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第267話 偽りなき真実 其のニ

   ──忘れるでないよ、蒼竜の咆哮を。お前を守り、導くものえ。恐れず闇を見りゃ。闇を暴き、偽りなき真実を視せる、厄を払う啼声を忘れるでないよ。  不意に雨神(あまがみ)の声が、頭の中を過る。  闇を暴き。  偽りなき真実を視せる。  厄を払う啼声。  それは今まで聞いてきた蒼竜の、様々な啼き声の中でも厳かで、どこか温かい感じがした。  まるで啼声に、後ろから優しく、だが力強く抱かれているかのように感じて、香彩(かさい)はそこにいる何かに頬を寄せる。  厭魘艶嫣(えんえんえんえん)と。  怨瘟陰鴛(おんおんおんおん)と。  招影(しょうよう)の毒の啼き声が、闇を暴く光の『力』を押し戻そうとする。だが本来であれば、招影(しょうよう)と蒼竜は補食関係だ。魔妖を喰らい、己の『力』の糧とする真竜に敵うはずがない。  蒼竜が今一度、啼く。  その優しくも力強い竜啼によって、その『場』にあった一枚の緞帳のようなものが、さっと取り払われたような、そんな空気の軽さを感じた。  同時に成人の儀の、しとどに濡れそぼつような、艶やかさが匂い立つかのような、情事の感覚から解放される。  いま目の前に存るのは、自身の記憶を第三者の立場から見ているかのような、そんな不思議な感覚だ。  それはまさに自身の記憶通りの光景だった。  成人の儀の場に()ばれた竜紅人(りゅこうと)が、紫雨(むらさめ)の目の前で香彩に触れる。真竜の本能でもある嗜虐性に突き動かされながらも、彼が一体何を思って自分に触れたのか、香彩にはやはり分からなかった。  嗜虐性の色が増して、時折金目に煌めく竜紅人の伽羅色の中に見え隠れする、渇いた愛憎。  愛らしくも憎らしいと、瞳は揺れる。  だが、蒼竜は啼いたのだ。  それは真実ではないのだと、啼いたのだ。   「……()ばれなくても、絶対に乱入してやるって思ってたからなぁ」  「えっ……」  もう随分と聞き馴染んだ声が、耳元に囁かれる。  反射的に振り向こうとしたが、それは叶わなかった。  啼声に後ろから優しく、だが力強く抱かれていると思っていたそれが、竜紅人の腕であることに気付いたからだ。  やがて感じる背中のぬくもりに、妙な気恥ずかしさを感じて、香彩は無意義の内に身を捩る。だが逃がすまいとばかりに、竜紅人が腕の力を強めた。 「ほら……覚えているか? お前が蒼竜屋敷で、ここに、唇痕を強請ったこと」  とんとん、と。  竜紅人の長い人差し指が、香彩の鎖骨の窪みの少し下当たりを、軽く叩く。  香彩は無言でこくりと頷いた。  忘れるはずもなかった。  (りょう)から下された人形(ひとがた)を一定期間封じるという罰は、香彩にとってどうしようもなく寂しいものだった。決して竜紅人がいなくなる訳ではない。蒼竜の姿で自分の側にいるというのに、人形(ひとがた)で会えないということが、寂しくて仕方なかった。  だから強請ったのだ。  唇痕を付けてほしい、と。  消えないように、強く強く付けて欲しいと。  時折それを眺めては、自分を慰めようと思ったのだ。 「ここに俺の神気を込めていた。罰で人形(ひとがた)を封じられることが、分かっていたからな。媒体があれば思念体で、人形(ひとがた)を見せてやれるって思って。同時に、この媒体があればお前のいる所に、思念体でどこにでも潜り込める、そう思った」

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