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第100話 隠された想い 其の一
湯殿で汚れを流した後、香彩 は仕事場でもある大司徒 政務室へと戻ることにした。
寧 はどうしただろう。もしかしたら典薬処 にでも運ばれたのだろうか。そんなことを思いながらも、政務室の引き戸を開ける。
おや、今日はもう戻られないかと思いましたのにと、くすくすと笑いながら書簡の束を持つ寧 がそこにいた。
「──寧 ! 大丈夫なの?」
「ええ。さすがにあの距離では蒼竜とはいえ、効きましたねぇ。療 様に適切な処置をして頂きましたので、この通り、事務仕事の続きをしておりました」
ちなみにこちら全て、貴方様が貯めた貴方様の裁可のいる書簡ですので、とにっこりと笑いながら寧 が言う。
有無を言わさない笑みに、香彩 は顔を引き攣らせた。だがその事務仕事が有難いと思った。仕事を理由に政務室に引き籠ることが出来る。私室に帰ることが出来ないという、理由が出来る。
竜紅人 は今夜はきっと、私室には戻って来ないだろう。自室に戻るのか、それとも何処かへ行くのかは分からない。
だが確実に言えるのは、竜紅人 自身の頭が冷えるか、気持ちを切り替えるか。もしくは香彩 が目合 うことを前提として竜紅人 に、自分の私室に戻ってくれるよう懇願しない限り、彼が戻ることはないだろうということだ。
私室で夜ひとり、戻らないと分かっている彼を、やはり待ってしまうだろう自分が嫌だった。戻って欲しくないのだと、複雑な思いを抱えながら、それでもどこか僅かに期待してしまう自分が、とても嫌だった。
政務室の卓子 の上に無慈悲に置かれていく書簡達を、いつもならげんなりとした気分で見つめていた香彩 だったが、今は違っていた。
私室に戻ることが出来ない理由達に、有難いと思いながら、香彩 は一枚ずつ、それは丁寧に読み込み、裁可の印を押していったのだ。
そうしている内に、政務は終業の刻時を迎えていた。
仕事を終えた者達の、渡床を歩く足音や話声が聞こえる。家路につく者、第一層の食事処で夕餉 を取る者、食事処の混雑を嫌って楼閣外へ出る者など、様々だ。
香彩 は寧 に下がるように命じる。
政務室の卓子 の上は、まだ書簡が山積みだ。一緒にそれらを片付ける手伝いをしていた寧 は、下がることを渋っていたが、蒼竜の神気を浴びて療 が処置したとはいえ、後々になって身体にどんな影響が出るのか分からない。近々ある国行事で僕が動けない時には、寧 に動いて貰わないといけないし、寧 が動けないと僕も紫雨 も困るから、と言って聞かせ下がらせたのだ。
ひとりとなった政務室は酷く静かだった。
じりっ、と部屋の灯火の芯の灼ける音が聞こえ、ほんの少しでも身体を動かせば、気にも留めなかった衣着の擦れる音が聞こえる。
香彩 は書簡に目を通しながら、小さく息をついた。
気を紛らわせる為に仕事をしている、と言っても過言ではなかった。そしていつも以上に丁寧に読み込み、いつもよりも効率の悪い仕事の仕方をしているのも、見事な時間稼ぎだ。そうしながら隣の少憩室で、少し仮眠をしていたら気付いたら朝だった、という言い訳を作りたいのだ。
それに寧 を巻き込むわけにはいかなかった。
どうしても今は戻りたくないのだ。
私室には。
再度小さくため息をついて、香彩 は裁可の印を付いた書簡をひとつに纏め、それを紙紐で結ぶ。
ふと。
とても良い匂いがした気がした。
それは食べ物の匂いだった。
きっと自分と同じように、終業刻時が過ぎてもまだ仕事の残っている者が、第一層の食事処に夕餉 を運ぶように頼んだのだろう。
くぅ、と腹の虫が鳴ったのは、本当にいつ振りくらいだろうか。
ここ数日はあまり空腹を感じることがなかった香彩 だ。食べないといけないと思う気持ちと、一日の習慣だけで食事をしていた面が多い。味もあまり感じることはなかった。
竜紅人 と想いが通じてからは、別の意味で空腹を感じなかった。神気が人にとって強力な滋養強壮の効果があると知ったのは、つい先日だ。ある意味香彩 にとって薬ともいえる神気の熱を、これでもかというほど与えられて、普通に食事をしていなくても栄養になっていたのだろう。
それでも食べ物の良い匂いがすれば、ちゃんと食べたいと、食事をしたいと思ってしまうのは健康になった証だ。
「……もう少ししたら下に降りようかなぁ」
漂ってくるこの匂いは、自分の好物でもある、川魚を甘辛く煮付けた匂いだ。食欲を唆 る匂いに、自分も今日の夕餉はこれにしようと密かに心の中に決める。
だが下層へと降りるのはもう少し後だ。
終業刻時直後ならば、混雑しているに違いない。
(……それに)
もしかすると、竜紅人 か紫雨 に会ってしまうかもしれない。あのふたりは柄にもなく、食事処や大衆食処などの、人の多い所での食事を好むのだ。だから今は避けたかった。
刻が経てば当然ながら、人気のある物から売り切れになっていく。川魚の煮付けも結構人気があるから、下へ降りる頃にはもうないかもしれない。
それでもあのふたりのどちらかと、もしくは両者とかち合うよりはいい。
香彩 が再び書簡に目を通そうとした、その時だった。
政務室の引き戸を、こつこつと叩く音が聞こえたのは。
香彩 が応 えを返すと、引き戸の向こうから声がした。
「第一層の食事処です。夕餉をお届けに参りました」
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