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第86話 一夜の劣情 其の二
途端に紫雨 の表情が険しくなる。
香彩 は慌てて首を横に振った。
竜紅人 は話そうとしていたのだ。だがそういえば肝心な部分は、竜紅人から聞けていないのだと香彩は思い返す。
何故、桜香 の所為で成人の儀が早まってしまったのか。
そして。
──全て俺の所為だ。全て……俺の嫉妬が……俺の心が招いたことだ……。
──俺が、お前の胎内 に……──!
思い出される竜紅人の言葉。
あの時彼は、何か言おうとしていた。
だがあの後すぐに神桜の件があって、今に至ってしまっている。
(……僕の胎内 に、何か、ある……の?)
香彩は無意識の内に、自身の腹に触れる。
ほんのつい先程まで蒼竜がいた場所だ。
(──今夜、仕事が終わったら)
どちらの部屋に戻るのか分からないけれども、ちゃんと竜紅人から話を聞こうと、香彩は思った。
成人の儀に何故、紫雨がここまで急ごうとするのか、その答えがまさにそれなのだろうと、香彩はなんとなくだが理解はしていたのだ。
大宰 私室に大きなため息が響く。
いつの間にか自身の思考の中に入っていた香彩が、何処か忌々しげな紫雨のため息に、ふと顔を上げたその時だ。
腕を取られ、引き寄せられる。
「──ぁ……っ!」
気付けば一回りほど大きな体格の、腕の中にいた。
驚きに発した声は、まるで噛み付くような接吻 によって封じられる。
「……んっ」
まるで堕ちて行くようだと、香彩は頭の隅でそんなことを思う。
先程から何処か茫然としたままの心は、大切なものを失ってしまった悲しみを漠然と感じていた。同時に得難いものをようやく得たような、悦びに似た感情も相俟って、香彩の心をとても複雑に掻き混ぜる。
(……僕は……竜紅人が好きだ)
(だけど……)
竜紅人と紫雨。
どちらも自分にとって大事な人だ。
だが自身の心の中にあるふたりの位置が、明らかに違うのだと今更ながらに思い知る。思い知った上で急速に狭まる紫雨との距離感に、ただでさえ茫然としていた心が、何も考えられなくなりそうだった。
──俺の存在がお前達の翳りに成らぬことを願うばかりだ。だが……。
──ほんの一時 一夜の夢物語よ。ならばいっそ廃退的に酔い痴れてみるのも、一興。
紫雨が先程言った言葉を、不意に思い出す。
彼が何を思ってそんなことを言ったのか、分からないまま。
そんな紫雨を見て、自分はどう思っているのか、それすらも分からないまま。
ただ、ただ翻弄される。
「……ふ、っ……」
その舌づかいは、まるで本人の気性を顕しているかのように、どこか意地が悪かった。
なかなか応 えようとしなかった香彩の硬くなった舌を、紫雨が舌先を使って起き上がらせようとする。表面をそして裏側を熱い舌で擦られて、おずおずと応 えようと伸ばし絡めようとした舌を、紫雨は敢えてそれを外し、上顎の襞を、そして歯列を舐めるのだ。
「……んんっ……」
やがて歯列を割って、舌の先が触れ合い熱を交わせば、それは禁断の甘露へと変わる。艶かしい睦み合いに、心が恍惚を孕んだ熱に蕩けるようだった。追い掛けるように、応え誘うように、そっと、口内を犯す熱い舌を舐め上げれば、くく、と喉奥だけで笑うような音が聞こえてくる。
その熱さに香彩はたまらず接吻 の合間に、切ない呼吸を洩らした。
「……ぁ、ふ……ぁ……んっ」
舌を吸われ身体の奥が蕩けていくような感覚に、香彩は無意識の内に紫雨の肩にしがみつく。
まるでそれが何かの合図だったかのように、紫雨は容赦なく何度も角度を変えては、香彩の口内を蹂躙する。
それはまさに香彩の内に眠る官能を、呼び覚まそうとするような接吻 だった。
ただでさえ何も考えることが出来なかった頭が、呼び起こされつつある熱で、ぼぉうとする。
一度離された唇は、息も絶え絶えなところを丸ごと食らうかのように、角度を変えて口付けられた。
その熱さに、箍が外れたような情熱的な接吻 に、香彩は想われてきた年数を思う。
──春の宵に咲く花のように、お前を想っている。
自分が生まれたのは、春の宵だったと聞いている。
神桜が月映えに彩られ、甘い芳香が漂う中、風に煽られて降り頻る花片の中で、生まれた生命なのだと。
春を迎え、神桜が花開き、甘い香りを放つ春の宵ごとに、その想いを誰にも知られることなく、秘めて積み重ねてきたのなら。
いつか自分にとって、一番身近な者に手折られることを知りながら、慈しみ見守ってきたのなら。
たった一夜。
たった一夜の与えられた機会に、その熱が激しさを増すのは、当然のことだろう。
今はまだその片鱗の一端を垣間見ただけだ。
はぁ……、と。
荒い息をついて、唇が離れる。
「……香彩」
熱い吐息を漏らしながら、離れた互いを名残惜しそうに繋ぐ、透明な糸が残る唇から、低く掠れた官能的な声色が零れる。
吐息が唇に掛かるほど近くで名前を呼ばれ、香彩が薄目を開けば、欲の焔に灼かれた深翠の目が見えた。
やがてそれは、理性という名前の膜に覆われて、見えなくなる。
だが香彩は一度見てしまったその欲焔の目を、そしてそれが自分に向けられていたのだという事実を、二度と忘れることが出来ないだろうと思った。
再び甘い息を、香彩はつく。
「……んっ……」
こくりと喉を鳴らして、口の中に僅かに残る、どちらのものとも知れない唾液を嚥下する。
そんな香彩の様子を見ていた紫雨は、喉奥でくつくつと笑うと、香彩の額に触れるだけの接吻 を落とした。
いつも通りのそれに、固くなっていた香彩の身体が弛緩する。
「……先程言った通り、期限は二日だ。だが事態が動き次第、この期限は無いものと思え。──もし調査に出ているのであれば迎えに行く。そのまま儀式に移るだろうから……」
心積もりはしておくことだ、香彩。
欲をすっかり覆い隠した紫雨の、冴え冴えと通る美声が鼓膜を擽る。
その声の冷たさとは裏腹に、目蓋や鼻梁、そしてすっかり色付いた唇に、落とされる接吻 は酷く甘い。
甘いと感じてしまう自分が何故なのか分からないまま、香彩は紫雨の言葉に、無言でこくりと頷いたのだ。
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