104 / 409

第104話 馥郁たる土の香 其の三

 頬に感じた一筋の冷たさに、香彩(かさい)は何だろうと思いながらも目を開けた。見覚えのある天井が目に入ったのと同時に、頬を伝った冷たいものが首筋に入り込んで、思わず飛び起きる。  恐る恐る頬と首筋に触れて見れば、やはり濡れていた。  それは感情の追い付かない、無意識の涙だったのだろう。泣いた自覚が全くないというのに、『眠りながら泣いていた』という事実に戸惑う。  自分で決めたことだというのに、心はまだ泣くのかと、香彩(かさい)は己を叱咤した。  追いかけられたはずだ。  縋り付けたはずだ。  だがそれをしないと決めたのは、まさしく自分の意思だ。  香彩(かさい)は小さく息をつく。  少し夜風に当たりたいと思った。この時期の夜の風はまだ、冷たさを残している。だがその冷たさこそが、己の迷いを晴らすのに、そして気分を変えるのに、丁度いいと思った。  露台へ出る為の引き戸を開ける。  そのまま歩みを進めて、露台の桟枠に身を預けてみようと、手に触れたその時だった。   「──……っ!」   濃厚な土の香りがした。  誰かの意識下に引き摺られたわけでもなく、その影響を受けたわけでもない。  いま現実(ここ)で香る土のそれに、香彩(かさい)は神経を尖らせる。  まさに馥郁(ふくいく)たる土の香。  土の恵みによって齎《(もたら)される、様々な作物の豊潤な香りが辺りを占める。だが直ぐ様にそれは、何が腐ったかのような、鼻を突く不快な臭いに変わった。 (──これって……!)  覚えのある臭いだ。 (……真竜が堕ちる時の……!)   両手で口と鼻を覆いながら、原因になっている気配を探ろうとした、まさに刹那。    黒い影が香彩(かさい》)の目の前を、落ちて行った気がした。  香彩(かさい)は思わずその身体を強張らせる。  何も気配が感じられなかった。  ただただ、濃い死臭と腐臭だけが後を引く様。 (あの……影が……!)   真竜なのか。  香彩(かさい》)は一番身近にいる、真竜のふたりを思い出す。  ふたりとも洗練された強い神気を持ち、気高く綺麗な姿をしていた。神気の内側には、それぞれを思い出させる個々の香りがする。あるひとりは森の木々の様であり、あるひとりは夕闇の迫った刻時に感じる空気の様な独特の香りがした。 (それが……あんな……)   堕ちてしまえばその姿は黒く、そして腐臭を纏うのだ。  ぞくりとした冷たいものが、背筋を伝う。  今更ながらに香彩(かさい)は、禁忌を犯した竜紅人(りゅこうと)に対して恐ろしさを感じていた。  確かに(りょう)が言っていたのだ。    ──きっと『生み出す』原因となったのが、邪気を払う『力』を持った香彩(かさい)だったから、ちゃんとした形で『生み出された』んだと思うよ。じゃなかったら本当に何に成り果てるのか、わからないんだ。  地上に当たり前に存在する邪気を吸い込み、体内に取り込んでそれに冒されてしまえば、真竜も真竜が生み出した物も堕ちる。  桜香(おうか)桜香(おうか)ではなくなっていた可能性を、堕ちた真竜を目の前にして、香彩(かさい)は今更ながらに思った。そして己が『生み出した物』に巻き込まれる形で、竜紅人(りゅこうと)もまた堕ちていた可能性に、身体を震わせる。  震える手を抑え込むように、ぐっと手を握り締めながら、香彩(かさい)は恐る恐る露台の桟枠から下を覗き込んだ。  あの黒い影は下へと落ちて行った。  この下は大きな中庭だ。  だがどれだけ目を凝らしても人の目では、夜の闇に包まれた層下の中庭を見ることが出来ない。  香彩(かさい)は右手の人差し指と中指を口の前に持っていき、息を切るような動作をする。すると人の視界では見ることが困難な闇が、まるで昼間のように明るく見えるようになった。  そのまま右手は、術力の青白い光の軌跡を描き、足の甲を(さす)れば、ほのかに光る。  大きく息を吐いて香彩(かさい)は、露台の桟枠に乗り、第六層という高さから飛び降りた。  足に掛けた『力』の作用で、ゆっくりと下へと降りて行く。  この術を使ってあまり褒められた覚えがないことを、香彩(かさい)は思い出す。例え『力』が作用していても、高い所から飛び降りる行為そのものを、見ていられないと言われたことが何度かあった。  確かにこの高さだ。見ている方からすれば、気が気じゃないという気持ちは分かる気がする。  後でこの術を使い、露台の桟枠(ここ)から飛び降りたと知られれば、小言のひとつやふたつは貰ってしまうだろう。 (下に降りるのに一番手っ取り早いから、許してほしいところだけど)  何せ自分の足で六層から一層の中庭まで階段を使って降りていたら、その間に逃げられてしまう。    術力の作用でまるで足に、雲の上にでも降り立つような、ふわりとした感触がした。  無事中庭へと降りた香彩(かさい)は、神経を研ぎ澄まし気配を探る。やはり初めに思った様に、あの黒い影の気配が感じられない。だがあの鼻を突く残り香は、中庭の奥へと続いていた。 (……いる)  一歩、また一歩と、黒い(それ)に近付けば近付くほど、増していく異臭。  深夜に近い刻時でよかったと香彩(かさい)は思う。  中庭はとても広い。散策用の小さな森に続く石畳の道が敷かれており、道中に休憩用の長椅子や東屋などがある。昼間は官達の憩いの場だ。  臭いがするのは、小さな森の方からだった。        

ともだちにシェアしよう!