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第339話 嗣子と罰 其の二十一

 紫雨(むらさめ)香彩(かさい)の酒杯に杯を合わせる。  ぐいっと呷るその様子は、もうこの話は終わりなのだという、線を引いたことを意味していた。彼は既にもう今後の在り方を決めてしまっている。勅命と願望を飴と鞭のように使い分ける紫雨に、自分が敵うはずもない。  香彩も酒杯に残った酒を一気に呷る。  こくりと音を立てて、少し温くなった酒が喉を通った。  全て飲んでしまって、酒杯が口から離れたその瞬間に、大宰私室(ここ)にいる理由が無くなるのだ。何故かそれがひどく寂しいものに思えてしまう。  酒を全て飲み終えてから、香彩は寝台から徐に立ち上がった。先程持ってしまった感情を振り切るかのように卓子に向かって歩き、酒杯を置く。  不意に。  ああ、自分は彼に守られているのだと、守られていたのだと、唐突にそんなことを思った。勅命と突き放しているようでいて、実は自分の見えない所から庇護の翼に包まれていたのだと、今更ながらに思い知る。   (この寂しさは……)    もう既に貴方だけのものではなくなってしまったことと、貴方の腕から旅立つ寂しさか。  だがもう一度と思った。  もう一度、その顔を見ておきたいと思った。  香彩は寝台の縁に腰掛けている紫雨に振り返る。  須臾(しゅゆ)にして彼の深い翠水と視線が合った。それは紫雨がずっと、自分の姿を目で追っていたということではないのか。  何故か急に気恥ずかしい思いがして、香彩は顔が熱くなった。だが視線を逸らすことなど出来そうになかった。  紫雨の瞳が慈愛に満ち、あまりにも優しくこちらを見ていたが為に。   「……っ」    気付けば正面から抱き竦められていた。  その腕の優しさや体温の熱さに、緊張と安堵が入り混じった様な、複雑な感情が心内を占める。   (……だけどもう)    こんな風に身体の全てで貴方の温もりを感じることなど、もうないだろうから。  香彩は紫雨の抱擁に応えるかのように、彼の大きい背中に腕を回した。  くつり、と頭上から紫雨の笑う声が降ってくる。   「……何かあったらいつでも戻って来い。お前にはちゃんと帰る場所がある。もしも大宰私室(ここ)が帰り辛いと思う様なら、昔使っていた北の離れにも手を入れておく。私邸でも構わん。だから安心して『俺の傍(ここ)』から飛び立て。鳳雛たる我が嗣子よ」    罰なんだから流石に大宰私室(ここ)は駄目だよと心の中で思いながらも、紫雨の柔らかい声色に香彩は子供の時のように、うん、と返事をする。  額に落ちてくる唇を感じた香彩は、そのくすぐったさに顔を上げた。  掠めるように。  触れるだけの接吻(くちづけ)を交わして、二人は離れる。  思わず昂ってしまった気持ちを落ち着けるかのように、香彩は無言のまま紫雨の横をすり抜けて、玻璃の入った露台の引き戸を開けた。   「……白虎」    口の中で呟くように小さく呼べば、春風を纏いながら現れた虎竜が、身体の重みを感じさせない動きで露台に降り立つ。撫でろとばかりに大きな頭を摺り寄せられて、香彩は思わず苦笑した。  一頻り撫でてから香彩は白虎の背に乗る。   「──香彩」    呼ばれて香彩は、紫雨の方を見た。   「怖い思いをさせてしまったな。すまなかった」 「……っ!」    空気までもが黄金に染まるかのような夕闇の世界の中、部屋の中にいる為か、彼が今どんな表情をしているのか暗くてよく見えなかった。だがこんな別れの際に、紫雨にそんなことを言わせてしまったことに香彩の胸は痛む。  香彩は首を横に振った。  そうして紫雨に向かって精一杯の笑顔を見せる。   「怖くなんてなかったよ……父上」    久々に父と呼んだ照れ隠しからか、香彩は白虎の首を軽く叩いて飛翔するように指示を出す。  香彩は紫雨の姿が見えなくなるまで、皇宮母屋が見えなくなるまでずっと、彼のいる方向を見つめていた。  

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