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第1話 神子のルシオ

 しゃん、しゃん、と腕の鈴が鳴る。 強く風が吹く中で薄布が腕に、足に、腹に絡みついて、また風をはらんで膨らむ。  ごおごおと耳元で鳴る風と、その風に乗って騒ぐ鈴の音と、 素足の爪先に石の冷たさを感じながら、くるくると回る。 もう幾度となく聞いた弦楽器と打楽器の単調な調べに、考えるより先に身体が動く。  滲む汗が艶のある黒髪をおでこやうなじに張り付かせるけれど、ルシオは気にならない。 高揚していくにつれ、頬は紅潮し、神秘的な黒い瞳が仔猫のように濡れる。 いまだ成長しきっていないすらりと伸びた手足が、しなやかに見る者を誘う。  薄布は軽く、踊ることを邪魔したりはしないけれど、ルシオの身体の線を露わにし、 視線を絡ませることには貢献するようだ。  少年の踊りに夢中になっている観衆は、一人一人が間仕切りの布によって小さな個室の中に収まっているけれど、皆一様に中央で踊るルシオに注ぐ視線に欲望を滲ませている。  薄布が腹に巻きつく度に、薄い腹と小さな腰回りに欲に満ちた視線が集まり、風が肌を露わにする度に、少年の一瞬の瑞々しさを湛える白い素肌に喉を鳴らす様が空気を伝う。  けれど、そんなことはいつものことで、ルシオは早々に周囲から自分を切り離し、踊りの中へと没頭していく。  こうして踊っているときだけが、唯一自由だ。 暑さも寒さも忘れ、疲れも足の痛みも感じなくなる。 耳を騒がせる風はルシオが回るのを助けてくれるし、このまま連れ去ってくれるような気がする。  ただ、何かと一体になるだけ。ただ、何かに身体を明け渡すだけ。 そのエネルギーのようなものに抱かれ、貫かれ、恍惚と微笑む。 この瞬間、ルシオは何にも縛られない強く自由な生き物になった気がする。  しゃん、と一つ鈴の音を残し、ルシオは神との交合とも言える舞を終えた。 周囲の布に仕切られた個室から、ほうとため息が漏れる。 けれど、拍手などは起こらない。 あくまで神に捧げられる、神を降ろすための舞であり、粛々と儀式は続けられる。  演舞の舞台は、塔のいちばん上、屋上だ。 より神に近い場所でという理由からだろう。  この国でいちばん高く白くそびえる塔の屋上は、普段は何もない。 いざ他国と戦争にでもなろうかという時には、見張り台の代わりにでもなるように。 現にこの塔は街から離れた国境付近の森の入口に建っている。  ルシオの仕える神は、この国以外にも勢力を伸ばしているから、他国にも似たような塔がいくつもあるはずだ。 ルシオは見たことはないけれど。  ルシオはこの国どころか、この塔すらほとんど出たことがない。 この塔だけがルシオの生活する場所だ。 王族や貴族の即位式だの結婚式だの葬儀だの祭事があるときだけ、塔から出て街の中にある神殿に赴く。 そうして、そこには大神官をはじめ多くの神官が贅を尽くした神殿で暮らしているのを知るのだ。  ルシオは世間から隔離された神子として、ただ塔で舞を舞うのみ。 神へ舞を奉納し、神が気に入ればその身体に降りて神託を授けたり、豊穣や繁栄を約束するという。 ***  無遠慮な手が、ルシオの身体の上を這いまわる。 目を瞑っていると、たくさんの虫が身体中を這いまわっているような気がしてくる。 けれど、目を開けると獣欲に目をギラつかせて、興奮で生臭い息をあげながらあえぐ顔が間近に見え、それはそれで耐えがたい。  自然と、顔を背け窓の外の月を見て意識を飛ばす術を覚えた。  男の体格のせいで、ベッドの脚がぎしぎしと音を立てる。  ルシオはこの塔で神子として過ごし、年に四度、この国の豊穣と繁栄を願って奉納の舞を捧げる役割を担っている。  けれど、その夜には、その演舞を見に来る国の権力者や貴族たちが積み上げた奉納金という名目の金品をより多く持参した者の慰みものになる。 神を降ろした神子であるルシオを抱くことで豊穣と繁栄を約束される、らしい。  神子は少年しかなれないと言われているけれど、それは妊娠の心配がないからだろう。 時の要人ばかりを相手にしているのだ、なにかの手違いで子胤でも残されたら大変なことになる。  そうして、ルシオの仕える神のための宗教は、多くの金品と国の重鎮からもたらされる様々な情報により、大きな力を得、勢力を大きくすることとなった。 この国では国政を担う中枢とほとんど同等の力を宗教は得ていて、裏でがんじがらめに癒着していた。  ルシオは塔に連れてこられて最初の舞を捧げた日の夜まで、神子というものがどんな存在か、自分がどんな役割でここに連れて来られたのか、なにも知らなかった。  体重をかけて上に乗ってくる男の臭いと汗ばんだ肌に嫌悪感が耐えられなくなった頃、枕の下に手を潜り込ませる。 硬く、冷たい感触が爪の先に当たると、必死で縋るようにそれを握る。 どさり。  上に乗っていた脂ぎった身体から力が抜けて、ルシオの体重の倍の重たさがかかり、汗に濡れる裸体がルシオに全て接する。 そこから動かなくなった男の身体の下からなんとか這い出し、ルシオはベッドから降りた。  グラスの水を口に含むと、とたんに吐き気がおそい汚水入れの瓶の中に吐いた。グラスの水で何度か口をすすぎ、濡らした布で身体をごしごしと拭くとようやく少し落ち着いたので、椅子に掛けてあった厚めの織布をきつく身体に巻き付けた。  ベッドの上の男は起きる気配がない。  石造りの窓の桟に腰を降ろすと、夜風がルシオの髪を撫で、吸い込むと身体の中から清められていくような気がした。  枕の下から握ったままだった手を開くと、革ひもの付いた赤い石が月の明かりを鈍く反射させる。  手のひらの中でころころと動かし、上下を指でつまんで夜空に透かして眺めた。  ルシオがこの石を握って助けを乞うと、今の今までルシオを嬲って傷つけていた人間がその場で昏倒する。  ベッドの上の男も、朝になると目を覚ますだろう。 眠っているあいだ、男は夢の中でルシオを好き勝手弄んで犯している。 目覚めた男はすっかりルシオを抱いた気になって、上機嫌で帰っていくのだ。  手の中の石は、ずっとルシオを守ってきてくれた。 冷たい石に、ルシオは口づける。この石があったから、ルシオは今も生きている。 もう何度も、この石を手にしたときの思い出を心のうちで反芻している。 ***  ルシオが育ったのは、森の中にある白く大きな建物で、極端に窓が小さく少なかった。 物心ついたときにはそこに居たし、両親という概念もなかった。 その建物はある宗教の施設で、そこに暮らす大人は全て親だと教えられ、全ての人間が兄弟だと教えられた。 血の繋がりなどは何もわからず、また誰も気にも留めなかった。  ルシオのほかにも大勢の同じ年ごろの子供たちが一緒に生活していて、そこから優秀な子どもが選ばれ、将来は神子になるのだと聞いていたけれど、今思えば容姿で判断される部分も多大にあっただろう。  神の名も奇跡も、舞も歌も全てそこで教わった。 子どもたちは一斉に教わるけれど、できない者には容赦がなく鞭が振るわれたし、できる者は食事が豪華になった。  ルシオにはどうやら舞の才能があったようで、一度手本を見せてもらえば同じように踊れたし、少し難しい動きも数度練習すれば翌日には完璧に同じ動きができた。 ルシオ自身にとっても、音や歌に合わせて身体を動かすことは、初めからとても気持ちが良く、歓びに満ちて、なににも縛られることのない自由だった。  けれど、世の中のこと、人々がどのように畑を耕し、どのように食事を作り、どのように働き、どのように家族をつくるかなどは、何も教わらなかった。 建物の外の街や村から人が訪れることもなく、子どもたちは建物の外がどうなっているのか誰も知らなかった。  建物からは決して出てはいけないときつく言い渡されていて、ルシオはいつも嵌め殺しの小さな窓から高い空を眺めていた。  ある日、その小さく切り取られた空の向こうでなにかが降って来るのを見た。  夜になって、ルシオはこっそりと建物を抜け出した。  子どもだけが知る、子どもだけが通れる抜け穴があった。 礼拝堂の奥の壁にかかるタペストリーをめくったところに、白アリに喰われて朽ちた柱と壁のあいだに隙間ができていた。  多くの子どもたちは、戒律や言いつけを破ると厳しく与えられる懲罰におびえて滅多に使うことはなかったけれど、ルシオは時々抜け出していた。  夜の森は暗く、ようとして暗く、月の明かりでかろうじて数歩先が見える。 夜に啼く鳥の声がおそろしく響き、遠く近くで獣の遠吠えが聞こえる。  ルシオは子どもだったけれど、夜の森よりも白い建物の中のほうがよほど恐ろしい場所だと感じていた。 だから、もう少し大きくなったら、あのタペストリーの裏の隙間が通れなくなる前に、ルシオはここを抜け出そうと思っていた。  夜の森の中で迷わぬように木々に印をつけ、ランプと食料を数か所にわけて隠した。 少しずつ、少しずつ準備をして、夜の森を探索して、地図を頭の中につくっておいた。  ルシオはその頭の中の地図に沿って、夜の森を歩いた。  一際大きな樫の木の下に、「それ」はいた。 暗い森の中のさらに奥深く、ルシオの背丈の三倍ほどもある小山の濃い影がわずかに身じろぐ。  グルルルル……ヴヴゥゥゥ……フ―ッフーッ……。 地を這うように低い獣の唸り声に似た声がする。  獣に背を向けることもできず、逃げ出すこともできない。 指一本動かすことが合図になりそうで、身がすくむ。 静かにしなければ、獣を刺激しないようにしなければ、と思うのに、奥歯がかちかちと鳴るのを止められない。  その時、暗闇に金色の炎が灯る。 ルシオの顔ほどもある大きさの炎が二つ。 太陽の光を集めたように煌めき、月の光を反射させたように揺らめいている。  その炎がわずかに細くすがめられ、ルシオを見据える。 ごくりと鳴る自分の喉がやたら大きく聞こえる。  ふいに、目の前が真っ赤に染まる。 粘膜でぬらぬらと光る赤い赤い口。 二股に分かれた大きな舌。 象牙のように白くとがった歯。 ルシオの頭から丸ごと中に入ってもおかしくない。 指一本すら動かせないルシオは、目を見開いたまま、ヒュッと息が止まる。 汗が一筋背中をつたった。  数十分にも数時間にも思えたけれど、本当は一瞬だったのかもしれない。 口が閉じられて、ルシオの目の前が暗闇に戻る。  グルルルル……?  獣が戸惑うように唸る。 もう一声脅してみようと思ったのか、再び大きな口を開けて、咆哮した。  とうとうルシオはその場にぺたりと座り込んだ。 腰が抜けた、といった方が正しい。 はあはあと肩で大きく息をしながら、こめかみに大量に汗が伝う。 ルシオの大きな黒い瞳は、二つの金色の炎から逸らせず見つたままだ。  けれど、獣はまたもや口を閉じてしまった。 「……」 「……」  お互いに見つめ合ったまま、時が止まったようにどちらも動かない。 「……食べないの……?」  ルシオの方が先に口を開いた。 獣が怒ったように唸り声を上げ、大きく口を開き、恐ろしい声で咆哮する。 けれど、ルシオを頭からばりばりと食べたりはしなかった。  ルシオはそっと手を伸ばした。 獣が数歩、後ずさる。 ルシオは立ち上がり、数歩前に足を踏み出す。 「……僕も怖かったから、一緒……」  もう一度手を伸ばすと、今度は暗闇の中で、かすかに冷たくて硬いものに手が触れた。 フーッフーッと威嚇するような鼻息が当たる。 手に触れたものをそっと撫でると、ざらざらと想像していたのと少し違う感触があった。  金色の炎がなにかを考えるようにすがめられる。  その時、月の位置が変わったのか雲が流れたのか、木陰の奥に光が差す。 金色の炎がきらりと煌めき、浮かび上がったのは、燃えるように真っ赤なうろこ模様の表皮。 先のとがった鼻先、地面には大きく滑らかな黒いかぎ爪が見えたかと思うと、すぐに数歩下がってまた濃い影の中に潜んでしまった。 今はまた、二つの金色の瞳しか見えなくなっている。  あれは、なんだったのだろう。 恐怖も忘れて、ルシオは濃い影のなかに足を踏み入れた。 二つの金色が戸惑うように後退してしまう。  怖がらせてしまっているのだろうか。 こんなに大きくて、ルシオなんて頭からばりばりと食べてしまいそうなのに。 ルシオは近付くのをやめた。 「……僕は、ルシオ」 きみは、なに?  あの施設では本はあまり与えてもらえなかった。 神の起こした奇跡の話は毎日読まされているけれど、ルシオは冒険の物語や魔法の国の伝説などが書かれた本のほうが好きだった。 その本の中に出てくる動物も、詳しい描写がなかったり、挿絵がなければ、ルシオには想像の範疇でしかなかった。 この森より外へも出たことがない。  だから、ルシオは自分の記憶を必死で辿る。 おおかみじゃない。しか、でもない。くま、もきっと違う。 目が金色で、赤くて、毛皮がなくて、大きな爪があって、口が大きい。 「きみは、……火とかげ?」  金色の瞳が今までになく細められた。 「本で読んだことがあるよ。火を吐く?」  たしかに、魔法の国にはサラマンダーが住んでいた。 けれど、ルシオにはひとつ、決定的に足りていない情報があった。 火を吐くサラマンダーは架空の生き物であって、現実に存在するトカゲとは別の生き物だということだ。 トカゲを実際に見たことがないルシオには知ることのできない情報だった。 そしてそれが、奇跡的にも、目の前の生き物が「なに」かを近いところまで言い当ててしまっていた。  サラマンダーは現実には存在しない。トカゲはこんなにも大きくはない。 普通に暮らしていた人間ならば、それを「知って」いるから、きっと目の前の生き物が受け入れられず恐怖で大声を出していただろう。 逃げ惑い、夜の森の中で獣に喰われていたかもしれない。  ルシオは、無垢で無知であったために、自分の目で見たまま素直に本能的に受け入れた。  あまり長い時間ベッドを空にできなかったルシオは、施設に走って帰り着いたあとでも、なんだか胸がどきどきしてうまく眠れなかった。

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