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第125話 紫雨 其の二

   春夜更の、夜気と雨気の含んだ風が吹き始める。しんと冷えたそれに、香彩(かさい)は息を呑み、知らず知らずの内に身体を震わせた。  それはすぐに背後にいる紫雨(むらさめ)に知られることになる。  背に感じる己の物ではない温もりが、更に近くなった。強張る身体は決して雨に濡れ、風に晒された寒さの所為だけではない。  だが近くなった温かさは、不本意ながらも香彩(かさい)を、酷く安心させるものだった。 「──よくやった。そのまま動きを止めておけ、(りょう)」  命じることに慣れた声色だ。  感情の希薄さすら感じる紫雨(むらさめ)の低い声音が、夜陰に紛れて溶けて消えていく。それは元より冷ややかな春中夜の気候を、更に凍て付かせるようだと香彩(かさい)は思った。  きっと(りょう)竜紅人(りゅこうと)を見る彼の眼差しもまた、この寒さと同じように冷たく、だが怜悧なのだろう。  紫雨(むらさめ)の声に応えるように、低く唸り声を上げるのは黄竜だった。  蒼竜の太い首筋に食らい付く黄竜は、ずるずると蒼竜の竜体を引き摺りながら、香彩(かさい)紫雨(むらさめ)の目の前に現れた。  まるで仕留めた獲物を見せに来たような、そんな黄竜の様子に、香彩(かさい)は胸を衝かれる。  蒼竜はぐったりとしていた。  無意識の内に気配を読んで、そして知る。  雄大に揺蕩う黄竜の、身が竦むような神気を、鋭牙を通して蒼竜に流し込んでいるのだと。  『力ある言葉』による拘束が難しいと、黄竜は判断したのだ。  蒼竜からすれば命令と隷属の本能の根源そのものを、直接竜体に叩き込まれたようなものだ。今まで幾度も真竜の隷属本能を覆してきた彼も、これには堪ったものではなかっただろう。  蒼竜の首筋の綺麗な鱗の上に、紅色の鮮やかな幾筋の線が描かれていた。  ぽたり、と。  それは前肢の鋭爪を伝い、小雨によって湿り出した地面へと落ちる。  時折、苦し気な息遣いを蒼竜が見せるが、黄竜が意に介する様子など全くなかった。蒼竜を咥えながら腰を下ろした黄竜は、まるで命令を待つ大型の狗のように、真っ直ぐな視線で紫雨(むらさめ)を見ている。  もう大丈夫だと判断したのか、紫雨(むらさめ)は無言のまま黄竜に向かって頷いた。  僅かに低く唸り声を上げた黄竜は、ゆっくりと蒼竜を地に降ろし、首筋から鋭牙を抜く。  ぽっかりと開いたふたつの丸い傷痕が、(かつ)(りょう)から、そして蒼竜から付けられた牙痕を思い起こさせた。 (……ぁ……)  香彩(かさい)の周りに、甘い香りを含んだ僅かな風が起こる。  蒼竜の傷を治そうとしていた黄竜の視線が、香彩(かさい)へと向けられた。  その時だ。  竜体をぐったりとさせ、閉じていた蒼竜の眼が大きく見開かれたのは。 「──っ!」  それは相手を射貫かんとばかりの、鋭い眼だった。  蒼竜のそんな眼など、今まで見たことがなかった香彩(かさい)は、心内で酷く動揺する。香彩(かさい)の記憶の中で残っている蒼竜の眼は、優しい眼だった。蒼竜に浚われ、無体を強いられた時ですら、熱が籠りぎらついてはいたが、優しい眼だったのだ。  視線は紫雨(むらさめ)に向けられていた。  彼は平然とそれを受け止めている。  まるでそれが当然なのだ、当たり前なのだといった様子に、香彩(かさい)は驚愕しながらも理解する。  この人は、ひとりで悪者になるつもりなのだ、と。    この状況は誰が悪いわけでもない。  だが(りょう)に聞けば『よくよく考えればこれ、竜ちゃんでしょ原因は』ぐらいのことは言いそうだと香彩(かさい)は思った。  それでも香彩(かさい)は『誰かが悪い』とは思えないのだ。  だが紫雨(むらさめ)はひとりで悪者になろうとしていた。本能的な蒼竜の怒りを自分に向けようとしていた。  香彩(かさい)の肩を掴み、背中に温もりを感じるほど身体を寄せ、蒼竜からの鋭い視線を平然と受け止める。お前はそこで這い(つくば)って見ていろと言わんばかりの態度は、(わざ)とだろう。  全てが終わったあと、自分の子供が愛しい人の所へ戻れるように、理由と『道』を作るつもりなのだ。 (……分かってしまったら)  素直に従うことなんて出来ないと、香彩(かさい)は思った。  蒼竜の怒りを紫雨(むらさめ)だけに、向けさせるわけにはいかないと思った。 (僕は……間違えてしまったから)  竜紅人(りゅこうと)の拒絶の仕方を。  たとえ何があったとしても、言葉が届かなくなる前に、ちゃんと竜紅人(りゅこうと)と話をするべきだったのだ。  この状況は決して、誰が悪いというわけではない。  だけど誰かひとりが、悪者になるというのなら。 (……紫雨(むらさめ)だけが悪者になるというのなら)  自分も悪者に、共犯者になろうと心内で固く誓う。  香彩(かさい)は深く息をついた。  これからすることに対して、震える手をぐっと握り込む。  見る者によっては、裏切りにしか見えないだろう。  そして蒼竜にとっては、明らかな裏切りだ。  だがどうしても自分が動かないという、選択肢は出来ないと思った。紫雨(むらさめ)だけの所為にすることなど出来ないと思った。  紫雨(むらさめ)が這い(つくば)る蒼竜を睥睨し、蒼竜の目の前で今からお前の御手付(みてつ)きを奪うのだと、言わんばかりに香彩(かさい)の肩を掴む。そしてあくまでも香彩(かさい)は、仕方なく紫雨(むらさめ)に従った被害者なのだという(てい)を、紫雨(むらさめ)自身が取ると言うのであれば。    香彩(かさい)は蒼竜の鋭い眼光を見つめながら、力を抜いた。いずれあの眼に射貫かれることを想像しながら、背中に感じる紫雨(むらさめ)の温もりに凭れ掛かる。  紫雨(むらさめ)の、はっと息を呑む様子が伝わってきたが、香彩(かさい)は構わなかった。  震えそうになる身体を手を何とか堪えながら、紫雨(むらさめ)の衣着の合わせの部分を掴む。    そして僅かに見える肌に(わざ)と。  熱くなった息を吹き付けるように吐いたのだ……。      

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