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第89話 領域 其の三

「……彩? 香彩(かさい)……!」  何処か遠くで自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。  それはとてもよく知った、友人の声。  その声を認識した直後。  すとんと、高い所から落ちて着地をしたかのように、意識が『この世界』に降りてくる。 「……(りょう)?」  気付けば目の前に療がいた。  声の認識と存在の認識が、微妙に擦れ違っていることに気付いて、香彩は自分の中の『気配を感じる力』を微調整する。  香彩は少憩室に入って、すぐの場所に立っていた。  この部屋に足を踏み入れた直後、全てが闇に包まれていたことを思い出す。 「……もしかして香彩も『誰かの領域』に引き摺り込まれた?」  療の言葉を聞いて、香彩は頷いた。 「その『誰かの領域』に引き摺り込まれた時の療に、引き摺り込まれたって感じ……かな」  ようやく『現実(いま)』を感じ取れるようになって、香彩は安堵の息をつきながら、少憩室の丸椅子に座る。そして療に、近くにあったもうひとつの丸椅子に座るように勧めた。  膝を付き合わせる形で、向かい合わせになるように、香彩が丸椅子ごと少し移動する。  香彩が『()』たものは、まさに『誰かの領域』に引き摺り込まれる療と、その直後の療だ。   少憩室に入った途端に、いわゆる『療の領域』に入ってしまうほど、この部屋は無意識に溢れて出る療の神気と、思い詰める心で侵食されていたのだろう。  (ねい)が何故療を、陰陽屏にある相談の為の待合場や、大司徒政務室に案内しなかったのかが、今になってとてもよく分かる。  きっと香彩を訪ねて来ていた時点で、療の様子の変化に気付いていたのだろう。  気配に聡い者の中には、療の神気や心に敏感に反応して、引き摺り込まれる者もいたかもしれない。  だから敢えて大司徒(だいしと)司徒(しと)の私空間であり、入室する者が限られている少憩室を選んだのだ。  ごめん……と謝る療に、香彩は無言で首を横に振る。 「……こっちこそ、全部任せてしまって、ごめん。療」  香彩の言葉に療もまた、無言で首を横に振る。 「療のおかげで……その、ちゃんと……」 「──にしては、香彩の纏ってる神気……相変わらずの執着と嫉妬心だよね」  くすくすと面白そうに笑う療に、香彩は顔を赤らめる。 「……やっぱり分かっちゃうんだ」 「言ってもいいなら、どんな風に分かるのか言おっか? 匂いとか」 「いい! 絶対恥ずかしいやつだから、言わなくていい!」  そう? と療がまるで悪戯に成功した子供のような目で香彩を見る。にっ、と牙を見せるような笑い方と、綺羅綺羅とした紫闇(しあん)の瞳を見ている限りは、普段通りの療だ。  ただこの手の話題に関して、療にしては、あまりにもあっさりと引いてしまったことを除いて。  ──いつから?  と、香彩は言葉に『力』を込めて、療に聞いた。  少憩室内の空気が、きん、と張り詰めたものに変わったのと同時に、療が息を詰める様子が伝わってくる。  先程見た夢の光景を、そして『誰かの領域』を、療はいつから見ているのか。 「……やっぱりオイラがここに来た理由、香彩には分かっちゃうんだね」 「政務室じゃなくて、少憩室に案内したって寧が言うんだもん。その時点で絶対何かあるって思うでしょ?」  しかも部屋に入った途端に、引き摺り込まれたのだ。寧の判断は正しかったと言える。 「……で?」  ──いつからなの? 療。  香彩が再び言葉に『力』を込めて、そう言った。  香彩と療も普段通りに話をしているが、少憩室を包み込む張り詰めた空気は、更に増していく。  今まで神気に覆われていた部屋に、香彩の持つ術力が徐々に侵食していくようだった。  少しずつ自分の『場』を取り戻していくと言った方がいいだろうか。それは『療』という『存在』を()て、読み解くには必要な措置だ。  真竜には自分より『力』の強い者に対する隷属本能がある。特に療は真竜の中でも上位に位置する竜だ。療を従わせる『力』の強い者は、今のところこの世にひとりしか存在しない。  だが『場』を整えさえすれば、真竜の『力』を借りる存在でもある香彩もまた、療を『術力』で従わせることが出来る。  それは傀儡ではなく、一種の催眠に似ていた。 「……桜香(おうか)を迎えに行った時、紅麗の奥座敷の桜香の部屋で見たのが、初めだった」  語り出す療の、ゆらりと揺れる紫闇(しあん)の瞳を、香彩はじっと見つめる。 「桜香、を?」 「うん……いきなり引き摺り込まれて、夢と同じ光景を見た。そのあと……『現実(ここ)』へ戻ってきて、酷く喉が乾いて。桜香が淹れてくれた香茶を飲もうとしたら……」  香茶の中に浮かんでいた、神桜の花片が消えた。  療の言葉に香彩は、心内で動揺する。  ぴくりと動きそうになる身体に耐えながら、香彩は療から視線を外さないように気を付ける。  そんな時から兆候はあったのだ、と思った。  香茶に使われている花片と、蒼竜屋敷のたくさんの樹。規模は違えど、偶然にしてはあまりにも出来すぎている。 (……蒼竜屋敷を狙う前に、香茶で使われていた花片の樹が襲われたんだ……きっと)   紫雨に報告をして、他の縛魔師に香茶の製造元を訪ねて貰うことを、ふと考えた。だが香茶の花片は神桜が散り出す頃に、国中から集めるのだと香彩は聞いたことがあった。神桜の咲く時期は、香茶の中にも花片が混ぜられることも多いのだと。  果たして何処の樹が狙われたのか、検討が付かないだろうと香彩は思った。

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