桜だけでも『()て』おきたい。  香彩はもう一度、戸を叩く。  いつもならば「ああ」だの、「入れ」だの、何かしらある(いら)えは全くなく、部屋の中は静かなままだった。  小さく息をついた香彩は、いまではすっかりあの人専用と化してしまった大宰(だいさい)私室に、勝手知ったる何とやらで室内に入る。 「……紫雨(むらさめ)……?」    そっと呼んで見ても、やはり(いら)えは返って来ない。  私室は何処も似たようなものが置かれている。  質素な造りの卓子(つくえ)や椅子、姿見や衣装櫃(いしょうひつ)などがそれだ。だがここには大司徒(だいしと)私室にはない、天井に付くほどの大きな本棚が三つあった。専門的な題名の本が多く、そういえば竜紅人(りゅこうと)がここの本もよく、大司冠(だいしこう)館へ持っていっていたことを思い出す。持っていってもいいが元に戻せと、紫雨と言い合いになるのは、もはや日常茶飯事だ。  そして私室の一番奥。  一部の本棚に隠れるようにして、天蓋付きの大きな寝台がある。  天蓋は下ろされていないが、そこに横たわる大きな身体を見つけて、香彩は小さく息をついた。  耳をすませば、規則正しい寝息が聞こえてくる。  人を呼び付けておいて、自分は仮眠を取ってるなんてどういうことだろう。そう心内で思ったが、召致の下知(げち)をいつ寧《ねい》に下したのか、また下してからどれ程の時間が経っていたのか定かではない。 (……それに……)   確か紫雨が蒼竜屋敷を訪れたのは、前日の真夜中だ。それから皇宮母屋(こうきゅうぼや)へと戻り、通常の政務をこなしながら、儀式の『場』を整えていたのなら。 (……あまり寝てない……よね)    香彩は紫雨を起こさないように、寝台に備え付けの丸椅子に座った。静かな大宰(だいさい)私室の空間に、衣擦れの音がやけに大きく聞こえたような気がして、香彩はじっと紫雨を見る。  規則正しい寝息がして、ほっと胸を撫で下ろした。 (さて……どうしよう)   書き置きでも卓子(つくえ)の上に置いて、一度戻った方がいいのだろうか。自分を呼び付けておきながら、仮眠を取っているということは、きっと疲れているのだ。  香彩は小さく息をつく。  そういえば寝ている紫雨を見るのは、いつ振りぐらいだろうか。  仰向けで眠る彼は、とても穏やかに見えた。  だが一度(ひとたび)瞳を(ひら)ければそれは、自分と同じ色合いとは思えない程の、深みのある翠色をしている。  彫りが深く粗削りな顔立ちと相俟って、見る者に強く迫るかのような力強さと鋭さが、その瞳にはあった。  いまはその勁い目の光は、目蓋によって抑えられている。規則正しく寝息を立てている姿は、どこか幼さを感じさせるようで、香彩はくすりと笑った。  その声に反応したのか、紫雨は寝返りを打つ。 「……紫雨……?」  椅子に座っている香彩の方を向いた彼に対して、香彩はもう一度呼び掛けてみた。  だがやはり返ってくるのは、穏やかな寝息だった。  寝返りを打った所為なのか、紫雨の金糸のような綺麗な長い髪の一筋が、彼の顔に掛かる。  日頃の習慣とは恐ろしい。  目の前で眠る彼と、将来どういったことをするのか、頭の片隅で分かっていながらも、彼の眠りを邪魔しそうな髪を払いのけようと、香彩は椅子から立ち上がった。  幼い時に、そして今も時々、彼が自分にしてくれた時のように。  一筋の髪を顔からそっと払いのける為に、指の背でゆっくりと彼の顔を滑らせていく。    その手首を掴まれたと思った、刹那。  驚く暇もなく。  紫雨の眠る姿を見ていたはずの視界は。  気付けば、大宰私室の天井を映していた……。

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