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第84話 紫雨 其の二

「……」  そしてまた同じものを思い出している。その何とも言えない気恥ずかしさと、あの時の唇痕が誰のものか、紫雨(むらさめ)の口から聞かされる居た堪れなさに、香彩(かさい)は、ごめん……と謝りながら紫雨の額から手を離そうとした。    その手に重なるのは、香彩の手の甲をすっぽりと覆い尽くしてしまいそうな、大きな手だ。  僅かにびくりと香彩の身体が震えたのを、その手を通して紫雨には分かってしまったのか、彼は小さく息をついた。 「謝る必要はない。……責めているわけではないのだから、そう震えて固くなるな。──お前達を幼い頃からずっと見てきた者からすれば、いつかそんな日が来るのだろうと、ずっと思っていた。特にお前は小さい頃から、俺よりも竜紅人(りゅこうと)、竜紅人、だったからな」  紫雨の言葉に、きょとんとした表情を浮かべていた香彩は、頭の中でその言葉の意味を理解した瞬間に、顔を赤らめた。 「……そんなに、竜紅人、言ってなかったと思うんだけど」  少し不機嫌な口調で話す香彩に、紫雨はそれは面白そうに喉奥で笑うのだ。  やがて左右の口角を上げる、紫雨にしては珍しい笑い方に、そんなに面白いものなのかと、余計に機嫌の悪い顔をする香彩だ。 「よく言う。俺がたまの非番の時でも、りゅうはどこ? りゅうはどこ? と俺の手を引っ張りながら竜紅人を探し回ったことを、昨日のことのように覚えているぞ」 「……」   香彩は頭を抱えたくなった。  言われれば、そういえばそんなこともあったようなと思うほど、香彩にとってもう遠い記憶の話だ。だが紫雨にとってはそうではないらしい。  不機嫌だった顔は、やがてげんなりとした表情へと変わる。 「美味しいお八つは、竜紅人にも食べさせるんだと、半分はお前が食べ、もう半分は食事処(しょくじどころ)の者か咲蘭(さくらん)のやつに丁寧に包んで貰って、竜紅人に渡しに行ったこともあったな」  あった、と香彩は心内で返事をした。  それはとてもよく覚えている。何を渡したのかはもう記憶が曖昧だが、確かに美味しかったから竜紅人に食べさせるんだと、渡しに言ったことは覚えていた。しかも一度や二度ではなかったように思う。  包んで貰った食べ物を差し出せば、まだ幼竜の姿だった竜紅人が、苦笑しながらもその翠色の目を細めて、喜んでくれたのを覚えている。  いま思えばとんでもないものを食べさせたものだ。  竜紅人の優しさか、嫌がる素振りなど一切見せず、食べさせてくれとばかりに、立派な牙の生えた口を開けてくれたのだ。  一度思い出してしまえば、幼い頃の世界の中心は、まさに紫雨が先程言った通り、竜紅人だった。彼の名前を呼ばない日々などあったのだろうかと思うほど、一番近くにいたのは竜紅人だったのだ。  あの頃はまだ幼かった為か、恋慕の情など分からなかった。だが竜紅人が他の者と仲良く話している姿を見ると、どこか不機嫌になる自分がいた。また姿が見えないと寂しく思った。きっとあの頃から、ある種の独占欲のようなものを、竜紅人に対して持っていたのだろう。  顔が紅潮する香彩を、くつくつと笑いながら、そういえばこういうこともあったな、と紫雨が言う。 「……眠る時に尾を離さなかったな。それも昨日のことのように覚えている」 「──何、それ?」 「ん? 覚えてないか? お前は小さい時、竜紅人の尾を握ると安心するのか、ずっと握って寝てたんだ」  「……そう、なん……だ」   全く覚えていないと、香彩は思った。  だが、ああだからなのかと、納得すると同時にその顔を更に赤らめる。  竜尾を舐めてと口元に宛がわれた時、そして尾の先端に責め立てられた時、感じたのは、未知のものを体内に収める恐ろしさではなく、根拠のない酷い安堵感だった。  その理由をいまこの場所で知ることとなり、そして竜尾にされたことを、紫雨の前で思い出す羽目になってしまって、どうも居た堪れない気持ちになる。  香彩は紫雨から視線を逸らした。  だがこちらを向けとばかりに、頬に添えられた手。  その温かさに少し戸惑いながらも、香彩は再び紫雨を見る。  見知った相手の穏やかな眼差しが、そこにあった。だが自分と同じ深翠の奥に、不意にあるかないかの違和感のようなものを、香彩は感じ取る。  それが何なのか、何を示すのか分からないまま。  済まない、と。  低く、真摯な紫雨の声色が、心を揺さぶる。 「──俺の存在がお前達の翳りに成らぬことを願うばかりだ。だが……」  香彩は目を見張った。  だが彼が何を言ったのか、聞いていたというのにどうしても頭に入ってこない。  言葉も、感じた違和感も、理解出来ないまま、不意にぞくりとしたものが背筋を駆け上がる。  頬に添えるように触れていた紫雨の骨張った指が、まるで心得ているとばかりに、香彩の耳裏を軽く引っ掻いたのだ。 「──っ!」   粟立つ感情と色付く感情、そして困惑の感情が頭の中で渦を巻きながらも、香彩は奥歯を噛み締めて声を殺す。  その仕草に、どうしても思い出してしまう、たったひとりがいる。だが今、この瞬間に思い出したくないと思ってしまう、たったひとりがいる。耳裏を引っ掻く仕草だけで、まるで躾られたかのように鈍く痛む尾骶が、何とも憎らしいと香彩が思った、その時だ。  ──春の宵に咲く花のように、お前を想っている。  部屋の中で紫雨の低い声が、やけに大きく響いた気がした。  香彩は、見る。  見たこともない笑みに、唇を歪めている男の面差しを。 「……一度俺の所為で失いかけたお前を、真綿で包み込むようにして育てた。吹き寄せる雨風に折れてしまわぬように、強すぎる陽射しに灼かれてしまわぬように、長い間この手の内で大切に慈しんできた花蕾だ」  紫雨の手の親指が、まあるく香彩の頬の輪郭を(なぞ)る。 「それでは駄目になると、慈しむこの両腕からお前を連れ出したのは竜紅人だ。その時思った。お前を咲かせ、手折るのは、きっと竜紅人なのだろうと」  香彩を見る深翠の瞳に、深みが増す。  その奥に見えるのは、見覚えのある、焔。 「だが……ほんの一時(いっとき)の夢であっても、慈しんだ花が手元に戻るとあれば、何としても離したくないのだと」  ──心を砕くのは、間違いか……?  

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