124 / 409

第124話 紫雨 其の一

   蒼竜が凄まじい咆哮を上げた。  それは黄竜から発せられた神気と、込められた命令を何としてでも跳ね返すのだと、言わんばかりのものだった。  立て続けに蒼竜は大きく吠える。  黄竜に対してそれが、どれほどの効果があるのか香彩(かさい)には分からない。  だが香彩(かさい)には直感があった。  来る、と。  それは香彩(かさい)が想像し、警戒した通りの出来事だった。  唸り声を上げた蒼竜は、巨体に似合わない速さで低空を飛んで来た黄竜の、巨体であるが故の隙を付いた。  速さなら蒼竜の方が分があるのだろう。  黄竜の横を擦り抜け、突き飛ばされて出来た森の道を、戻るようにして蒼竜は飛ぶ。  真っ直ぐ香彩(かさい)に向かって。  そんな蒼竜の動きを気配として捉えていた香彩(かさい)は、後退しながらも前に突き出していた手に『力』を集める。  呼吸をすることが無意識なように。  当たり前にあるべきものとして、借りた神気に術力を合わせて、障壁を織り成そうとしたその刹那。  とん、と。  何かが香彩(かさい)の肩に当たった。  背中に感じた温かいもの。  それは思わずその庇護に縋り、泣き出してしまいそうな温もりだった。 「ぁ……」  親しんだ気配が、香彩(かさい)の背中から全身を包み込む。同時にぞくりとした何かが、背筋を駆け上がった気がした。  僅かに身を震わせる。  背後に感じた気配に気を取られ、織り成した術力が見事に霧散したことに気付くのに、瞬刻を要した。  頭上から仕方のないとばかりに、息をつく様子が伝わってくる。  まるで初めから香彩(かさい)の『力』がこうなると知っていたかのように、逞しい腕が前に突き出された。  香彩(かさい)が織り成そうとしていたものと同じ、障壁を作り出す術が、目の前で展開される。  巨体を感じさせない速さで、香彩(かさい)に向かって低空を飛んで来た蒼竜が、障壁によって弾き返され、低い呻き声のようなものを上げながら、地を滑った。 「……っ!」  竜紅人(りゅこうと)、と。  思わず声を上げてしまいそうになる香彩(かさい)の肩を、ぐっと掴む大きな手がある。その力強さを、体温の熱さを、とてもよく知っていた。  視界の端に映る金糸に、嫌でも身体が強張る。  術を発動させた反動なのか、荒く()かれる息が香彩(かさい)の髪を揺らした。それすらもまた、背筋をぞくりとさせる材料だ。  理由も分からずに、どうしても震えてしまう身体と声を何とか堪えて、それでもまだ消え入りそうな声で香彩(かさい)は、後ろにいる者の名を呼ぶのだ。  紫雨(むらさめ)、と……。    己が発した声の、あまりの弱さに香彩(かさい)はどこか愕然とした思いがした。喉の奥から押し出した声に、微かな狼狽が透ける。  彼が自分の元へ現れると、心のどこかで分かっていたはずだった。確かに彼は言ったのだ。  状況が変わり次第、迎えに行くと。  まさか夜半過ぎに城を出て、南の国境近くにいるとは思いもしなかっただろう。だがそれでも彼は香彩(かさい)を迎えに来たのだ。  紫雨(むらさめ)からの(いら)えはなかった。  だが返事の代わりなのか、ぐっ、と肩を掴む手の力が増す。引き寄せられるようにして、香彩(かさい)の背に彼の胸部が付く。  否応なしに触れる衣越しの体温に、思わず身を竦ませた香彩(かさい)だ。  恐る恐る肩越しに振り返り、紫雨(むらさめ)を見上げる。香彩(かさい)の視線に気付いているだろう紫雨(むらさめ)は、決して香彩(かさい)の方を見ようとはしなかった。  ただ無言で真っ直ぐに前を見据え、息を整えている。  障壁を張っただけだというのに、息を乱す紫雨(むらさめ)の姿に、香彩(かさい)は心のどこかで(くずお)れそうになる感情を必死に繋ぎ止めた。  酷使した紫雨(むらさめ)の術力は、ここ数年の間に徐々に衰えを見せ、悪化の一途を辿っている。  昨年に至っては雨神(うじん)の儀で、雨神(あまがみ)を召喚することが出来ず、香彩(かさい)が遂行した。  雨神(あまがみ)に食わせる術力(えさ)が足りなかったのだと言ったのは、紫雨(むらさめ)の言葉だっただろうか。それとも竜紅人(りゅこうと)の言葉だっただろうか。  自分の所為なのだと、香彩(かさい)は知っていた。自分が宿った時に父親の『力』の大半を、生まれてくる十月(とつき)の間に、少しずつ母親の『力』を奪って誕生した命だ。  生まれてからも一人で自分を育てる為、術社会で身体を『力』を酷使している姿を、ずっと見てきたのだ。  自分の中で絶対に揺るがないだろうと思っていた人の『揺るぎ』を改めて目の当たりにして、香彩(かさい)の中に生まれたのは、(くずお)れそうになりながらも、この人が持っているものを引き継ぐと決めた覚悟だった。  それがやがて『竜紅人(りゅこうと)が笑っていられる』未来に繋がるのだ。竜紅人(りゅこうと)によって術力を失った未来よりも、遥かに良いだろうと信じるしかない。  香彩(かさい)紫雨(むらさめ)の見ている方向を見据える。  障壁によって弾き返され、地を滑るようにして吹き飛ばされた蒼竜の先には、黄竜が待ち構えていた。  黄竜はその巨体を利用して、身体全体で蒼竜を受け止めると、長く太い首に食らい付いた。  蒼竜の悲鳴にも似た声が上がる。  だがそれに構うことなく黄竜は、深々と鋭牙を突き刺し、まるで獲物でも捕らえたかのように、蒼竜の竜体を引き摺り出したのだ。  

ともだちにシェアしよう!