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第386話 求愛 其の五

 だから、逃げたのだ。  感情を雄弁に語る人形の表情すらも怖くて。  逃げて気持ちを落ち着かせようと思ったのだ。  そんな香彩(かさい)の言葉に、お前なぁ……、と竜紅人(りゅこうと)が胡坐をかいた膝に頬杖を付きながら、呆れた様子で言う。そしてもう、何度目になるのか分からないため息をついた。   「お前の逃げ癖は分かってるつもりだったが、それで逃げたって何の解決にもならんだろうが。『怖さ』が余計に増して、更に逃げる道に進んで深みに嵌るだけだ。嵌ってしまえば最後『怖さ』の為に偽面を被る……違うか?」    それは決して怒っている声色ではなかった。寧ろどこまでも呆れたような、それでいて仕方ないと思いつつも、諭すような雰囲気で告げられた言葉だった。  昔はよくこんな叱り方をされたことを思い出して、香彩の心の中に苦いものと温かいものが鬩ぎ合う。確かに彼の言う通りなのだ。  逃げれば逃げるだけ『怖さ』の深みに嵌る。やがてそれは取返しのつかない事態となり、『怖さ』の為に周りの者や自分自身ですら心を偽ることになる。  過去にもそんなことがあった。素直になったらもう終わりなのだと思って、嘘をついて擦れ違った。  あれからあまり時は経ってないというのに。  香彩は竜紅人の目を見ながら、こくりと頷いた。   「……逃げないで、ちゃんと向き合って話をするって約束したのに……ごめん、りゅう」     『怖さ』は依然、心の中に重く存在している。これを解消するには『怖さ』の原因となっているものに、直接向き合うしかないのだとよく理解している。   (向き、あって……)    話をして、答えを出す。  それの何と難しく、怖いことか。  嫌われたくないと思う人には特に。   「まぁ俺も何でいきなり人形(ひとがた)になったのか分かんねぇけど、人形(ひとがた)が怖いのならすぐにでも竜形に戻る。だから話を……──」 「──駄目……っ!」    それは咄嗟に口から出た言葉だった。  香彩は思わず自分の口元を手で押さえる。発してしまった言の葉のあまりの勝手さに、羞恥で顔に朱が走った。  竜紅人が驚いたような、そして更に呆れたような顔をして、目を大きく開けている。   「ごめん……何、言ってるんだろう、僕」    人形(ひとがた)が怖くて、この美麗な伽羅色に、自分がどのように映されるのか怖くて、逃げだしたというのに。久方振りに見た生身の人形(ひとがた)が見えなくなってしまうのも嫌だなんて。  竜紅人を見遣れば、彼は粗野にも自分の頭を掻き毟ったかと思いきや、何かを我慢するかのように悶えながら天を仰いでいた。  そしてもう本当に何度目になるのか分からない、深いため息をつきながら、面白そうにくつくつと笑うのだ。   「お前さ、俺の竜形もそうだけどさ……俺の人形(ひとがた)も、好き過ぎるだろ」 「──っ!」    

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