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第88話 領域 其の二
時は少し遡る。
それは香彩 と竜形になった竜紅人 が、中枢楼閣に戻ってきた日の夜のこと。
「……っ!」
息のつまるような奇妙な感覚を覚え、療 は飛び起きた。
じとりとした嫌な汗が額を、背中を伝う。
今、意識のあるこの空間が、現実なのかそれとも夢であるのか、分からずにいた。
恐る恐る視線を動かすと、水差しが目に入る。それは喉が渇いて目が覚めた時に、いつでも飲めるようにと、寝る前に療自身が用意しているものだった。
いつもと変わらない景色を見付けて安心したのか、療は詰めていた息を吐く。
無意識のうちに、それは震えていた。
妙な夢、だった。
何もない暗闇の中で、どこからともなく女のすすり泣く声が聞こえる。女はしばらく泣いていたかと思うと、断末魔のような悲鳴を上げる。そんな夢。
(……あの時見たものと、一緒だ……!)
紅麗の奥座敷。
桜香 の部屋の中で見た『誰かの領域』と同じもの。
なんとか深く息をついて、整える。
ひどく喉が渇いた。
療は水差しに手を伸ばすと、乱暴にそれを取り、直接口をつけて一気に飲み干した。
水は冷えていた。胃の中に広がる冷たさを感じることができて、療はようやく落ち着く。
外はどうやらまだ暗く、朝鳥の鳴く声はまだ聞こえてこない。夜明けまでまだ時間はあるようだ。
静かに引き戸を開けて、自室から出る。
目の前の中庭と渡床 を区切る桟枠に手をかけて、空を見上げた。
月が出ていた。
薄く雲がかかり、その光はぼやけて見える。
今宵は朧月夜だ。
身体の芯まで入り込むような冷えた風が、療の初夏の森のような緑青の髪を揺らす。昼間であればまだ日の暖かさを感じることができたが、夜も明け方になると風が冷たい。身体は確かに冷えていたが、不思議と寒さを感じずにいた。
風の中に感じる甘い芳香のせいかもしれない。
療は桟枠から少し身を乗り出し、中庭の外れを見る。
ここからだと少し位置が悪いのか全てを見ることはできないが、ぼやけた月の明かりの下、それに呼応するかのように、ほのかに光を放つ一本の大樹があった。
神桜 と呼ばれている。
その昔、人のために堕天した慈悲深き神の心を慰めるために、天上の真竜達が彼に送ったとされる桜の樹だ。この樹を通じて火神 のひとりが宿るとも言われている。
この樹は火神 の力を分け与えた、分身のようなものだ。神桜の本体は、南の国との境目にある神社に祀られていた。
神桜は春の出会いと別れの季節と、秋の衰退と次の世代の為の季節に、咲き誇る。
甘い芳香は、神桜が月映えに彩られて咲く時に香るもの。
故にこの桜を『神彩の香桜 』と呼ぶ者もいる。
その花の色は少し青みがかかっていて、藤色に近い。
療はこの桜を見ていると、同じ髪の色を持つ友人、香彩を思い出す。確か、友人の名はここから貰ったのだ。
香彩は夢を読み解くことや、『誰かの領域』に引き摺り込まれたその形跡を読み解くに関して、まさに専門職だった。
(どうして、泣いていたんだろう)
(どうして、あんな悲鳴を上げたのだろう)
ただの夢であればいい。
だが何かが引っかかる。
「……何もないのが一番だけど……」
明日、視 てもらおう。
香彩なら何か分かるかもしれない。
ぽそりと療は、そう呟いたのだ……。
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