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第106話 馥郁たる土の香 其の五

 それはほんの一瞬の、まさに瞬く間。  術が成功した安堵の隙を、突かれたのも同然だった。  捕らえたはずの壌竜(じょうりゅう)が、黒い影となって、香彩(かさい)と視線を同じくにするように、すぐ目の前にいた。  鼻に突く臭いと、馥郁たる土の香りが混ざったような、複雑な臭いのする吐息が、香彩(かさい)の頬に掛かる。  いつの間にこれほど距離を詰められたのか、香彩(かさい)は分からなかった。  驚愕のあまり香彩(かさい)の身体が固まる。  黒い影の塊のような壌竜(じょうりゅう)の、何とも言えない色に染まった目が、香彩(かさい)を捕らえて放さない。 (……一体何があればこんな……!)   絶望とも無気力とも違う、何の感情の色も乗せない目になるのか。  視線を外せずにいると、再び黒い影は姿を薄く変化させる。現れた端正な顔立ちに、香彩(かさい)は思わず声を上げた。  その顔に覚えがあった。 (──あの夢床(とき)の……!)  だが。  まるでそれが合図だったかのように。  どのような『力』が働いたのか不明だが、姿を薄くした壌竜(じょうりゅう)は、その存在を更に薄くして見せた。  そして。  香彩(かさい)などまるで目の前にいなかったのだとばかりに、香彩(かさい)の存在そのものに重なるように、ゆっくりと通り過ぎていく。  壌竜(じょうりゅう)香彩(かさい)の身体を抜けた途端に、香彩(かさい)はがくりと膝を付いた。  壌竜(じょうりゅう)の飛び去る気配がするが、香彩(かさい)には追い掛けることが出来ない。  やがて。  ざんっ、という凄まじい音を立てて。  目の前の神桜は無残にも、花片を散らせ、全ての枝がその地に落ちたのだ。  壌竜(じょうりゅう)の影が香彩(かさい)を通り抜けた刹那、香彩(かさい)の心の中には壌竜(じょうりゅう)が感じ、経験したのだろう、激情ともいえるある感情が占めた。  壌竜(じょうりゅう)の神桜に対するそれは、あまりにも覚えのある感情だった。  思いが通じ合った今でも、あの時感じた、足元から崩れ落ちて行きそうな思いは、多分一生忘れることはできないだろう。  想いを寄せている相手に、想い人がいたこと。忘れようと思っても、忘れることが出来ない想い人への情。  気になって仕方なかった。  想い人が今、どこで誰とどんな風に過ごしているのか。  気にしても仕方ないというのに、紅麗の方向を見つめ、人知れず涙を流した夜もあった。竜紅人(りゅこうと)はいまどうしているだろう。想い人にどんな表情で、どんな声で愛を囁くのだろう。  何故それが。  自分ではないのだろう。  そうやって心と身体を病み、眠れなくなった。友人に医生のところに連れて行かれなければ、どうなっていたのか分からない。  眠り薬と滋養の薬を飲んでもなお、心はもうはち切れそうだった。  壌竜(じょうりゅう)の狂行の意味が、今の香彩(かさい)には痛いほど分かる。  香彩(かさい)もまた壊れそうな心を抱えながら、竜紅人(りゅこうと)を眠らせて身体を繋いだのだ。思い出が欲しいという身勝手な想いもあった。同時に竜紅人(りゅこうと)の想い人に対する、激情に似た嫉妬の心も確かにあったのだ。  (りょう)がいなければ。  そして桜香(おうか)からの玉梓(たまずさ)の使いがなければ。  自分の心を置き去りにしたまま、竜紅人(りゅこうと)の侵食に流されるがままに再び身体を繋げて、そして壊れてしまっていただろう。  だからといって自分の狂行が、赦されるはずがない。両思いだと分かり、想いが通じ合ってからも、ずっと心の中でそう戒め縛り付けていた。  だが竜紅人(りゅこうと)は言ったのだ。  ──お前も……あの時のことを塗り変えてくれ。もう罪悪感なんて感じてくれるな。 ──今が……あの時だと思って、俺を……感じてくれないか? かさい……。  その言葉にどれだけ救われただろう。  心が軽くなっただろう。 (──壌竜(じょうりゅう)に……救いはあったのだろうか)    自分の感じたことを、思う気持ちを話せる同胞はいなかったのだろうか。話すだけでも随分気持ちの持ち様が違うのだと、香彩(かさい)はよく知っていた。  (りょう)がいなければ自分もまた、心の奥底に闇のような真っ黒なものを抱えていたかもしれない。それはきっと底無し沼だ。一度嵌まってしまえば、新たに生まれた前向きな気持ちですら、ずるずると引き摺り込んでしまう。  そんな状態が続けば、想いが通じない虚しさや苛立ちは、自分自身の心と身体を自ら傷付けながらも、やがて原因となった想い人へと向かっただろう。  そう、壌竜(じょうりゅう)が神桜の花片を散らし、その枝を全て折ったように。 「──……救わな……きゃ……!」  壌竜(じょうりゅう)に通り抜けられて、内を向いていた心が現実(ここ)に戻ってくる。  両膝を地に付けたまま、香彩(かさい)は感じた気配のままに上を向いた。  自分に降り注いでいるのは、黄金の神気だ。それは夕闇の迫った刻時の空気のような、独特の香りがする。まるで光の雨を浴びているようだと思った。しばらくそれを浴びていると、動かなかった身体が、そして頑なだった心が柔らかくなり、動くようになる。  まさにそれは癒しの神気だ。  こんな風に何度、助けられただろう。  救われただろう。  目の前には、夜の闇の中で仄かに光る黄金の竜、黄竜(こうりゅう)がいた。  黄竜は様子を伺う様に、そして慈しむ様に、その口吻(こうふん)香彩(かさい)の頬に擦り付けながら、少し高い声で唸る。  明らかに自分を(たしな)めるような唸り方に香彩(かさい)は、ごめんと呟きながら、口吻をそっと抱き締めた。  途端に香彩(かさい)の脳内に聞こえてくるのは、盛大なため息だ。

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