105 / 409
第105話 馥郁たる土の香 其の四
この奥に何があるのか、香彩 はよく知っていた。今すぐ駆け出してしまいたい心の焦りを、何とか抑え込む。あの黒い影の気配が感じられない以上、逃げられてしまったら探しようがないと、頭の中で理解していた。
だが急がないとという気持ちが、香彩 の中から冷静さを少しずつ、少しずつ削り取っていく。
中庭の小さな森の奥にあるのは、大きな神桜の樹だ。
あの黒い影がわざわざここに入った理由など、ひとつしかない。
香彩 はゆっくりと歩みを進めながらも、確信を得る為に、感じないと諦めていた気配の更に深くを探る。
神経を研ぎ澄まし、奥の奥を見つめ、掻き分けるように。
(……っ)
咄嗟に香彩 は今感じてしまったものを、なかったことにするかのように、頭 を振った。
どくどくと、脈打つ鼓動に動揺しながらも、小さく細く息を吐く。
真っ先に感じ取ってしまったのは、あれから敢えて気配を追うことをしなかった、竜紅人 の気配だった。
ずっとそちらに気を取られないようにしていた為か、気が付かなかった。こんなにも深く探らなければ分からないほど、竜紅人 が自身の気配を薄くしていたことなど。
(……それって僕に、見つからないようにしてたってことだよね……?)
側に来てくれるな、っていうこと……?
一度そんな風に思ってしまえば駄目だった。
心の中に広がる動揺に、香彩 は己を叱咤する。心が乱れてしまえば、当然ながら気配を探る為の集中力が欠けてしまう。
意識せず震える息を感じて、己の頬を強めに叩 く。
竜紅人 が見つからないように気配を薄くしていたとしても、夕餉のあの温かい心遣いを決して忘れたわけではない。嫌だと思った相手に、そんな心遣いはしないだろう。
(……りゅう……)
少し前向きに考えて直す。
今一度細く息を吐いて、香彩 は神経を研ぎ澄ませた。
ゆっくりと歩を進めながらも、凪ぐ空間の深々とした中を、手探りで泳ぐようにして、気配を探る。
(──……っ!)
ようやく見つけたその気配の一点は、まるで水溜まりに一滴の水が落ちる波紋のようなものだった。もしくは科紙 に墨をぽとりと落とし、じわじわと滲 み広がる様 にも似ている。
それはまだ穢 されていない部分の神気が、邪気によって徐々に染まっていく様子を捉えたものだった。
そして。
(──やっぱり……か)
馥郁 たる土の香りのする神気の中に、纏わり付くように香るのは──神桜の香。
濃厚なそれを黒い影から感じ取って、香彩 は思わず苦しげな表情を見せた。
(……同じものだ)
あの時感じた、噎せ返るほどの濃い土の匂いと死臭が。
蒼竜屋敷の神桜の花を散らせて、枝を全て折ったのは、あの黒い影……土神 と呼ばれる真竜御名 、壌竜 だ。
「──……どうして……」
香彩 は思わず声に出してそう、呟いた。
同胞が何故、同胞に手を掛けようとするのか、分からなかった。
確かに神桜の……紅竜の本体である樹ではない。だが他の神桜も、紅竜の分身 のようなものだ。分身 が傷付けられてしまったら、当然ながら本体にまで影響が及ぶ。それを壌竜 が知らないはずがないというのに。
花片を散らせ、枝を全て折る。
そんな狂行にどんな意味があるのか。
やがて森の少し開 けた場所に出る。
香彩 の視線の先には、大きな神桜の樹があった。
そして……。
まるで神桜を見上げ、見つめるような動作をする黒い影の姿もあった。
香彩 は胸元から、術力の媒体用でもある白い札を取り出し、指に挟む。『力』を送ればそれは仄かに青白く光った。
動きを止めることが先決だ。
地に足を縛り付け、やがて地を這う術力が鎖となって身体を拘束する。そういった類いの術がある。
真竜に関してはあまり手出しできないのが、縛魔師としての実情だった。完全に堕ち、人に害を成す存在へと成り果てて、初めて払うことを許される。そういうものだった。
目の前の黒い影は、時折その姿を薄くする。顕れるのは美しき真竜だった頃の姿だろうか。見ているだけで癒されそうな、綺麗な苔色の長い髪が、ふわりと風に靡かれる。
邪気に冒されてはいるが、まだ完全には堕ちていない壌竜 の姿が、そこにはあった。
国の要ともいえる中枢楼閣の中庭に、堕ちかけた真竜が入り込んだ事実に眩暈がする思いがした。
中枢楼閣を護る四神の護守は働かなかったのだろうか。そこまで考えて、ああ、と香彩 は納得する。
四神の護守は大妖を対象としている。完全に堕ちた真竜ならば、その身から発せられる邪気や瘴気に反応して、その存在を弾き返したことだろう。護守に引っ掛かれば、大司徒 や縛魔師 が動く。
だが堕ちかけたとはいえ、真竜は真竜であり、大妖ではない。しかも四神にとっては同胞だ。だから護守は反応せず、壌竜 は中庭まで入って来れたのだろう。
だが身の内にそのような者に入られて、沈黙を保つ国主が不気味だった。
確かに国主から見れば、堕ちかけた真竜など小物に過ぎないだろう。
捨て置けと、どこかで視 ているのだ。
(……まだ間に合うだろうか)
療 ならば真竜の奥に蝕む邪気を払い、浄化することができるかもしれない。
数少ない同胞だ。療 はきっと壌竜 を助けようとするだろう。
『……縛』
香彩 は、壌竜 が神桜を見上げているその隙を付いて、『力ある言葉』を呟きながら、手に持っていた札を地面に置き、軽く指を突き立てた。
徒人 には見えない術力の、青白い光が壌竜 に向かって地を這う。そのまま光は壌竜 を中心に陣を描き、まるで蜘蛛の糸に捕らえられた羽虫のように、地に縫い付けられる。やがて地から生えた術力の鎖が、壌竜 を雁字搦めに縛り付ける──はずだった。
ともだちにシェアしよう!