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第2話 ルカとアルバ

 翌日の夜も、ルシオは走って「火とかげ」に会いに行った。 「よかった。まだいた」  大きく息をつきながら、ルシオは手に持った麻袋から、綿の端切れで丁寧にくるんだ乾パンを取り出した。 「これ、あげる。 僕がいつかここを抜け出すときに持っていこうと思って準備してたものなんだ。 大丈夫、僕はまた集めるから」  闇の中で「火とかげ」が目を開けると、金色の炎が灯る。 その瞳が、いぶかしむように細められる。  ルシオが昨日の少年だとわかると、威嚇の唸り声さえあげないけれど、濃い木陰の奥に入ってしまって金色の瞳しか見えない。 「……これだけじゃ、足りないよね」  ルシオは、そっと一歩足を踏み出す。 ついに威嚇の唸り声をあげられてしまった。  びくりと肩を揺らして立ち止まるけれど、ルシオはそのまま手を伸ばす。 さらさら、ざらざらとした冷たさが手のひらに伝わる。 「……僕を、食べてもいいよ」  ルシオの声が、そっと闇の中に溶ける。 「きみが僕を食べたら……、僕はきみと一緒に遠くへ行けるでしょう」  ついにすぐ近くに金色の炎が見えるまでに近付いた。 代わりにルシオはそっと自分の目を閉じる。 あの大きく赤い口が目の前で開くと思うと、身体は意思に反して震える。  でも、ルシオは動かない。 目と手をぎゅっと固く閉じて、息をつめる。  ルシオは決めていた。 あの施設を抜け出すか、ここでこの美しい「火とかげ」に食べられるか。 「僕は、ずっとあそこにいるんだって。 もう少し大きくなって、住むところが変わっても、でもずっと僕たちは“神の僕”なんだって」  施設の子どもたちは、みな一様にそのように教育されていた。 女の子たちは神殿に勤め、神の子どもたちをたくさん増やすのがお役目。 男の子たちは若いうちは神を降ろすお役目があって、そのあとは神官を目指すか王侯貴族専用の神官になる。 それが、幸福なのだと。 そう教え込まれている。  もちろん、今まで抜け出そうとした子どもや、大人たちに逆らう子どももいたけれど、 ひどい懲罰のあとどこかへ連れて行かれて、もう会うことはなかった。  ルシオは、ルシオの人生を自分で決められない。  あの施設のなかで生まれた子どもたちは、一生“神の僕”なのだ。  それならば。 「……きみに食べて欲しい」  きみに、僕をあげる。 僕のからだを食べて元気になったら、どうか、遠く、いろんなところへ行って欲しい。 家がこの森なら、それでかまわない。 月夜の森を、明るい太陽の下の木陰を、自由に走り回って欲しい。  それは、とても幸せなことに思えた。 たとえルシオのからだは無くなってしまっても、ルシオのからだを食べた「火とかげ」がこの森で自由に生きていく。 だから、怖くはない。  そのとき、あたたかくてぬるっとしたものが、ルシオの顔を顎から頭の上までべろんと撫でた。 ぬるぬるとした液体にまみれた顔で、思わず目を開ける。 「……味見?」  首をかしげると、金色の瞳がわずかに細められて、またべろんと涎まみれにされた。 「……食べないの?」  「火とかげ」は、そのまま目を閉じてしまった。  その次の夜も、次の次の夜も、ルシオは夜の森を駆けて「火とかげ」に会いに行った。  何日も、夜ごとルシオがしつこく通うものだから、「火とかげ」はすっかりルシオを威嚇することを諦めてしまった。 「今日は舞が上手く舞えたんだ。だから、パンを二個もらえたよ」  ルシオの手の平をいっぱいに広げたくらいのパンを二本と、少しのナッツ、それから奥の泉で汲んできた水を、「火とかげ」の口に放り込んでやる。 「火とかげ」はどうやらケガをしているらく、ルシオが会いに来ているとき以外はじっと動かずに眠って過ごしているようだった。  自分がケガをしたふりをして、少しずつ少しずつキズ薬をこっそり持ち出してきたけれど、昨日は頭のてっぺん、今日は鼻の先、明日は足の指、と少しずつしか塗ってあげられなかった。 「ねえ、きみの名前、僕がつけてもいい? 僕の名前はルシオだけれど、きみは親友だから特別にルカって呼んでもいいよ」  肩のあたりのうろこが裂けてしまっている場所に薬を塗りながらルシオが言うと、 「火とかげ」はルシオの頭を甘噛みして髪の毛をぐちゃぐちゃにする。 「ふふ、いたいってば。もっと優しくだよ。 名前つけてもいいよ、って言ってくれてるの?」  ルシオは、「火とかげ」の鼻先に抱きついてうろこの感触を堪能する。 冷たくて、鼻のさきっぽはすべすべとしていて、もう少し上から目のあいだはざらざらとしている。 抱きしめると、とても気持ちがいい。 「……アルバ。アルバはどう?」  金色の瞳を覗き込むと、楕円形の瞳孔がきゅと狭まる。 「夜明け、の意味だよ。瞳の金色が朝焼けの太陽のようだから」  金色の夜明け。闇のなかで輝く希望のような煌めき。 ルシオにとって、自分の代わりに自由に生きてくれる大切な親友だった。  べろん、ちろちろと二股の細長い舌がルシオの顔を舐める。 「ふふ、気に入ってくれた?」  最初はなにを考えているのかちっともわからなかった表情だけれど、今はわかる。 ルシオとアルバは親友だからだ。 「アルバ、早く良くなるといいね。 そうしたら、一緒に遠くへ行こう。連れて行ってくれる?」  あの日、ルシオはアルバに自分を食べてもらいたかった。 だけれど、アルバはルシオを食べなかった。 もしかすると「火とかげ」は人間を食べない生態だっただけなのかもしれないけれど、 ルシオはそのとき何だか気が抜けたのだ。  幼いルシオなりに、命を賭した、覚悟を決めた提案だった。 だから、気が抜けたルシオは、絶対に、いつか生きて自分で自由になることを決めた。 どんなに辛いことがあっても、諦めない。生きて自由になる。 ルシオはそう決めた。  ケガが治れば、きっとアルバはここを離れるだろう。 そのときが、ルシオもここを離れるときだ。 ついにここを抜け出すときが来たのだ。  静かに決心しているルシオの胸元を、ぐいとアルバの鼻先が小突く。 「どうしたの、アルバ」  見ると、アルバが口になにかを加えている。 月の明かりを受けて、きらりと輝く。 「なに?」  もう一度、アルバがぐいぐいと鼻先を寄せる。 「くれるの」  ルシオが手を差し出すと、その中にころんと暗いかたまりが落ちてきた。 人差し指と親指でつまんで月明かりにかざすと、仄暗いけれど透明で、角度を変えると虹が表面を走った。 「石? きれいだね。僕にくれるの?」  石と同じように真っ黒の瞳をきらきらとさせて、ルシオは喜んだ。 誰かに贈り物をもらったのは初めてだ。 初めての親友からもらった、初めての贈り物。 ルシオにとって一生で一番の宝物になった。 「大切にする。ぜったい。だれにも見せない」  ぎゅっと手のひらの中に包み込んで、口元に寄せた。 『ルカ』  頭の中に、低く響くような声がした。 遥か遠いむかし、すごく安心できる場所で聞いたような、ゆらゆら揺れる真っ暗な揺り籠の中で聞いたような、そんなありもしない記憶の中に響いた声。 『その石を肌身離さず持っていろ。 お前が命を捧げたように、 俺の命はお前のものだ、ルカ』  ルシオは息をのんで、そのまま呼吸を忘れた。 ***  翌日、昼の日中で見ると、石は黒ではなく深い赤だった。 光に透かすと身体の中からきれいなまま取り出した血液を固めたもののように思えて、本当にアルバの命をわけてもらったような気がした。 「……すごくきれいだ」  この建物の中にルシオ個人の持ち物は存在しないけれど、子どもたちが交代で織物を織る部屋で半端になった糸をもらってきた。 その糸で石をぐるぐる巻いて、首にかけられるように組み紐もつけて、服の下に隠した。  今夜にも、もうここを出ることができるかもしれない。 その時に持っていくものは、この石だけでいい。 なにもいらないと思っていたけれど、宝物があるというのはそれだけで自分が空っぽではない証に思える。  なんだかとてもわくわくして、どきどきして、ルシオは走り出したいような気持ちになって、昨夜わかれたばかりなのにもうアルバに会いたくて仕方なくなった。  早く夜になるといい。一緒にどこへ行こう。一緒ならどこでもいい。 「どこへ行こうとしているんだ、ルシオ」  部屋を抜け出し、抜け穴のある礼拝堂に向かおうとしたとき、真っ暗な廊下の後ろから首を羽交い絞めされた。 「お前、昨夜も抜け出していたってな。ようやく捕まえたぞ」  この建物にいる大人は全員修道士のはずだけれど、子どもたちの前での言動はなぜかみな一様に乱暴で野卑ている。 「夜中に部屋を抜け出すのは、確か規律違反だったなぁ。こりゃ懲罰房だ」  ルシオは青くなった。 彼らは子どもの失敗や粗相をこまかく見咎めては、懲罰という形で自分たちのストレスや欲望を発散させているのだ。 懲罰房という部屋は、その最たるものだ。  今まで、何人かが連れていかれているのを見ているし、その子たちがどんな目にあっているのかも知っている。 「いやだっ、はなせっ、はなせよ!」  太い腕で上半身を羽交い絞めされたまま、ルシオは力いっぱい抜け出そうともがくけれど、びくともしないどころかそのまま後ろに引き摺られて行く。  絶対にいやだ、あんなところっ!  もうちょっとで外に出られたのに!  もう少しでアルバと一緒に行けたのに! 「ふん、ふだん目立たねぇように大人しくしてると思ったら結構な暴れっぷりじゃねぇか」  騒ぎを聞きつけて、さらに男が近付いてくる。 「ルシオじゃないか……まさか懲罰房に?」 「規律違反を見逃してやるわけにはいかねぇからなぁ」 「……は、はは、そうだな」  ごくり、と喉を鳴らす音がする。 せめてもの抵抗に、目一杯の力を込めて睨みつける。 「司祭さまには?」 「これから報告だ」  ずるずると引き摺られるようにして懲罰房のある離れの棟に連れていかれる。 そこには、この建物を統括する司祭が連絡を受けて待っていた。 司祭は、ちらとルシオを一瞥する。 「混ざりますかい?」 「バカな」  ふん、と侮蔑の表情で修道士を見る。 司祭は司祭で説教という名目で子どもを自室に呼んだりしているのだが、懲罰房という汚い場所は好かないのだろう。  どんと突き飛ばされ、ルシオは転がるようにして懲罰房に入れられた。  その後ろから、修道士たちがにやにやと下卑た笑いをたたえて入って来る。 バン、と左頬に強い衝撃が走る。 ぶたれたのだと自覚する間もなく、次は右頬に衝撃を受けて、ルシオは地面がむき出しの床に転がった。  鼻血を袖でぬぐって修道士を睨む。 鼻血が口に入ったのか、それとも口の中も切れたのか、血と土の混じった鉄の味が口のなかに広がる。  出入口である扉の前を立ち塞ぐように、体躯の大きな修道士と神経質そうな修道士がルシオを見下ろす。 「……神子候補だ、壊すなよ」  そう言いおいて去っていく司祭の、扉を閉める音がやけに大きく響いた。  修道士が、ルシオの頭を鷲づかみにして地面にうつ伏せに抑えつける。 暴れるルシオの右手と肩口をもう一人に抑え込まれて、ルシオは地面に横顔を擦りつけたまま、もう顔の向きも変えられない。  男たちがなにをしているのか、なにをされようとしているのかも見えないまま、 ルシオの服はたくし上げられ、下半身をむき出しにされる。 「……このツラにこの男好きのする肌だ。 俺は前々から怪しいと思ってたんだよ、お前は反抗心を持ってるってなぁ」 「神子候補が規律違反とは嘆かわしいぞ、ルシオ」 「お祈りで懺悔でもしてろ」 「お許しくださいってな」  好き勝手なことをのたまいながら、男たちの手が素肌に触れて、足を開かされる。  本当は大声で延々とわめき、泣き叫びたかったけれど、ルシオは奥歯を噛みしめて耐えた。 男たちを刺激することの方が怖かったし、怯えたり泣きわめいたりした方が悦ばせてしまうことも知っていた。  あごを噛み砕いてしまうんじゃないかと思うほど奥歯を噛みしめているのに、勝手にがちがちと鳴る。 頭を強く抑えられているから、フーッフーッと獣のような自分の息遣いがやけに大きく聞こえる。  その時、服の胸元から転がり出ていた糸のかたまりが目に入った。 見開いたままの大きな瞳から、ぽろりと一粒涙が転がり落ちた。  頭を抑えつけている手を必死で爪で引っ掻いていた唯一自由になる左手で、それを握る。 アルバ。たすけて、アルバ。  そう思った瞬間、手の中のかたまりが赤く発光して、指の間から光が漏れた。 ふ、と急に身体にかかる重圧がなくなる。 どさ、どさ、と音がして、恐る恐る顔をあげると、二人の修道士たちが倒れていた。 「……?」  ゆっくりと様子をうかがいながら体を起こし、自分に覆いかぶさっていた修道士の顔をのぞき見る。 息はしている。どうやら二人とも眠り込んでいるようだった。  ルシオは袖口で涙と鼻血と土を一緒くたに拭い、服を元に戻して、懲罰房の端っこにぎゅっと体を縮こませて身を守るように座り込んだ。  扉は鍵がかかっていて、おそらく眠っている修道士のどちらかが鍵を持っているのかもしれないけれど、目を覚ましそうで怖くて触れなかった。  ルシオは懲罰房の端っこで、小さくなって震えながら朝を待った。 天井近くにある鉄格子のはまった小さな窓の向こうがうっすらと明らんできた時、ルシオは「生きてる」と思った。 生きてる。生きてた。朝だ。アルバ。  思い出して、胸元から石を取り出す。 それはもう光ってはいなかったけれど、きっとアルバが助けてくれたのだと、ルシオが信じるには十分だった。  男たちが身じろぎし始めたときは、心臓がぎゅうと引き絞られたように恐怖と不安が押し寄せたけれど、男たちはただにやにやと下卑た笑いで満足そうに出て行った。  それから三日間、ルシオは懲罰房から出してはもらえず、夜には決まって男たちが来たけれど、ルシオを抑えつけたあたりでみな眠ってしまった。 けれど、その前にいつも何発かはぶたれたし、懲罰房にいる間は食事は一日一度だけだった。  懲罰房から出してもらえたあとも、しばらくは男たちからの監視も厳しかったし、ルシオ自身が恐怖を思い出すために夜中に抜け出すことができなかった。  そのときを境に、なにかと難癖をつけて懲罰房に連れていかれたことも数度あったし、なにもしていないのに空き部屋に連れ込まれたこともあったし、夜に司祭の部屋に呼び出されたこともあった。 けれど、どのときも、男たちは途中で眠り始めるのだった。  ルシオはアルバに会いたくて、お礼を言いたくて、アルバと遠くへ行きたくて、その想いばかりがつのった。 ようやく一月後に一度だけ抜け出して森へ入ったときには、すでにアルバは居なくなっていた。

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