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第3話 もう一つの出会い
それから数年後、ルシオは神子としてこの塔に連れて来られた。
この塔は、あの建物ほど警備が厳重ではないし、厳しい監視の修道士もいない。
ルシオの世話をしてくれている修道女が三人と、塔の一番下に修道士が二人。
この修道士がおそらく、逃亡の防止や警備などの役割を担っているのだと思うけれど、ルシオとはほとんど顔を合わせない。
街への買い物なども彼らが行っているらしいので、修道女たちとは交流があるのだろう。
ルシオが神子となってからは、ルシオは王侯貴族たちのものとなったのだ。
夜風がルシオの黒い髪を撫でていく。
昔から、なに一つ変わりはない。
ルシオが神子になったところで、住んでいる場所が施設から塔に変わったところで、王侯貴族たちからの貢物で多少贅沢ができたところで。
なに一つ変わってはいない。
ルシオの自由と、ルシオの人生と、ルシオの心は、なに一つルシオの手の中にはない。
けれど、だからこそ、ルシオの心からそれらへの渇望が消えることはなかった。
いつも遠くを見てしまう。
どれほど虐げられて、蹂躙されて、抑えつけられていようと、ルシオの瞳ははるか遠くの空を眺めてしまう。
空に輝く明るいものに手を伸ばして、この手に掴みたいと、欲してしまう。
それが手に入らなければ死んだ方がましだと思うところだけれど、ルシオにとって、あの夜からそれは「生」とほぼ同義になってしまった。
生きることに意地汚く執着することが、そのまま自由を求めることと同じなのだ。
どうしても諦められないまま、ルシオは、また少しずつ、一度ばらばらになった望みをかき集めるように、外界への想いを募らせている。
ひそかに高官や貴族たちからの情報をパズルのように組み立て、外界のパワーバランスや政治の裏側を知る。
本などを手に入れては、外の民の暮らしぶりを知る。
そして、贈り物に時折混じる上質な織布や糸を編み込み、結び、少しずつ、少しずつロープを作っている。
この塔の最上階の窓からそれを垂らしても、地面に辿り着けるように。
いつか、抜け出せるように。
手の中に転がす石をぎゅっと握り直す。
もう何度も巻き直した石は、今は革ひもでぐるぐるに巻かれている。
アルバに助けられ、アルバに誓った命だ。何度でも手を伸ばそう。
窓から見上げる月は、あの夜と同じようにまあるく、明るくルシオを照らす。
夏と冬のちょうど間の祭事は、今夜で終わりだ。
頬を差す風が冷たくなってきた。
ルシオは塔のてっぺん、屋上での舞の練習が好きだけれど、これからは厳しい季節になる。
塔を囲む森はほとんどを針葉樹林に覆われていて、冬の間の食料やあたたかな毛布になる木の実や落ち葉は少ないけれど、今はまだところどころに樺や蔦があたたかな橙の色どりを添える。
そんな厳しい森に住む動物たちも少なくはない。
彼らも今頃は冬の準備に追われていることだろう。
ルシオの踊る足も指先も、赤くかじかみ始めて、吐く息はかすかに白いけれど、動きを止めることはない。
少し冷たい空気は清浄で、吸い込むと頭も身体の中も水晶のように透明にしてくれる。
舞を舞っていると寒さなど感じない。
体が熱くなり、足先も指先も隅々まで感覚が目覚めていく。
今夜はとくに、空気が澄んでいて月が明るい。
踊りながら夜空を見上げ、少し欠けた月を可愛らしく思う。
儀式では金の鈴が付いた輪を腕や足首に付けるけれど、今はない。
代わりに腕を高く上げて、月を鈴の代わりにする。
空気がしゃん、と音を立てたようだった。
パチパチパチ、と拍手が聞こえて、ルシオは顔色を変えて身構える。
人の気配などどこにもない。
というよりも、本来、塔のてっぺんには儀式以外では立ち入り禁止のはずだ。
ルシオが勝手に舞の練習をしているだけで、世話係の修道女たちも見て見ぬふりをしてくれているけれど、上がってくることはない。
それに、今まで、舞に拍手をもらったことなどなかった。
施設での練習でも儀式でも、どんなに上手に舞えたと思っても拍手どころか誉められた記憶もない。
「さすが、北の森の塔に閉じ込められた舞姫って噂は伊達じゃない」
あわててルシオが振り返ると、塔の淵に腰かけた影がこちらへ飛び降りて来た。
ルシオはわずかに目をすがめて、少ない月明かりで影の正体を見ようとする。
「いつもこんな寒くて明かりもないところで独り舞っているのか?
もったいないな」
男の声が近付いてきて、ルシオに手を伸ばす。
その手を思い切り叩き落とし、ルシオは一歩足を下げて男から距離をとる。
「……誰だ?」
この塔にいる男は、ルシオのほかには修道士だけだ。
今までの修道士はルシオに手を出そうとはしなかったけれど、知らない間に人が変わったのだろうか。
今までも、何度か夜にルシオのところへ忍び込んでくる修道士がいたけれど、今のルシオには拒否する力もあるし、わずかだが要望も通るようになっている。
翌日には人員を変更させた。
そういった事情を知らない新しい人員が、また性懲りもなくルシオをどうにかできると思って来たのだろうか。
身構えたまま、こぶしを固く握る。
さりげなく服の上から胸元に触れ、肌身離さず持っているはずの石の存在を確かめる。
石があると思うと、落ち着く。
石がどうにかしてくれるという思いも噓ではないけれど、それよりも、独りじゃないと感じられることの方が心強い。
本当は恐怖にすくんでいても、幼い頃からの擦り込みによって逆らうことに抵抗を感じていても、石に触れると「絶対に屈しない」と思える。
独りではないないのだと、一緒に闘ってくれていると、そう思える。
男の影が、また手を伸ばしてルシオの頬に触れようとする。
「僕に触るな」
音が出るほどに後ろ手ではたく。
ふっ、と影が笑う気配がした。
いつの間にか男はルシオの目の前にまで近付いてきていたから、月の明かりだけでもわずかに顔が見えた。
身長はルシオより頭一つ分ほど高く、体つきもがっしりとしていて威圧感がある。
ルシオが力一杯抵抗しても、腕力だけでは負けてしまうだろう。
屋上への出入口は、男の背後だ。
なんとか脇をすり抜けて、出入口へ走る。
素早さならまだルシオでも自身があるけれど、男に隙がない。
それならば、会話を試みて相手の油断を誘うか、なんとか自室へ誘い込めれば身を守る術もある。
「……お前、新しく任命された修道士か?」
相手が体格に物を言わせたり、威圧感を醸し出したりする度に、ルシオは怒りに震える。
力や恐怖でルシオを抑えつけてきた男どもはみな同じ手を使う。
「あははは、俺が修道士に見えるか?」
男がわざとらしく声を上げて笑う。
「……修道士以外は入れないはずだ」
「入っていない。降り立ったんだよ、ここに」
「……? なにを言っている?」
この塔は、辺りの森一面の木々よりもずっと高い。
夜の森は大型の肉食動物たちの国だ。
どんなに訓練を受けた兵士でも、独りで森に入ることは自殺行為だ。
すぐ後ろにそびえる切り立った崖から続く山脈はすでに隣国だし、もともと辺境の地だから、道に迷って辿り着くような場所でもない。
「……一人じゃないのか?」
ルシオは男から目を離さず、辺りの気配を読む。
もしかすると隣国からの侵攻があり、この男は偵察も兼ねた前衛部隊なのだろうか。
「そんなに警戒しなくても俺は独りだ。敵国の侵攻でもない」
男は苦笑しながら重ねて言う。
「本当に。ただ舞姫の噂を聞きつけて一目見たいと思ってやって来ただけだ」
一目見たいというだけでやって来れる場所ではないから警戒している。
男の言葉のなに一つ信憑性がない。
それなのに、なぜか緊張感もいっさい漂わせていない。
ルシオに手を振り払われてからもう触れて来ようとはしていないけれど、にこにこと笑顔を崩さず距離は詰めてくる。
両手を軽く挙げながら、にこにこと男が喋る。
「俺は絶対に君を傷つける存在ではないよ、ルカ」
ルシオは目を見開いた。
この男、今、ルカ、と呼んだ。
「……気安く呼ぶな」
名前自体は噂で聞いたのだろうが、愛称で呼ぶことまでは許していない。
愛称というのは、おそらく、だけれど、愛してくれる家族や仲の良い親友といったごく限られた人たちにだけ許されるもののはずだ。
ルシオが呼ぶことを許したのは、今までにたった一人だ。
男の顔を見上げて、瞳を覗き込む。
月明かりの下で、男の黒い瞳が細められる。
瞳は深淵のように底知れない黒だけれど、
よく見ると髪は赤く、きらきらと火の粉が舞うように輝いている。
なんだろう、どこかで会ったことがある……?
ルシオが覚えていないだけで、幼い頃に会っているのだろうか。
同じ施設で育った人間が修道士になったということならば、あるいは、そういうこともあるのかもしれない。
ルカという愛称も、懐かしさから出た呼び方なのだろうか。
「あんた、名前は?」
「名前、そうだな……名前か。
アル……」
「アル?」
「いや、あ、アルバトロスだ!」
絶対に今思いついたであろう口から出まかせだけれど、
男はとても良いことを思いついたとでもいうように嬉しそうにしている。
その顔を見ているうちに、なんだか毒気を抜かれてしまった。
ルシオを力ずくでどうにかしようと考えているのなら、とっくに行動に移しているだろうとも思う。
それもあって、ふと身体から力が抜けた。
「アルバトロスは鳥の名前だと本で読んだ。
ここに降り立ったとも言っていたし、さては本当の姿は鳥だな?」
目の前の男が、いつも塔の窓から眺めていただけの邪気のない小鳥や動物たちのように見えてくる。
手を伸ばしても届きはしないけれど、ルシオにとってはいつも憧れの対象だった。
その鳥が人間に変化して側に来てくれたような気がして、少し悪戯心がわく。
「正体は、気が付かなかったふりをするのが礼儀か?」
「あははは、そうだな。そうしてもらえると嬉しい」
笑うと太陽のようだ。
「それで? 目的は、僕の舞だったっけ。
目的は果たしたろう?」
「ああ、楽しませてもらった。
話に夢中になり過ぎた、身体を冷やしてしまったんじゃないか。
舞のお礼に貸そう」
男は自分が着ていた上等そうなジャケットを脱いで、ルシオの肩にかけてくれた。
「……返す機会がない」
「あるさ。明日の夜もここで」
「……明日もここで舞を見せろって?」
わずかに口の端を上げてみせると、思っていたよりもずっと嬉しそうに男も破顔した。
「会えると嬉しい」
ルシオが男の横を抜けても、男はルシオに触れようとはしなかった。
すれ違いざま、そっと男の顔を見上げてみると、男もルシオを見ていた。
細めた目で、穏やかな笑みで、見下ろされていた。
ルシオは今までに見たことのない表情。
今までの人生でルシオの側では見たことのない微笑み。
ルシオに向けられたことのない穏やかさ。
その瞳が、なんだか名残惜しくて、屋上から姿を消すまで何度かちらちらと振り返ってしまった。
部屋に戻っても、温もりの残る上着をしばらく着て過ごした。
身体が冷えていたから、だから、仕方なく。
大きな上着に身を包んで窓辺に座った。
結局、あの塔の屋上から彼はどうやって帰ったのだろう。
そもそもどうやって来たのかも結局はぐらかされてしまった。
夜の森と月を眺めながら、ああ、いつかの夜もこんな気持ちで月を眺めたことがあると思った。
久しぶりに、何年かぶりに、なんだかわくわくした気持ちで眠った。
翌日、まさか本当に来ないだろうと思いつつ、夜、塔のてっぺんに上がった。
舞を舞える恰好の上に厚めの上着を羽織って、昨夜借りた上着を手に持って。
屋上に上がると、すでに人影があった。
高いはずの塀は男の肩までにしかならず、そこに背中でもたれて遠くを眺めている。
「来たのか」
「来ないと思ってたのに待ってたのか」
こちらを見て嬉しそうに微笑む顔を見ると、大きな上着に包まれたときのように、なぜだかほっとした。
「これ」
差し出した上着を男が受け取ってしまうとき、本当は少しだけもったいないような、手放したくないような気持ちになった。
自分以外の衣服なんて、着なれない固さや、嗅ぎなれない匂いで、落ち着かないだけだと思うのに、この上着はとても着心地が良かった。
「温かかった、ありがとう」
「どういたしまして。
今日も寒い、着ていたらどうだ」
「着てたら返したくなくなりそうだ」
「……」
男が反応に困ったように微笑んだまま無言になるから、ルシオはあわてて言い訳をした。
「あ、温かかったから! これから寒くなるだろう!?
だから、こんな上等な上着があればあったかいと思って……」
これでは、くれと言っているようなものだろうか。
神子だからといっても、ルシオは今まで貢物など誰にも要求したことはない。
各国にちらばる神子のなかには、珍しい宝石や高価な布を欲求する者も多いと聞く。
寝物語に欲しいものを囁くのだそうだ。
ルシオは宝石や衣服などを欲しいと思ったことがないし、あまつさえそれをあんな連中にねだろうなどと到底思わない。
貰ったものを身に着けるのは送った相手の所有物になってしまったみたいで胃の底から嫌悪した。
「違う、ただ、温かかったと感想を言っただけだ」
ふ、と柔らかい笑顔を向けられる。
「そうだろう、俺たちも寒さには弱いからな。
特別にあつらえるんだ、冬の衣服は。
気に入ったのなら着ていけ。今年の冬も厳しそうだ」
「だったらなおさら、お前に必要なものだろう」
「ルカにも必要だ。君は少し細すぎる。
そうだな、ではこうしよう。
その上着は冬の間、君に貸すことにする。
春になって君が手放しても構わないと思えば、その時返してくれ」
「……お前は?」
それでは、男は寒いままだ。
ルシオと違って、上着くらい何枚でも持っていそうな身なりだけれど。
ルシオは年中、ほとんど同じ数枚の服を順番に着ている。
冬になれば、それに上掛けが数枚追加される程度だ。
神子の衣装はルシオのものではないから、ルシオの服となるとほんの数着だ。
買ってもらえないというわけではないのだけれど、それを買う金も教団やルシオを好き勝手する連中の懐から出ていると思うと、なにかを欲しいと思う気力がなくなる。
物を持ちたいとは思わない。衣服も、たくさん着たいとは思わない。
いつでもここを飛び出せるように身軽でいたい。
「お前は、身軽そうだな」
「そうだなぁ、身軽といえば身軽だな。
なにせアルバトロスだから」
「ふっ、……そうだった、はは」
ここへ降り立った、ということは、ここから自由に飛び立てる、ということだろうか。
「……うらやましい」
ルシオは高い塀の上には届かない。
男の横に背中でもたれて、上を見上げる。
男はルシオを見た。
「連れ出してくれ、とは言わないのか」
「……言わない」
この塔で最初の祭事の翌日、ルシオは世話をしてくれていた修道女にすがった。
助けてくれとは言わない、せめて見逃してくれ、と。
修道女はルシオが塔に来てから随分と親身に世話を焼いてくれていたから、ルシオも姉のように慕った。
ある日、修道女は、塔に食料を運んできてくれていたふもとの町の若者と共謀して、食料を下ろした後の荷馬車にルシオを潜ませてくれた。
その荷馬車は、町に着く前に停められ、若者はその場で数人から嬲り頃され、連れ戻されたルシオの目の前で修道女は犯され、塔の地下に軟禁、ルシオに当てつけるように自分で命を絶った。
その日から、ルシオは誰かに助けを求めることを止めた。
「抜け出して見せる、独りでもな」
「君は独りのつもりか」
ちらりと、横にいる背の高い男の顔を見上げる。
「お前と話すと首が痛いな。
……少なくとも、お前のことはまだ信用してない」
それを聞くと、男はわざとらしく驚いた顔をして肩をすくめて見せた。
「厚意は受け取っておくものだ。
自らを助けると思うものは持っておくに限る」
ルシオが手に持っている上着を視線で差す。
肩にかけて包まってみると、温かくてほっとして、ようやく身体が冷えていたことを自覚できた。
「……そう、かもしれないな。上着は借りる」
「良い子だ。
それじゃ、今日もあまり冷えないうちに戻れ」
「……明日も来るのか?」
「君さえ良ければ」
「……おやすみ、アル」
顔も見ず、聞こえるか聞こえないかというほどの小さな声で、ルシオはその名を口にした。
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