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第83話 紫雨 其の一

 背中に寝台の敷包布の感触と、今まで眠っていたはずの紫雨(むらさめ)の体温が伝わってくる。  何が起こったのか、理解が追い付かないまま、天井を映していた視界に、紫雨が映り込んだ。  自分と同じ深翠の瞳と目が合う。  ほんの一瞬のことだった。  ぎらついた焔を双眸の奥に見た気がして、香彩(かさい)の背中をぞくりとしたものが駆け上がる。  冷たい汗が、つつと背に流れる感触がして、香彩は無意識の内に奥歯を噛み締めた。 (──この体勢は……だめ、だ)  身体が強張ってしまう。  もう昔のことだというのに、与えられた息苦しさを思い出してしまう。 「……っ!」  片手の手首もまだ掴まれ、寝台の敷包布に縫い付けられたままだ。  逃げ出したい。  そんなことを思う。  だが身動きをしたくても、手首の痛みと深翠が持つ鋭い目つき、そして未だに心の奥底に巣食う傷に縛られて、動くことが出来ない。  はくはく、と。  空気を求めて、香彩が口を動かした時だった。  鋭い眼光が和らいだと思いきや、紫雨(むらさめ)は小さなため息をついたのだ。 「──何だお前か。気配が変わっていたから、賊の輩かと思ったぞ。香彩」 「……賊って……!」  ようやく手首を離されて、香彩は紫雨に対して、そう毒付くことが出来た。  香彩を組み敷く形で身体を押さえていた紫雨は、くつくつと笑いながら香彩の上から退き、寝台に腰掛けるように座る。  つられるようにして起き上がった香彩は、恨みがましい目を紫雨に向けた。 「ここ、誰でも入れるわけじゃないし。そういう結界張ったの紫雨じゃないか」 「確かにそうだがな、香彩。俺より『力』が強い者なら、ここの結界も無効になる。年年歳歳、酷使した『力』は減り続けるものだ。その内、誰でも入れるようになってしまうかもしれんな」 「……」  「四神も食べ滓のような『力』よりも、肉汁溢れる新鮮な『力』の方が、働きがいがあるというものよ」  自虐的な物言いは、紫雨の癖のようなものだと香彩は分かっている。いつもなら聞き流す香彩だったが、昔の傷を刺激された後とあって、紫雨、と呼ぶ声は自然と厳しいものになった。  一瞬の間を空けて、再び紫雨が面白そうに、くつくつと笑う。 「……悪かった。そう怒るな、香彩」  香彩の手を包み込んでしまいそうな大きな手が、頭に差し掛かったと思いきや、頭の上でぽんぽんと弾む。  その温かさや視線の優しさに流されそうになるところを、香彩は(かぶり)を振って我を取り戻した。 「全然悪かったって思ってないでしょう?」 「……そうでもないさ。お前を呼んだというのに、眠っていて済まなかったな」  淡く、そして愛しいのだと言わんばかりに笑みを浮かべる紫雨に、そういうことではないのだと思いつつも、ついに何も言えなくなってしまった香彩だ。  そんな顔に、やはり翳りが見える。  香彩は紫雨の隣に座ると、そっと額に触れた。 「……疲れて、る?」  香彩の言葉に、息を詰める紫雨の様子が伝わってくる。だがそれはほんの僅かな時間だった。息を吐く紫雨の表情が、先程よりも柔らかいものになる。 「……ほんの少しだけだ。悪いがしばらくそうしててくれるか? お前の手は癒される」  こくりと無言で香彩が頷けば、紫雨は深く息をついて目を閉じた。  自分を組み敷いた時とは打って変わった表情に、そんなに安らぐものなのだろうかと香彩は思う。  自分は何もしていない。『力』も何も使っていない。ただ手を額に当てているだけだ。それだというのに紫雨は言うのだ。  疲れが消えて行くようだ、と。  そういえば、と香彩はふと思い出す。  先日、酒と眠り薬の影響で眩暈がし、気分を悪くしていた時に、触れられた額の心地良さを。大きな手が額を包み、骨張った指が頭皮を掠めただけで、酷く安心したのを覚えている。ああ、大丈夫なのだと、ほんの少しだけ縋ってもいいのだと思った。    大宰私室の中を静寂が占める。  聞こえるのは、お互いの穏やかな息遣いのみ。  ふとくつくつとした低い笑い声が、部屋の中の空気を震わせた。 「……この前とは、反対だな」  紫雨の言葉に香彩の身体が、ぴくりと動く。いまこの瞬間に、同じあの日のことを、紫雨も思い出していたのだと考えただけで、妙に気恥ずかしく思えて仕方ない。 「……何のこと?」  だから敢えて香彩は(しら)を切った。  何となく同じものを思い出していたのだと、認めたくなかったのだ。 「先日、お前を起こしに行った時だ」  面白そうに喉の奥で笑いながら、紫雨が言う。香彩の思うことなど、全てお見通しだと言わんばかりの笑い方だった。  香彩は息を詰める。  気恥ずかしいとも悔しいとも嬉しいとも違う、複雑な苦しさが心の中を占めていく。 「……」  無言のまま香彩は、肯定の意を示すかのように、彼の言葉に返事でもするかのように、ゆっくりと一度まばたきをした。  同じ時に同じものを思い出す気恥ずかしさよりも、もっと居た堪れないものをあの時、紫雨に見られてしまっていることを思い出したのだ。 「──しかし……」  くつくつと笑いながら発した美声が、一段と低い。 「あの時に見た、あの見事な所有印。やはり竜紅人のものか。いずれそういうことになるだろうと覚悟はしていたが……複雑なものだ」

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