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第87話 領域 其の一

 気持ちの整理が付かないまま、そして頭にまるで霧でもかかったような、不思議な気持ちのまま、香彩(かさい)は大宰私室を後にした。  地に足が付かないまま、必死に足を進めている。確かにここに自分の存在があるはずだというのに、どこか別の世界を歩いているような、且つそれを高い場所から、別の自分が見ているかのような、どこか落ち着かない心持ちのまま、通り掛かるのは潔斎の場だった。  景色を写し出すほどに磨かれた木目の床には、紅筆で見事に描かれた四つの四神の陣が見える。  そして陣の中央に敷かれた。白い敷包布。  ──今日を含めて二日が期限だ、香彩。  ふと思い出されるのは紫雨(むらさめ)の言葉だ。 (……二日後) (二日後に……ぼくは……)  この場所で契りを交わす。  自ら足を開いて男を受け入れ、四神をこの身に宿す。  そう心の中で思ってみても、初めに陣と敷包布を見たような衝撃や、頭の中を掻き回される様な感情はもう湧いてこない。  心は不思議と凪いでいた。  そんな妙な気持ちを抱えたまま香彩は、ずっと気になっていた中枢楼閣にある神桜と、城外にある神桜を見て回った。  樹々の幹に触れ、その樹に宿された神気を、丁寧に読み解く。  火神(ひのかみ)とも呼ばれている紅竜の神気らしい、生き生きとした温かさを感じる。  同じ真竜であっても、その身体に宿るものが違えば、これほどまでに持つ神気の印象や感じ方が変わるのかと、香彩は改めて思った。 (……僕の知っている神気は……)  譬えるならば冬の日差しだ。きん、とした冬の澄み切った空気の中に感じる、仄かな温かさ。恋しくなるような、温かさだった。 (……りゅう……)  樹の幹に触れながらも、別の真竜のことを考えている姿を、もしも紅竜が知ったなら、さぞ呆れただろうか。  香彩は小さく息をついて、幹から手を離す。  この辺りの神桜には、特に異変もなく、変わった気配も感じることはなかった。  ()()は蒼竜屋敷の神桜だけを狙ったのだろうか。 (……でもどうして分身を狙ったんだろう?)  仕事場の陰陽屏に戻ろうと歩き始めて、ふと香彩はそんなことを思った。  この国にある神桜は、紅竜が力を分け与えた分身のようなものだ。その本体は南の国境にある社に祀られているが、実は蒼竜屋敷とそんなに離れているわけではない。  噎せ返るほどの濃い土の匂いのする()()には、飛翔能力があった。  飛べばより神気の強い本体がすぐ近くにあるというのに、何故わざわざ分身を狙ったのか。 (……わからない)  香彩は今すぐに、神桜の本体を調べたくて堪らなくなった。誓願し神桜を……紅竜を降ろせば、もしかすれば何か分かるかもしれない。  だが南の社には、他の縛魔師を派遣すると紫雨は言ったのだ。きっと数日待てば、報告が上がってくるだろう。 「……彩様、香彩様?」  そうして考えている内に、いつの間にか陰陽屏の前にまで、香彩は戻って来ていた。  呼ばれてふと顔を上げれば、自分よりも頭ひとつ分ほど身長の高い副官と、視線がぶつかる。 「……ごめん、(ねい)。ちょっと考え事、してた」  寧は香彩の言葉に深くため息をついたかと思うと、お耳を、と小さな声で言うのだ。  寧に少し近付けば、彼は少し屈んで香彩の耳にそっと口を寄せる。 「──(りょう)様が内密に陰陽屏におみえになりまして……少憩室の方で香彩様をお待ちです」 「療が? 少憩室で?」  こくりと寧が無言で頷く。 「いつもと少し違うご様子でしたので、そちらの部屋に」 「……」  内密に、という時点で何かあったのだと、言っているのも同義だった。  普段の療ならば、陰陽屏に出向く際に、こんな回りくどいことはしないだろう。  寧に礼を言い、香彩は陰陽屏の隣にある大司徒(だいしと)政務室の戸を開ける。  少憩室は大司徒(だいしと)司徒(しと)専用のいわゆる仮眠室のようなところだ。大司徒(だいしと)政務室の奥にその入り口がある。  療……と、声掛けをして香彩は、少憩室の戸を開けて中に入る。  ──そこには、闇が広がっていた……。

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