122 / 409

第122話 発情 其の四

 心内で、やはりと香彩(かさい)は思った。  いま、蒼竜の御手付(みてつ)きである自分が、蒼竜の発情を治められない理由。 「その様子だと何となく察してた? 交接して発情期の熱を胎内(なか)で受け止めた時点で、どんなに雨神(あまがみ)が止めていても、引き寄せられて結び付く。新たな真竜が宿る」  それが一体どういうことなのか。  何も対策していなければ、どうなってしまうのか。  先程まで散々話していたことだ。  ふるりと震える手を、香彩(かさい)はぐっと握り締める。 「真竜の発情期は執拗だよ、香彩(かさい)。神気の匂いが変わって、御手付(みてつ)きが発情を促される。熱もより粘着性を増して、確実に『核』と結び付くまで胎内(なか)に留まり続ける」  びくりと身体が反応してしまうのを、香彩(かさい)は何とか堪えた。  思い出されるのは、変わってしまった竜紅人(りゅこうと)の神気の匂いだ。濃厚で甘い春花のような香りをほんの少し嗅いだだけで、身体の奥が潤い、開かされていくようだった。  御手付(みてつ)きを発情させる効果があるという、甘い匂い。  噎せ返るほどのその芳香に包まれてしまったのなら、きっと逃げることもまま成らず、抵抗すら出来ないだろう。  蒼竜に片前肢で押さえ付けられたことを思い出す。あの時ですら逃げられず、されるがままの状態だったのだ。 (……あの匂いを吸い込んでしまったら)  自ら衣着を脱ぎ捨て、求めてしまいそうで怖かった。その熱を全て身体の奥に注ぎ込み灼いて欲しいと、溢れないように蓋をしていて欲しいと、求めてしまいそうで怖かった。  ふわりとした風が、香彩(かさい)の周りで生まれては消える。香彩(かさい)(りょう)も、風が吹くという、ごく些細な出来事だからだろうか。気付くことはなかった。  この風の中に微量に含まれる、御手付(みてつ)きの香りに。 「──だから今は逃げないといけないんだ。蒼竜とある程度まで離れたらオイラ、竜形になるから乗って。城の近くまで来たら下ろすから」 「……でも……」 「そのまま、紫雨(むらさめ)のところまで走って。オイラその間、蒼竜を叩き落として時間を稼ぐか……」  (りょう)の言葉が不自然に止まる。  前を見据えた紫闇の目につられるように、香彩(かさい)もまた後退してきた方向を見る。  遠くに蒼竜がいた。  荒々しい息遣いと、時折混じる唸り声がここまで聞こえてくる。  蒼竜は何かを探すかのように太い首を上げ、口吻を空へと向けていたが、やがてその動きを止めた。  あれほど聞こえていた荒々しい息遣いもまた、不自然なほど聞こえなくなる。  まるで探し物を見つけたのだと言わんばかりの、それ。  あの大きな竜形の、一体どこにそんな敏捷さがあったのだろうか。  竜翼の羽撃(はばた)きを認識した気がした。  (りょう)が、香彩(かさい)走ってと、叫んだ気がした。  だがほんの瞬く間に距離を詰めた蒼竜は、その重さを感じさせない動きのまま、片前肢で香彩(かさい)を地面に縫い付けたのだ。 「──っ!」  香彩(かさい)は息を詰めながら、あの時と一緒だと思った。蒼竜屋敷に連れて行かれたあの時も、逃げるなとばかりに片前肢で押さえ付けられ、身動きが取れなくなった。  同じ体勢だからだろうか。  どうしてもあの時の、蒼竜との甘美な刻を思い出してしまう。  ふわりと、自身の身体から香る御手付(みてつ)きの匂いに、香彩(かさい)は心の中で後悔をした。  蒼竜が探していたのは、自分の御手付(みてつ)きの香りだったのだろう。ぐる……と唸り声を上げた蒼竜は、その口吻を首筋に押し付けて匂いを嗅いでいるようだった。きっと竜紅人(りゅこうと)のことを思い出す度に、香りが増していったに違いない。  そんな香彩(かさい)の身体を、甘い芳香が包み込む。御手付(みてつ)きの香りよりも濃厚なそれは、蒼竜の発情した証だ。 (……だめっ……いま、吸い込んだら……っ!)  取り返しが付かなくなる。  蒼竜を求めてしまう。  やがてお互いに発情が冷め、自我が戻った時に後悔などしたくなかった。  後悔をして自分自身を責める竜紅人(りゅこうと)の姿など、見たくなかった。 (だって……ただでさえあんな謝り方……)  済まない、と言ったあの時の彼の声色を思い出して、胸が締め付けられるようだと思った。  彼自身が無意識の内に、香彩の胎内(なか)に『核』を放出した時すらそうだったのだ。発情で自我を失くし、自身の熱によって『核』と『光玉』が結び付いてしまったら、彼は自分自身を責めるだろう。『術力』を失わせてしまったと、責めて責めて責め抜いて、そうして気付けば『彼らしさ』すら失ってしまうだろう。 (──そんなの……嫌だ。絶対に)  いまここで発情した蒼竜に、引き摺られるように自分も発情して抱かれるのか。  今から始まるだろう成人の儀で、彼以外の人に抱かれるのか。  伴う結果が明らかに違うのだ。  自身の御手付(みてつ)きに違う男の香りが残っていて、たとえ彼が心変わりをしたとしても。 (……僕が耐えられなくって、心変わりをしたとしても)  出来たら彼がまだ、笑っていられる方の選択を選びたいと思うのは、果たして間違いなのだろうか。 (そう考えたら答えなんて……)  答えなんて、初めからたったひとつしかないのだ。  口吻は、いつの間にか香彩(かさい)の首筋を離れていた。蒼竜は顔を上げ、じっと見据えているように前を見て動かない。  香彩(かさい)は身体を捩らせて、蒼竜の片前肢から何とか両腕を引き出した。そんな様子を感じ取っていたのだろうか。身体を押さえ付けていた片前肢の重みが増す。  その苦しさに、思わずくぐもった声を香彩(かさい)は上げた。だが両腕さえ出てしまえば『力』が使える。 (……後悔したくないし……)  させたくない。  震える両手を独特な形で組み、『力』を込めて言葉を発そうとした、その時だ。

ともだちにシェアしよう!