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第128話 紫雨 其の五

   紫雨(むらさめ)の言葉に、蒼竜の首筋に食らい付いていた黄竜が、表情豊かにその紫闇の眼を大きく開け、きょとんとする。  どこに、とでも言いたげな黄竜に、聞こえてくるのは喉奥でくつくつと笑う、紫雨(むらさめ)の声。 「──蒼竜屋敷だ。あの屋敷には、まだ俺の結界が効いている。少し書き変えれば使えるだろう。彼奴を幽閉するには何かと都合がいい」 『……』 「最も、本能を凌駕した彼奴のことだ。俺の結界がどこまで通用するか分からんがな。もしもの時は……彼奴を抑え込め。(りょう)」 『……是』  黄竜はそう(いら)えを返すと、大きな黄金の竜翼を広げる。  蒼竜を咥えたまま飛び立とうとする黄竜に、蒼竜が弱々しくか細い声を上げた。黄竜はそれを無視する形で、その優美な竜翼を羽撃(はばた)かせる。黄竜と蒼竜の竜体が浮けば、蒼竜の身体の重みが全て、鋭牙を刺し込まれた首筋に掛かるのだろう。痛苦を感じさせる高い鳴き声が上がるが、次第にぐったりとして、ついには声すら上げなくなった蒼竜だ。  やがて空高く舞い上がった黄竜の姿が見えなくなる。  香彩(かさい)は熱い息を吐き、力の入らなくなった身体を紫雨(むらさめ)に寄り掛からせながらも、無意識の内に、その気配を追っていた。    幽閉。  紫雨(むらさめ)のその言葉が、香彩(かさい)の心の奥で重く伸し掛かり、痛みへと変わる。  確かに蒼竜を何処かに閉じ込めなければ、蒼竜はすぐにでも香彩(かさい)の元へやってくるだろう。発情期のあの甘い香りに包まれてしまえば、抵抗など出来ないと香彩(かさい)は嫌でも思い知った。ほんの僅かに嗅いだだけだというのに、香彩(かさい)の身体は未だに熱を持ち続けているのだ。  そして抵抗の出来ないままに蒼竜と交接してしまえば、香彩(かさい)は『力』を失う。蒼竜が我に返り、香彩(かさい)が『力』を失くしたことを知れば、悲痛な表情を浮かべながら嘆き、謝罪するだろう。香彩(かさい)が側にいる限り、罪悪感をずっと心内に持ち続けるだろう。どんなに時が経ってもそれは変わらないと、長年の付き合いから香彩(かさい)は断言できる。 (……そして、いつか……)  自分が竜紅人(りゅこうと)を責めてしまう日がやって来る。  それはもう関係の破綻だ。 (……だから)  覚悟を決めた。  紫雨(むらさめ)の『力』のことを含めて、覚悟を決めたというのに、どうしてこの手は震えるのだろう。 「……寒いのか?」  香彩(かさい)を気遣う低い声が、上から降ってくる。  寒いのだろうか。  内から来る熱に、どこかぼぉうとした頭で香彩(かさい)は、そんなことを思う。  確かに産毛のような柔い兆しの雨に、ずっと晒されていたが、あまり寒さを感じることはなかった。  寧ろ香彩(かさい)の身体の支えている紫雨(むらさめ)の片腕から、彼の体温が伝わってきてとても温かいと思った。  だが手は、ふるりと震えるのだ。  香彩(かさい)は無言のまま、首を横に振る。  そんな香彩(かさい)の様子に、紫雨(むらさめ)は小さく息をついた。  少しでもその震えを止めようとしたのだろうか。  香彩(かさい)の身体を支えながら、その骨張った大きな手が、香彩(かさい)の震える手を握り締める。  びくり、と。  香彩(かさい)の身体が大きく揺れた。  何故こんなにも反応してしまったのか、香彩(かさい)自身にも分からない。  怯えにも似たそれに、紫雨(むらさめ)のつく小さな息が、再び上から降ってくる。 「……俺が恐い、か」

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