341 / 409

第341話 撞着憤む 其のニ

 少し酒に灼けて掠れた官能的な低い声に自分の名前を呼ばれて、(りょう)は無意識の内に紫雨(むらさめ)に視線を向けた。  そこには獲物を定めたかのような、獰猛な熱を深い翠水の内に秘めた、紫雨の目があった。   「──っ!」    ぞくりとした粟立つものが背筋を駆け上がる。  捕食関係の中でも高位に位置する自分が、捕食される側になってしまったかのような、そんな気分になる。頭の中に警鐘がけたたましく鳴り響くが、まるであの視線に身体全体を絡め取られているかのようで、療はこの場から自由に動くことが出来なかった。  ただ呼ばれるがままに、彼の近くに歩むことが出来るのみ。  紫雨は椅子に座り、粗野にも長い足を組んで酒杯(さかづき)を呷っていた。  卓子(つくえ)には空だろう爵酒器と酒甕がいくつか並び、床にも転がっている。  一体どれほどの量を飲んだのか。  全く酔った様子のない紫雨だったが、顔に出ていないだけかもしれないと療は思う。いくら紫雨が酒に強いとはいえ、度の高い辛口の神澪酒を何甕開けたのか分からないのだ。  現に療が卓子に近寄れば近寄るほど、その酒気は濃厚さを増していく。  ふと卓子の上にもうひとつの酒杯が目に入った。   (……ああ、そう、だよね)    それが誰の物だったのか、嫌でも分かってしまう。  きっとここで盃を交わしたのだ。   (一体ここで、どんな会話をしたのだろう) (二人はどんな風に変わったのだろう)    必要に駆られたからとはいえ、一度は契りを交わしたのだ。きっと以前とは雰囲気も違うはずだ。   (分かってて、あの時見送ったのに)    蒼竜屋敷の門上で、覚悟して見送ったというのに。  いざ彼を目の前にして溢れ出す醜い感情を、療は自分らしくないと心の奥に閉じ込めた。ここで溢れ出ても仕方ないのだ。これは彼にとって全く関係のない感情なのだから。   「──蒼竜の見張り、ご苦労だった、療」    そんな療の心情など知る由もない紫雨が、療に話し掛ける。   「お前がいなくては全て上手く行かなかっただろう。お前の働きに感謝している」    その言葉に療は、彼の瞳に潜む熱いものを振り切るかのように、くすりと笑った。   「……んじゃ、約束通り、金葉茶店の甘味一年分ね!」 「前にも聞いたが本当にそれでいいのか?」 「うん! オイラにとったら紫雨の神澪酒並みなんだよ、あのお店の甘味って」 「ほぉう? 神澪酒並みとは恐れ入った。そういえば金葉茶店に酒は出るのか?」 「酒? 確か……夜だけだったんじゃないかなぁ?」  「成程、夜か。甘味を食べながらの酒は、また違った味わいだと聞く。それでは政務が終わってからだな、療」 「うん! そうだね! ──……って、え?」    療がきょとんとした表情を浮かべながら、紫闇の目を零れそうなほどに大きく開けて、紫雨を見る。彼が一瞬何を言ったのか分からなかった。しっかりと聞こえていたのに、頭の中が中々彼の言葉を理解しようとしないのだ。   (え? え?) (だって、今の言い方だと)    まるで政務が終わった後に、一緒に金葉茶店に行くと言っているようではないか。  

ともだちにシェアしよう!