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第85話 一夜の劣情 其の一

「……むら……さめ……?」  それは一体、どういう意味と聞きたいのに、言葉にならない。だが言葉に出来たところで、明確な答えが貰えるなど思っていない。  何故なら紫雨(むらさめ)は、あの問いかけに対して、答えなど求めていないからだ。  何か紫雨の中で、既に答えが出ているのだと理解は出来るというのに、彼の言葉がどうしても頭の中に入って来ない。  どこかぼぉうとした頭で紫雨を見つめながら、されるがままになっている。  頬を(なぞ)っていた親指の腹が、色付いた唇に触れた途端、今までに感じたことのないような、ぞくりとしたものが背筋を駆け上がった。ほんの一瞬だが、ふるりと身体を震わせたものは、果たして官能だけだったのか。 「……ら……さめ……」  急に喉の水分が奪われた気がして、掠れた声しか出ない。  それでも香彩(かさい)が呼べば、紫雨は笑みを更に深くした。 「一時(いっとき)の……ほんの一時(いっとき)一夜の夢物語よ。ならばいっそ廃退的に酔い痴れてみるのも、一興」  成熟した男の色香を匂わせる低い声色が、大宰(だいさい)私室に響く。  通い慣れた私室だ。  一時期は自分も住んでいた私室だ。 (……なのにどうして)   今は知らない部屋のように感じてしまうのだろうと、は思う。  目の前の男の部屋なのだ、と。  いずれ自ら足を開き、胎内(なか)を暴く男の部屋なのだと。  一度そんな風に意識してしまえば、いつものように気軽に私室に入り、こうして寝台に座っていることが、とても愚かなことに思えてくる。  だが心のどこかで、そんなはずがないと、あるわけがないと、甘い期待に縋り付いていたかったのかもしれない。 (……だから……)   唇を(なぞ)る親指の腹の感触に粟立つものを感じて、香彩の心は打ちのめされる。  そんな風に、唇に触れてくる男に。  触れられた自分に。    ──ほんの一時(いっとき)の夢であっても、慈しんだ花が手元に戻るとあれば、何としても離したくないのだと。  ──心を砕くのは、間違いか……?  先程の紫雨の言葉が、ふと香彩の脳裏を(よぎ)る。  その言葉の意味を、理解できないまま。  紫雨、と。  再び問いかけようとした声を。  漏れる吐息ごと塞いだ熱さが、相手の唇だった……。 「──ぁ……」  それは触れるだけのもの。  名残惜しく軽く音を立てて、それが離れていくのと同時に、紫雨が寝台から立ち上がった。  歩く後ろ姿を、揺れる金糸のような髪を、まだぼぉうとした目で追う。  報告を、という声を遠い所で聞いている心地になって、香彩は(かぶり)を振る。  どこかまだ靄がかかったような頭をなんとか働かせて、香彩は昨日起きた神桜のことを話した。  紫雨はそれを格子窓の桟枠に身を凭れさせ、腕を組み、時折目を閉じて聞いている。香彩が話し終えた後も、紫雨は何かを考えているのか、その体勢のまま微動だにしなかった。  やがて、くつくつと喉奥で低く笑う声が聞こえてくる。  先程とは違った嘲りを含む声色に、香彩は総毛立つような思いがした。 「……雨が止んだ原因は成程、それか。真竜とはいえ、やはり同朋が可愛いらしい」  勝手なことだ、と吐き捨てるように言いながら、紫雨は格子窓を少し開け、空の様子を伺う。  蒼竜屋敷にあった神桜の花片が消え、無残にも枝が地に散らばったあの時以降、雨は降る気配を見せなかった。  それは次の国行事である『雨神(うじん)の儀』を、いま起こっている神桜の件が治まるまで延期せよと、『上』が言ってるのも同然だった。  『雨神(うじん)の儀』は兆しの長雨が降り、やがて覚醒の颶風が吹き荒れた時より、数えて七日後の早朝が吉日とされている。  その始まりともいえる長雨が止んだのだ。  神桜の件が治まれば、雨になるのかそれとも颶風となるのか分からない。 「──神桜の件、調べたいのだろう?」  紫雨の言葉に香彩は、無言で頷く。 「本当は本体の所に行って何日か『()』たいんだけど、流石にそれは許して貰えなさそうだから、せめてこの城周辺の神桜だけでもって思って」 「賢明だな。本体には別の縛魔師を派遣する。何もなければ行ってこいと言いたいところだが……『成人の儀』が優先だ」  紫雨の口から聞く『成人の儀』という言葉に、香彩の身体が強張る。 「今日を含めて二日が期限だ、香彩」 「期限……」 「ああ。今は雨は止んでいるが、今後どうなるか分からない。内に入った四神を馴染ませる期間も必要となってくる。四神とはいえ体内からすれは異物だ。どんな弊害が出るか分からんからな。次の国行事まで間に合わせるとなれば、本当なら神桜のことなど他の縛魔師に任せ、今すぐにでも儀式を執り行いたいぐらいだ」 「……間に合わ、せる……?」  ぼそりと香彩が呟いた。  それは紫雨の耳にも届いたのだろう。 「……まさか竜紅人(りゅこうと)から何も聞いていないのか?」

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