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第262話 光挿す 其の六

「……っ!」  言葉を詰まらせる香彩(かさい)を、雨神(あまがみ)はくすりと笑う。  そして香彩の額に触れたままの指を、軽く指弾した。  その指先には、雨神の神気が込められていたのだろう。ふわりと香るのは、まさに今にも降り出しそうな雨の匂いだ。  何故か香彩は不意に幼い頃を思い出した。  降り出した雨に喜んではしゃいで、衣着を泥塗れにして、まだ幼竜だった頃の竜紅人(りゅこうと)に叱られたこと。だが幼竜としての本能が抑えられなかったのか、結局二人で遊んで泥塗れになったこと。そんな泥塗れの二人を見て、少年だった頃の紫雨(むらさめ)が、苦笑いをしていたこと。その後、仲良く二人して熱を出して、真竜も熱出すんだって言った紫雨に、喧しいわと竜紅人が言い返したこと。   そんな懐かしくも温かく、今は遠くに行ってしまった思い出が甦る。  だが。 「……随分と『内側』が招影(しょうよう)の毒に病られているだなえ。香彩、若竜と共にもう一度、あの闇の中に戻りゃ」  思い出に(いだ)かれた幸せな気持ちのまま、だんだんと香彩の意識が遠退いていく。それでも雨神の言葉が聞こえているのか、香彩は身を震わせながらも、首を横に振った。  そんな香彩の様子に、雨神は再びくすりと笑う。 「招影(しょうよう)によって視えなかった真実があるえ。それは知り得たことでもあるし、知り得なかったことでもある。逸らさずに見りゃ。あの闇の中には、香彩自身が知らなかった、人の思いも隠されているからえ」  雨の匂いがより濃厚さを増して、辺りに広がった。それはまさに雨神の『力』の象徴だ。 「無理矢理に開いたこの場所も、招影(しょうよう)の毒によってやがて消えてしまう。そうなれば吾々もここには留まれまい。だから若竜に吾々、春を司る真竜の『力』を預ける。水の」 「そうさえ、雪の。冬の寒さに耐え、春に芽吹く生命の強さを授けようえ、若竜よ。そしてこの『力』を持った真竜の咆哮こそ、厄を払う啼声。闇を生み出すものを慄かせ、この常夜を照らす真実の道しるべえ」  雨神と雪神の神気が一段と強くなる。それは香彩にとって今にも降り出しそうな雨の匂いと、澄んだ水に包まれるような研ぎ澄まされた雪の匂いに感じられるのだ。 「忘れるでないよ、蒼竜の咆哮を。お前を守り、導くものえ。恐れず闇を見りゃ。闇を暴き、偽りなき真実を視せる、厄を払う啼声を」  忘れるでないよ。  雨神の声がとても遠くに聞こえたのを最後に、再び訪れる暗闇が香彩の五感を奪っていったのだ。    

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