340 / 409
第340話 撞着憤む 其の一
すっかり日の落ちた暮夜の少しひんやりとした空気の中を、びょうびょうと風を切る音が響き渡る。夜さりの闇を跳ね返すかのような黄金の光が、真っすぐに麗城中枢楼閣に向かって飛んでいた。
黄竜だ。
その姿を見ても楼閣に勤める者は特に驚くことはない。黄竜がここに住んでいることは公然と知られていることでもあるし、その本性もとても良く知られている。世話好き甘味好きの、人よりも人間味のある真竜だと。
黄竜は楼閣にいる者がそう思っていることをよく知っていて、敢えて人形を執らずに中枢楼閣の上空を飛んでいた。歩くのが面倒だったのだと、心の中で身も蓋もない言い訳をする。やがて見えてきた目的の建物に、少しずつ下降を開始した。
皇宮母屋 の第二層目にある、大宰 私室の露台だ。
重さを感じさせない動きで露台に足を付ける頃には、黄竜はその姿を少年へと転変させる。
蒼竜屋敷で蒼竜を封じ込めていた療 は、香彩 に蒼竜を引き渡し、その役目を終えて中枢楼閣に帰還した。
大宰私室 に訪れたのは、香彩が無事に蒼竜屋敷に着いたことを紫雨 に報告する為だった。執務の時間はもうとうに終わっている。本来なら明日の方がいいのだろう。だが療には妙な直感のようなものを感じていた。
彼は報告を待っている、と。
なんとなくそんな気がしてならなかった。
正面の大門を使わずに露台に降りた理由もそれだった。執務時間外の皇宮母屋の大門役に門を開けさせることに気が引けたし、何よりこの時間に自分が紫雨の元を訪れていることを、他の者に知られてはいけないような気がしたのだ。
「紫雨~? 入るよ」
中に彼がいることを気配で感じ取る。療は紫雨に呼び掛けながら、玻璃の入った露台の引き戸を開けた。
すり抜けるようにして私室に入り、素早く引き戸を閉めた療は、途端に手で鼻と口を覆う羽目となる。
部屋の中に漂うのは、あまりにも強くて芳醇な酒の香りだった。
しかもこの酒は、特別な清水と特殊な術力を編んで作られるという、真竜が酔い痴れる酒として有名な神澪酒 だ。
紫雨がこの酒を特に好んで飲んでいることは知っていた。
酒にも気配のようなものが存在する。酒気と呼ばれるそれは、視る者が視れば酒が持つ本質や香りが、ふわりとした煙やもしくは霧のように見えたりするものだ。療にはこの部屋に広がる酒気が、薄っすらとした白い煙のように見えていた。決して煙たいわけではないが、少し吸い込んだだけで脳の中までも酒気に冒されてしまいそうで、くらりと眩暈がする。
人が祀事の際に神饌のひとつとして神澪酒を用意するのは、この酒が持つ酒気と味を利用して真竜に気持ち良く酔って貰い、円滑に契約を済ませる為だ。
(──それにしても)
少し飲み過ぎではないだろうか。
そんなことを思いながらも、療の頭の隅で警鐘が鳴る。
まだ何もしていないというのに、息をするだけでひどく気持ちいいのだ。
出直した方がいい。報告なら明朝でも出来る。
療は後ろ手で引き戸を開けようとした。
だが。
──療、と。
ともだちにシェアしよう!