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第4話 ルカの依頼

 アルは毎夜、塔の屋上に居た。 五日目の夜には、ルシオの「寒いから部屋に入るぞ」という言葉でようやくお許しがでた犬のように嬉しそうに付いてきた。 「なにもないなぁ」 「……世話をしてくれているシスターも寝ている時間だから、茶も出ない」 「そういうことじゃないよ」  ルシオを見る瞳に、なぜか寂しさが浮かぶ。  石造りの塔は、一階部分の暖炉で火を入れて、その熱で暖めた空気や蒸気を通すパイプが塔の上まで伸びて塔全体を暖める。雪解けの水には困らないけれど、炭や薪を手に入れるには町まで下りなければならない。  ルシオの部屋は最上階だけれど、不愛想な石壁や床がむき出しの見た目ほど寒々しくはない。  何度もやすりを掛け直されたオーク材の机と椅子、薄い布を何枚も重ねただけの布団のベッド、収納を兼ねた固いベンチ。 どれも、装飾と言っていいものはほとんど施されていない。  ルシオの人となりがわかりそうなものと言えば本が数冊机の上に立ててあり、服は数枚が畳んでベッドの上に置いてあるだけだ。 「さすが神子さま。まるで修道院だ」  もしくは、独房……と言ってもいいのかもしれない。 「そうだ、明日はコニャックを持って来よう。 飲めるだろう?」 「飲み物なのか。飲んだことがない」 「うまいぞ。 あとは、綿入りの布団と、毛足の長い敷布……」 「なんだ、なにをぶつぶつ言ってるんだ? 今はこんなものしか、ないんだけど」  ルシオがわずかに恥ずかしそうにしながら、りんごを差し出した。 「……ああ、ありがとう」  それでもアルは嬉しそうに微笑んで、りんごに噛り付いた。 「お礼になにか贈ろう。なにか、欲しいものはないのか」  ルシオは目をぱちくりとさせて、考え込む。 「りんごのお礼に? ……明日持ってくると言っている“こにゃっく”を一口飲んでみたい」 「もちろん、それは二人で飲むつもりだったんだけどな。 そうじゃなくて、君が、ルカ自身が欲しいと思うルカだけのものを贈りたいんだ」  考え込んでいるルシオの黒い瞳が、部屋の燭台の炎に揺れている。 自室だからか妙に無防備に見えて、その横顔を幼く見せた。 「それなら。 銃の使い方を教えて欲しい」 「んぐっ……、ごほ、っげほ」  アルが齧ったりんごを喉に詰めたらしく、盛大にむせて咳き込んだ。 「大丈夫か?」  彼の背を擦ろうとした手は空中で止まり、そっと握りこんで、結局引っ込めた。 ようやく落ち着いた頃に、アルが顔をあげる。 「それ、意味をわかってて言っているのか。 だとすれば、確かに世間知らずな神子さまだ」  怖い顔をしている。 「アルは、軍人だろう」  アルの頬がぴくりと張り詰め、空気が止まった。 「……なぜ?」 「体格が良いし、着ている服も上等だし。 目が、」 「……目が?」  ルシオはアルの顔を見上げる。 「以前どこかで、見たことがある」  アルが瞳をすがめる。 「へえ……?」 「鋭くて、見透かすような目。 たぶん、大きな街や王都で王や貴族たちを守っていた軍人たちの目だ」  ふう、と一つため息をついて、アルはりんごのt続きを頬張った。 「軍人じゃあない。 ……そうだな、フリーの傭兵ってところか」 「そうか。それなら、なおさらちょうどいい」  使い込まれたモンクスベンチの、ニスの塗られた古い蓋を開けると、数枚の服の下にびっしりと本が入っている。 その本も数冊取り出して、それでもさらに手を突っ込んで、一番下の本を取り出す。  厚い表紙の本を開くと、くり抜かれたページは小物入れのようになっていた。 「お前を雇いたい、アル。 これで足りるだろうか」  アルに手を出せと目で促し、その手の平に乗せたのは、札束が一つと、青や緑や赤の宝石が大小いくつか。  大きな手の平から溢れて零れ落としそうになった宝石を慌ててもう一方の手でりんごと共に受け止め、目を見開き、そのまま固まった。 「……足りないか?」  小首を傾げる仕草と濡れた黒い瞳は小鹿のようで、あどけなさが残る。 けれど、その口から紡ぎ出される言葉はあどけなさとは無縁だ。 「できればいろいろと手伝ってもらいたいけれど……、とりあえずは僕が銃を使えるようになるまで教えて欲しい」  アルは頭を抑えている。 「あー……、目的はなんだ。 銃を扱えるようになって、どうしたいんだ」 「……たとえば、この塔を抜け出せたとしても、あいつらはどこまでも追いかけてくる。 掴まって、殴られたり好きにされて、また連れ戻される。 今度は塔なんかじゃなくて、殺された方がましだったと思うような場所に連れていかれる。 そういうやつらなんだよ」  そこから抜け出す方法は、一つしかない。 その為には準備が必要だ。 「……俺を宝石で釣ろうとはね……。 いいだろう、雇われてやる。 もう君を独りにはしないと決めたからな」 「ありがとう」  翌日の夜も、石造りの壁に二人の影がランプの炎で揺れていた。 「……っん、ぐ……はぁ……」  ルシオが赤い顔で口を抑えた。口の端から垂れる液体をそのまま手の甲で拭う。 「だから一気にいくなと言っただろう」 「……だって、」  顔を上げたルシオは、涙が溢れんばかりに盛り上がってその黒い瞳を濡らしている。 「酒だって言わなかったじゃないか!」  小さなグラスの琥珀色の液体が、ルシオが叫ぶのに合わせてちゃぷんと音をたてた。 黄金を溶かしたようなコニャックは、温かげにきらきらと炎を溶かしこむ。 「あっはっは! 本当に知らなかったとは思わなかったんだ、許してくれ」  おかしそうに自分のグラスを揺らすアルは、コニャックとは別の水筒を取り出した。 「ほら、山頂付近の雪だ。 こうして薄めれば、初心者でも美味しく味わえる」  堪えきれていない笑いを含ませながら、水筒から雪解けの水と少しの雪の塊をグラスに注いでくれるけれど、そんなことではごまかされない。 「持ってるなら最初から言えばいいだろう。わざと黙って飲ませたくせに」  顔も喉も熱く腹の中から燃えていても、不思議と次の杯に手が伸びる。 溶け切らない小さな雪の塊が浮かぶ琥珀は、口当たりまろやかで、燻したような香りが鼻孔をくすぐる。 「……おいしい」 「そうだろう。 だが、もうその一杯で止めておけよ」 「どうして」 「俺になにを依頼したのか、忘れたのか?」  ルシオの目が見開かれる。 「教えてくれるのか?」 「そうだな、まずはこれからだ」  にやりと笑ったアルが机の上になにかを並べ始めた。 「これはなんだ?」 「さあ、こっちに座って」  ルシオを座らせると、ルシオの目の前でそれらを組み立て始めた。 かちゃかちゃと目の前で形をなしてくるそれは、記憶と想像だけでしか知らない銃だった。 「火薬は抜いてある。 また分解して、組み立てて、構造を頭に叩き込んで手に馴染ませろ」 「う、撃ち方を教えてくれるんじゃないのか」 「触ったこともなかったんだろう。 まずはここからだ」  椅子に座るルシオの後ろから、アルの長い腕が銃の部品に触れる。 ルシオの手の上から軽く触れるようにゆっくりと、また銃が分解されていく。 骨ばっているけれど長い指がその手の内で魔法のように銃を組み立てる。 想像していたよりも重たくて冷たい金属に触れて、アルの指先を熱く感じる。  背中に体温があって、時々わずかに体重がかかりアルの着ているかっちりとした上着の布地の固さや、金ボタンが当たる。  不思議と、嫌ではなかった。 大きな男の体躯がすぐ後ろから腕を伸ばしているというのに、圧迫感も恐怖感も感じなかった。  ふわりとコニャックの燻したおがくずのような香りがする。  ルシオに触れる男たちは、酒の臭いを漂わせているものも多く、昔は口からむりやり流し込まれたこともあった。 酩酊している状態でも胸元の石は守ってくれたようだったけれど、ルシオはめまいと嘔吐と頭痛で酷い思いをした。  こんな風に酒をおいしいと感じたこともなければ、人の厚みや質量そのものを感じて「生きているんだな」と思うこともなかった。 「……ちゃんと見てるか?」  目の前ではまた、銃が完璧な形に出来上がっていた。 「……ごめん、もう一回やってくれるか」 「二杯で酔ってしまったか? 集中できなくてもいい。 酔ってても上の空でも無意識で組み立てられるくらいになれ。 撃つのはそれからだ」  そんなことで間に合うだろうか。  次の神事はまた数か月後、夜の時間が一番長くなる日だ。 神事を迎えれば、また七日間ものあいだ、男たちの相手をしなければならない。 「これが、完璧に組み立てられるようになったら、撃ち方を教えて欲しい」 「……そうだな、一分。 一分以内に組み立てられるようになったら教えてやろう」  こくりと頷く。  アルがスムーズに組み立てているのを見ていても、三、四分はかかっている。 けれど、アルはルシオに教えるつもりで組み立てているから、本気で組み立てればきっともっと早いのだろう。 「もう一度頼む」  黙ったまま、アルがまた銃の分解を始める。 呆れているふうでもなく、根気強く、ルシオに何度も同じことを繰り返し見せてくれる。  白くて骨ばった指先が、でも実は繊細に動くところだとか、奇術師のようになめらかに金属をなぞるところだとか、ルシオはなんだか夢中で眺めた。 「……君が独りでやってみな」  アルの声が頭上から降って来て、頭のてっぺんがぞわぞわと、神経が隅々まで通ったような気がした。  そうだな、独りで分解したり組み立てたりする方が集中できる。 アルの手が目の前で動いていると、つい、銃よりも指先や、手のひらの肌のきめ細かさを見てしまう。  冷たい重さを手渡されて、アルの動く指先を頭から追い出した。 ***  ある朝、唯一ルシオの部屋に出入りし世話をしてくれている修道女は、買った覚えのないものが増えていて大層驚いた。  ルシオの部屋には、一夜にして毛足の長い絨毯と、あたたかな毛糸のベンチカバーと、ベッドにはキルティングの綿入りの毛布が増えていた。  ルシオは世話係の修道女ともほとんど必要以上の話をしない。 どこか一線を引いて、自分のことは語らないし、修道女の生い立ちや内面も聞かない。  けれど、お互いに少しだけ相手を思いやって暮らしていることは伝わっている。  貴族からの貢物のあたたかな上着を譲ってくれる時、珍しい食べ物を半分ずつ分け合って食べた時、ルシオはいつも少しだけ微笑んでいる。  修道女にとって、ルシオは今も辛い思いを黙って抱えて耐えているまだ年若い少年だ。 生まれた時からあの施設での記憶しかなく、これから先も一生飼い殺される運命にある、美しい少年だ。  唯一、彼の辛さや苦しみを理解できるのは、世話係という接点を持つ修道女だけだ。 同じ施設で生まれ育ち、今も彼が貢がれる金品で生活をしている。 ルシオの髪を梳かす手つきにはいつのまにか憐れみが滲むし、ルシオが体調を崩した時にずっと付いていれば慈しみの気持ちもわく。  ルシオが必要以上に言葉を交わさず、必要以上に情を持とうとしないのは、そうしていれば、修道女がここを出たいと思った時に、ルシオのことなど気にせずいつでも出ていけるようにと思っているからだ。  そして、修道女は、ルシオがそう思っていることをわかっていた。  寒々しい印象だったルシオの部屋に、一晩であたたかなファブリックが増えていたのを見て驚いたけれど、そのことも口には出さなかった。 絨毯や毛布は、ルシオの趣味をよく理解した一見シンプルな落ち着いた色味だったけれど、おそらくかなりの一級品だ。  貴族たちからの贈り物かとも思ったけれど、ここ数日、そんな荷物は届いていない。 ルシオ自身はここから出られもしないのだから、自分で購入してくることなどできない。 そうなれば、誰かが贈ったものだと思うけれど、それをルシオ本人が何も言わずに使っていることも珍しい。 「おはようございます」  いつものように、感情を乗せない挨拶を交わす。  毎朝、修道女が部屋を訪れると、ルシオはすでに起きていて窓辺に腰かけて外を見ている。 いつか、「朝が早いんですね」と言葉をかけたことがある。 普段、自分のことはほとんど語らないルシオが、その時は珍しく答えたのをよく覚えている。 「朝陽を見たいんだ。 生きてるって確認できるから」  窓の外を眺めたまま、感情の乗らない声が聞こえた。 その姿が、全てのものを拒絶しているようにも、どこか行けるはずもない遠くを見ているようにも見えて、ここは彼の居場所ではないのだろうと思った。  椅子に座らせて、持ってきた鏡を机に置き、その艶やかな黒髪を梳かす。  いつもよりも顔色が良いので、よく眠れたのかもしれない。 やはり、いつもは寒かったのだろう。  それとも、なにか良いことでもあったのかもしれない。 たとえば、このファブリックを持ってきた何者かが、ルシオにとって安眠できる相手だったのか。 「エマ、いつまで梳かしてるんだ」  鏡越しに、朝焼けを受けた黒い瞳がこちらを見ている。  実際、ルシオの短い髪では本当は手櫛すらいらないくらいだ。 「え、ああ、申し訳ありません。 今朝はお顔の色がよろしいようだと」  持参した銀のボウルにお湯をそそぎ入れる。 顔を洗うのにちょうど良い温度になっている。  ルシオは目をぱちくりとさせて、自分の顔をまじまじと見ている。 「そうか……? 自分ではわからない」 「よく眠れたのですか」  久しぶりに会話らしい会話が成り立つ。 ふと、鏡越しの瞳が、咎めるように真剣みを帯びる。  出過ぎたことを言ってしまっただろうかと思う。 この子は、ここで独りで耐えて生きている。 そんな孤独な暮らしに、少しでもあたたかみや親愛を添えてやりたいと思うのは、人情というものだ。  けれど、ルシオはそれを拒絶する。 そんなものがあっては耐えられないのだと、そう言っている気がする。 気まぐれな自己満足でそんなものを与えたところで、彼をここから逃がしてやることも、その後の人生を共に背負ってやることもできないのだから。  願わくば。 「今夜も、あたたかくしてよく眠ることができれば良いですね」  ルシオはちらと見ただけで何も答えなかった。

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