88 / 409

第88話 領域 其の二

 時は少し遡る。  それは香彩(かさい)と竜形になった竜紅人(りゅこうと)が、中枢楼閣に戻ってきた日の夜のこと。   「……っ!」    息のつまるような奇妙な感覚を覚え、(りょう)は飛び起きた。    じとりとした嫌な汗が額を、背中を伝う。    今、意識のあるこの空間が、現実なのかそれとも夢であるのか、分からずにいた。  恐る恐る視線を動かすと、水差しが目に入る。それは喉が渇いて目が覚めた時に、いつでも飲めるようにと、寝る前に療自身が用意しているものだった。  いつもと変わらない景色を見付けて安心したのか、療は詰めていた息を吐く。  無意識のうちに、それは震えていた。  妙な夢、だった。  何もない暗闇の中で、どこからともなく女のすすり泣く声が聞こえる。女はしばらく泣いていたかと思うと、断末魔のような悲鳴を上げる。そんな夢。 (……あの時見たものと、一緒だ……!)  紅麗の奥座敷。  桜香(おうか)の部屋の中で見た『誰かの領域』と同じもの。  なんとか深く息をついて、整える。  ひどく喉が渇いた。  療は水差しに手を伸ばすと、乱暴にそれを取り、直接口をつけて一気に飲み干した。  水は冷えていた。胃の中に広がる冷たさを感じることができて、療はようやく落ち着く。  外はどうやらまだ暗く、朝鳥の鳴く声はまだ聞こえてこない。夜明けまでまだ時間はあるようだ。  静かに引き戸を開けて、自室から出る。  目の前の中庭と渡床(わたりどの)を区切る桟枠に手をかけて、空を見上げた。  月が出ていた。  薄く雲がかかり、その光はぼやけて見える。  今宵は朧月夜だ。  身体の芯まで入り込むような冷えた風が、療の初夏の森のような緑青の髪を揺らす。昼間であればまだ日の暖かさを感じることができたが、夜も明け方になると風が冷たい。身体は確かに冷えていたが、不思議と寒さを感じずにいた。  風の中に感じる甘い芳香のせいかもしれない。  療は桟枠から少し身を乗り出し、中庭の外れを見る。  ここからだと少し位置が悪いのか全てを見ることはできないが、ぼやけた月の明かりの下、それに呼応するかのように、ほのかに光を放つ一本の大樹があった。  神桜(しんおう)と呼ばれている。  その昔、人のために堕天した慈悲深き神の心を慰めるために、天上の真竜達が彼に送ったとされる桜の樹だ。この樹を通じて火神(ひのかみ)のひとりが宿るとも言われている。  この樹は火神(ひのかみ)の力を分け与えた、分身のようなものだ。神桜の本体は、南の国との境目にある神社に祀られていた。  神桜は春の出会いと別れの季節と、秋の衰退と次の世代の為の季節に、咲き誇る。  甘い芳香は、神桜が月映えに彩られて咲く時に香るもの。  故にこの桜を『神彩の香桜(かおう)』と呼ぶ者もいる。  その花の色は少し青みがかかっていて、藤色に近い。  療はこの桜を見ていると、同じ髪の色を持つ友人、香彩を思い出す。確か、友人の名はここから貰ったのだ。  香彩は夢を読み解くことや、『誰かの領域』に引き摺り込まれたその形跡を読み解くに関して、まさに専門職だった。 (どうして、泣いていたんだろう) (どうして、あんな悲鳴を上げたのだろう)  ただの夢であればいい。  だが何かが引っかかる。 「……何もないのが一番だけど……」  明日、()てもらおう。  香彩なら何か分かるかもしれない。    ぽそりと療は、そう呟いたのだ……。

ともだちにシェアしよう!