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第99話 不穏 其の六
蒼竜は唸りながら香彩 の唇を解放する。荒い息を吐き、時折咳き込みながら香彩 は、蒼竜の胸部辺りに倒れ込んだ。
香彩 の耳裏を押し上げるようにして、蒼竜がその口吻を擦り付け、押し付けている。自分のものである香りを堪能しているのだ。
だが、まだ足りなかったのか。
まだ紫雨 と療 の気配が残っているのか。
蒼竜の胸部に凭れて、ぐったりとしていた香彩 の後頭部を、蒼竜は再び鷲掴みにした。
ぐいっと上を向けさせられて、目の前に見えるのは竜の口吻と長い舌。
このまま素直に、蒼竜が求め満足するがままに身体を差し出したら、きっと蒼竜の機嫌は直るだろう。
だがそれでは駄目なのだと、香彩 は思った。いま、こんな気持ちの状態で抱かれてしまったら、自分の心の大事な部分が壊れてしまう。
それに嫉妬に駆られた竜形の竜紅人 の、真竜の本能を満足させるのは、今の段階では不可能に近いのだ。
蒼竜がどんなに香彩 を抱いても。
御手付 きの香りを嗅いでも。
どんなに胎内 に熱を注いでも。
成人の儀が待っている限り、満たされることはない。
飢えた心にどんなに水を与えても、すぐに乾いてしまって、次を次をと求めてしまう。
そして成人の儀が終わった後、自分の心が、竜紅人 の心がどう変わってしまうのか、分からない。
(……それでも)
(一番大事なのは、竜紅人 、だから)
だから。
近付いてくる口吻に、まだ整っていない香彩 の荒く熱い息が当たる。
再び食らうように口付けようとする蒼竜を、香彩 は渾身の力で突き飛ばした。
反動で蹌踉 めく蒼竜が、一体どんな表情をしているのか、滲む視界の中でははっきりと見ることが出来ない。
「──竜紅人 の命令通り付いてきたし、望み通りに啼 いて、竜紅人 の御手付きの 香りもこうやって振り撒いた。もう……いいよね」
出ていって。
吐息混じりの掠れた声で、香彩 が言う。
これ以上、蒼竜が無理矢理自分を暴こうとするのなら、彼以上に神気を持つ真竜の『力』を誓願して、彼を縛る覚悟があった。
右手に少しずつ集まりつつある術力の気配を、蒼竜は感じ取ったのだろうか。
『……よく、分かった』
表情乏しくも憤懣やるかたなく、それでも随分抑えたような声で蒼竜はそう言うと、踵を返した。
香彩 は黙ってそれを見送る。
追い掛けるつもりも、追い縋るつもりもなかった。
そして何も言おうとは思わなかった。喉の奥が重くて痛くて、息も何か詰め込まれたかのように震えた。胸が苦しくて、声も息もしたくなかった。ただ不機嫌そうに顔をしかめていたものの、その心は消沈していた。
蒼竜を怒らせたのは自分だ。
それはとてもよく分かる。
だが人の話を聞かず、嫉妬の心のままに公の場で、自分を竜の聲で従わさせた彼を、どうしても赦す気にはなれなかった。
(……そう思っていたのに)
いざ怒らせて、自分の側から離れてしまった蒼竜を見れば、心がどうしても不安になる。
(……あんな風に怒らせるつもりなんてなかった)
ただ分かってほしかっただけなのだ。
喧嘩なんてこれまで何回もあった。喧嘩というよりは自分が悪くて叱られて、気まずくなって声が掛けられなくなって。
(……そんな時いつも咲蘭 様が声を掛けてくれて、一緒に謝りに行ってくれた)
彼は仕方ねぇなと言いながらも、笑って赦してくれた。
幼い時の話だ。
いまどうしてこんなことを思い出すのか分からない。
(……分からないけど)
今はどうしたって赦してくれないだろうと思った。
喧嘩をしても、自分達の関係は何も変わらない。変わらないはずだ。
(……そう思うのに)
苦しいのは何故だろう。
呼吸の仕方が思い出せない。
苦しい。
こんな風になる前の自分は。
一体どうやって、呼吸していたのだろう。
蒼竜の姿が引き戸の向こうへ見えなくなるまで、その場で佇んでいた香彩 は、糸が切れたように寝台に寝転がった。
少し乱暴に、涙の筋を、目を手の甲で拭う。
深く息をついて見慣れた天井を、ぼぉうとした心地でしばらく見つめてから、ゆっくりと起き上がった。
湿った下衣がやけに気持ちが悪い。この状態では政務に戻ることも出来ないだろう。
まずは湯殿だ。
少し落ち着いてから、いまは自分の成すべきことをしよう。
寧 の様子も見に行かなくては。
香彩 は再び手の甲で目頭を拭ってから、湯殿に向かって歩き出した。
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