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第123話 発情 其の五
身体の重みが消えた。
何があったのかと香彩 が敏速に身を起こせば、蒼竜の巨体が勢いよく突き飛ばされ、森の木々を薙ぎ倒していた。
蒼竜が地面へ落ちるその振動に、香彩 は地に手を付いて耐える。
そんな香彩 の身体を庇うかのように、包み込む黄金の光があった。光に包まれていたそれは、とても綺麗で大きな竜翼へと転変を遂げる。
ふわりと香るのは、夕闇の迫った刻時の空気のような、独特の香りだ。
「……療 」
まるで空でも見上げるかのように、香彩 は顔を上げて、その名前を呼んだ。
ぐぅ、と香彩 の声に応えたのか、唸り声に似た声が上がる。
揺蕩う黄金の神気に、巨体かつ優美なその御身。黄竜 が本来の大きさで顕現していた。
真竜の中でも彼らを統べる一族だと言われている皇族黄竜は、蒼竜に比べると一回り以上の大きな竜形を持っている。
顕現と同時に体当たりを食らわされた蒼竜は、堪ったものではなかっただろう。
『……香彩 。竜の咆哮を聞いても動けるように、今すぐ結界を張って』
頭の中に響いてくる療 の、いつも通りの声色に香彩 はひどく安堵感を覚えた。あまり見ることのない黄竜の巨体と、溢れんばかりの神々しい神気に圧倒され、まるで療 が別物に成り果てたように感じたのだ。
『張れたらオイラ、竜ちゃんの動きを止める為に吠えるから』
療 の言葉に香彩 が無言で頷いた。
すっ、と香彩 が手を動かせば、青白い術力の光が軌跡を描く。『力ある言葉』を囁き、療 の神気を借りて術力に織り込めば、まるで息をするのと同じような感覚で、香彩 の回りに結界が生まれた。
それを確認した黄竜は『力』を込めて、蒼竜に向かって咆哮する。
本来であれば耳を押さえて、蹲ってしまうほどの大きな音だ。そして蒼竜にぶつけられた、甚大な神気の余波。それだけで呼吸器官を病 られてしまいそうだと、香彩 は思った。だが療 の忠告通りに結界を張ったおかけで、自分の動きが遮られずに済む。
重さを感じさせない動きで、黄竜は地を蹴った。黄竜に体当たりをされ、吹き飛んだ蒼竜の後を追いかけるように、大きな竜翼を器用に羽撃 かせ、巨体に似合わない速さで低空を飛ぶ。
蒼竜にとってはそれこそ、堪ったものではなかっただろう。格上の神気をぶつけられて動けなくなった所に、自分よりも大きい巨体が迫ってくるのだから。
真竜には自分より『力』の強い者に対して頭を垂れ、その意思に従属する隷属本能がある。
療 は竜紅人 の動きを止めると言った。
あの咆哮の中には、『動くな』『止まれ』といった療 の意思が詰まっているのだろう。
(……けど竜紅人 が……)
格上の神気をぶつけられ、『力ある言葉』によって動きを制限されても、それに素直に従うだろうか。
精神の保つ限り、本能に抗 おうとするのではないだろうか。
一度、真竜の隷属本能を覆したことのある蒼竜だ。あの時はまだ竜紅人 の『人』としての意識があった。だが今は『真竜』としての部分が大きい。それがどんな形で、本能を左右されるのか分からない。
香彩 は身の回りの結界を維持しつつ、黄竜と蒼竜のいる方向を見つめながらも、その身体は無意識の内に後退していた。
第六感とも言うべき、自身の中にあるものが告げているのだ。
来る、と。
本能を捩じ曲げて。
狂おしく自分を求めて、蒼竜は必ず来ると、告げているのだ。
後退しながら香彩 は片腕を前に伸ばし、手を広げた。結界の応用だ。療 の神気を借りて障壁を作り出し、低空で飛んで来る蒼竜を弾き返す為のもの。
真竜の『力』を誓願し、己の『力』と混ぜ合わせて術を織り成す縛魔師は、『力』を借りる呈 を見せつつも、彼らを上手く誘導し従わせなければ、より強い『術力』を得ることは出来ない。
不意打ちでなければ、そして『術力』を発する両手と声帯が無事であれば、あの大きな竜形にも、いくつか対抗手段があるのだ。
(……本当は使いたくない)
蒼竜に対抗するのであれば、彼よりも格上の真竜である、黄竜の『力』を借りることは、何よりも一番の方法だ。だがそれによって蒼竜が、自分の術によって傷付く所を見たくないと思う自分がいる。
(違う……違う。蒼竜に捕まったら駄目なんだ)
捕まって先日のように蒼竜屋敷に連れ込まれてしまえば、それこそ『終わり』なのだ。屋敷に張り巡らされた結界が療 を拒むだろう。あれは結界を張った術者と蒼竜、そして術者と蒼竜に近しい者しか入ることが出来ない仕様だ。
(……あの屋敷に、入ることが出来るのは自分達と……)
術者である紫雨 だけだ。
兆しでもある、この夜降 ちの小雨に、あの人は気付いただろうか。
──期限は二日だ。だが事態が動き次第、この期限は無いものと思え。
──もし調査に出ているのであれば迎えに行く。そのまま儀式に移るだろうから……心積もりはしておくことだ、香彩 。
迎えに行くとあの人は確かに言ったのだ。
だが夜半に城を出たことを、あの人は知らないはずだ。
(……だから……)
蒼竜屋敷に唯一入ることの出来る紫雨 が、状況に気付いて助けに入った時は、きっと既に手遅れに違いない。
今ですらこんなにも身体が熱いのだ。
蒼竜に抱き竦められ、身動きの取れないままに、あの濃厚な発情した香りに包まれたなら。
きっと蒼竜の望むがままに、身体を明け渡してしまうだろう。
(……だから……っ!)
捕まるわけにはいかないのだ。
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