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最終話 暁の竜と人の子の光
アルがようやくルシオを床に降ろすと、座り込んだままのキリルに今初めて気が付いたとでも言うように見下げた。
「誰だ? 俺がちょっと居ない間に浮気か?」
わざとらしく片眉を上げて言った瞬間、ルシオから銃口を向けられた。
「お前を殺して僕も死ぬ」
「! 待て、冗談だ! せっかく再会したってのに物騒な真似をするんじゃない」
ルシオの目は完全に座っていた。アルは両手を挙げ、ルシオの新たな一面を見ても愛おしいと思ってしまう自分に少々呆れる。
「冗談だと言っているだろう。ルカが俺を助けようとしてあんなことを選択したのも、俺を心配していたこともちゃんとわかってる。
たとえ石が無くても、ルカの気持ちは受け取っているつもりだ」
「僕の気持ちを疑うようなことを言うからだ」
かちりと音を鳴らしながら銃を降ろすルシオを見て、またからかいたくなって軽口をたたく。
「俺が浮気したと言ったらどうする?」
至近距離でルシオの顔を覗き込む。この仏頂面の少年が自分のことで嫉妬するのを見るのもいい。自分のものだと、この腕に取り戻したのだと、安心できるまで何度抱きしめても足らないだろう。
ルシオは再び本気を湛えた目でこう言い放った。
「お前を殺して僕も死ぬ」
「そうか」
アルは嬉しそうに笑った。
「そういう茶番はここを出てからにしてくれないか、赤毛の悪魔よ」
少年の重たすぎる告白をなぜかにこにこと破顔しながら聞いている赤毛の大男に対して、キリルは憮然と立ち上がりながら言った。
この男はキリル自身が手配した雪山の岩牢に閉じ込めたはずだ。どのようにしてあそこから出たのか、炎以外に魔術が使えるのか、それとも本当に悪魔のような存在なのか、どちらにしても今実際に目の前に居るということが脅威だった。今、この男に敵対されれば、キリルは間違いなくここで死ぬだろう。
自分の命などはとうに無いものと思って生きてきたけれど、アークだけは助け出したい。願わくば、自分の命と引き換えにしてアークを助け出して欲しいと乞うてみようか。真実、悪魔との取引なのかもしれないが。
「俺の目的はもう果たした。ルカ以外の人間などに興味はない。とっとと去れ」
思いつめたキリルの覚悟を知ってか知らずか、赤毛の男はそう言い、本当に興味のなさそうに「あっちへ行け」と手で追い払う仕草をする。
少しだけ安心し、同時にひどく落胆した。落胆? なぜ……? そうか、自分が悪魔と迫害し危害を加えた相手に助けてもらえると期待したのか。
なんという無様なことだ。戦場では誰も味方すら信用できない、自分の身を守れるのは自分だけだと学んだはずなのに。いつの間に自分はこのような腑抜けになってしまったのか。人の手を借りアークを助けようだなどととんだ笑い種だ。
自分も、そしてアークも、助けを乞えるような立場ではない。特に、この二人に対しては。再び銃をしっかりと握り、キリルは独り、アークの捕らわれる塔を目指す覚悟をした。
「ちょっと待て。僕はキリルと互いに協力すると約束している。このまま放ってはいけない」
ルシオが二人の間に立ち、赤毛の男に相対する。キリルは目を見開いた。
「……まさか、また面倒事に首を突っ込んでいるのか?」
眉間に盛大な皺を作り、片眉を上げて、その顔はっきりと難色を示していた。
「うっ……、め、面倒事じゃない。今回は、……本当に。友達を助けに行きたいんだ」
ルシオは男の不機嫌さに多少は怯んだけれど、それでも譲る気はないようだった。
「友達だと? そんな話は聞いていない。どこの誰だ?」
「僕もここで再会するまで知らなかったんだ。同じ神子だ。お前が嫌なら街で待っててくれればいい」
「そういうことを言っているんじゃない」
「お前だって怪我がひどいんだろう。ここを出たらどこかに隠れて待っていろ」
「俺が居なかったらついさっきだって蜂の巣だったんだぞ。この屋敷の中も俺が掃除しながら上がってきたから今もこうしてのんびりしていられる」
「そうだったのか、どおりで……。それについては礼を言う、ありがとう。でも、だったら余計に、アルをこれ以上危険に晒したくない」
「自分の身は危険に晒してもいいっていうのか?」
「アルが危険な真似をするよりマシだ」
「なんだと……? 君は本当になにもわかってないな」
「なにがだ、わかっていないのはアルの方だろう」
「いいや、君だ」
「待て! ちょっと待ってくれ!」
止めなければ終わりそうにない言い合いに、キリルはしびれを切らした。
「なぜだ。私は、私たちはお前にそこまでしてもらうようなことはしていない。その悪魔に助けられてさっさと逃げればいいだろう」
ルシオへ向かって言う。聞いていれば、赤髪の男の言い分の方がキリルには理解ができたし、あろうことか共感もした。もしもアークが独りで危険地帯に赴くと言えば、自分だって怒って止めるだろう。
「そもそもお前とはこの屋敷を出るまで協力するというだけの話だったはずだ。お前たちが痴話げんかをするのは勝手だが、足手まといが増えても困る」
二人に挟まれてルシオは少しの間なにか考えている様子だった。
「わかった、アークを助けに行くのはキリルに任せる。強行突破をするには確かに僕は役に立たないだろう。アル、」
ルシオが真っすぐに見上げると、赤い髪の悪魔は口の端を満足気に上げ、不敵に笑った。
「手を貸して欲しい」
一緒に、共に、どこまでも運命を同じくして欲しい。共に生きて欲しい。だから、頼らせて欲しいし、頼って欲しい。
「俺はルカの願いに弱い。昔から」
***
塔を王国軍が取り囲んでいる。中はすでに制圧されたあとだろう。
キリルは塔の裏手の林の樹々に身を隠し、手を握っては開き握っては開きと動かしてグリップをしっかりと握り直した。戦場では手に汗を握ることもあっただろうけれど、この寒さではいざというときにかじかんで思うように動かなかったという方が怖い。
まだだ。まだ動けない。じっと緊張と寒さに耐える。そのとき、塔の正面辺り、石を並べて造られた通りの向かい側で銃声が鳴り響いた。
「僕も神子だ! このような所業、神はお怒りになられるだろう!」
ルシオが銃を空に向けて発砲し、大声で叫んだ。国王の取り決めに対して意義を唱えるということは、反逆罪に問われてもおかしくはない。けれど、その手には罪人である証の手枷と鎖はもうなかった。あの男の手にかかればあんなものは子どもの玩具にすぎないのだろう。
ルシオの行動に触発されたのか、塔の周りで巡礼もできず、かと言ってはいそうですかと帰ることもできずにいた巡礼者たちも、小さく声を上げ始める。
「……そうだ、我々は神に奉仕する身……」
「それを急に信じるななどと……」
「……いくら国王様でもひどすぎる」
「我々の信仰心をいったいなんだとお思いか……」
ルシオの無謀とも言える宣言に、難色を示し始めた国民たちに、塔の周りを取り囲んでいた王国軍も色めき立つ。
「教団の不正は正されなければならない! けれども、信仰は、僕たちの心は自由であるはずだ! なにを信じるかは自分で決める!」
ルシオのよく通る声が、暗闇の空へと吸い込まれていった。そして、命令が下ったのか、軍がルシオを捕縛するために動いた。
軍の人間の手がルシオの腕を掴もうとした瞬間、ルシオのすぐ後ろで血濡れの、真っ赤な蝙蝠に似た大きな羽が広がりルシオを抱えて屋根の上へと飛び上がった。
軍も巡礼者たちも、みな一様に呆気に取られて、なにが起こったのか、ルシオが消えた先すら追えない者も居たほどだった。
「あ……悪魔だ! 俺は港町であいつを追い詰めたことがある!」
沈黙を破ったのは軍の中に居た数人だった。
「あ、……まさか、……あの小さな村を壊滅させたと聞く悪魔か……!」
「魔術を使うという……?」
「北の山も一つ崩壊させたと言うぞ!?」
「あいつは雪山で幽閉されたんじゃないのか!?」
「あ、悪魔……、悪魔だ!」
「極夜は神の力が一番弱まられる……そんな日に神を怒らせるような真似をするからだ……!」
軍も巡礼者も入り交じり、思ったままを口々に叫び出し騒然とする。屋根の上でルシオを抱えた大男がにやりと笑うのが見えた。
「アル、なんだか山を崩したり村を壊滅させたことになっているみたいだぞ」
「噂には尾ヒレが付くものだ。囮になるには派手でちょうどいいんじゃないか?」
王国軍は銃を構え、巡礼者や通りがかった住人たちが悲鳴を上げて逃げ惑い始める。騒ぎはさざ波のように広がっていき、人々で賑わうマーケットや色とりどりに飾り付けられた広場にも悲鳴と怒号が伝染していく。その様子が屋根の上からは手に取るようによく見えた。
「アル、行こう」
「人間どもの祭りの夜だな」
その騒ぎに乗じて、キリルは塔の裏口の兵士を二人倒し、中へと入っていった。
ルシオを抱えて、アルは屋根を跳躍する。極夜ではあるけれど、街中を彩るランタンやキャンドルの灯りで屋根の上までぼんやりと明るい。
王国軍は、先日の港町での統率のとれた動きとは全く違い、突然想定外の敵を捕らえるという命令に右往左往している様子が手に取るようにわかる。銃を撃ちこまれても、アルが跳躍した数歩前の屋根をかすめる程度だ。うろうろとするばかりの松明が街の路地をかろうじてアルの後を追って来る。
人数は増えるばかりなようで、銃声は四方八方から聞こえてくるようになった。
「追手が増えてきたな」
離れた塔の中からも煙が上がり始めた。
「キリルが始めたようだ。上手くこちらに引き付けられていれば良いんだが」
アルの腕に担がれたまま、肩越しに塔を眺める。
パァァーー……ン! バンッ!
ひゅんと銃弾がルシオの前髪をかすめた。
「おい! 頭を出すな!」
アルがスピードを上げる。塔や宮殿からも兵士が増員されたのか、アルと兵士たちの間もじわじわと縮まってきていた。
「人海戦術でこられるとこの間の二の舞だ。塔からかなり離れたし、どこかに隠れよう」
ルシオがアルに注意を向けたとき、ふと石畳の通りを飾るランタンの灯りが消え始めたのが目の端に止まった。
「? ……なんだ?」
「どうした」
「いや……、なんだか」
ルシオが目を凝らしている間にも、広場からマーケットまであらゆる場所を中心に暗闇が広がっていく。あっという間に街から灯りが消えていき、辺りは一層濃い闇夜になった。
「きゃああ!」
「灯りを消せ!」
「助けてくれ!」
「全ての灯りを消すんだ!」
「ああ、もう終わりだ……神がお怒りになったから我々を救っては下さらないのだ」
悲鳴と子どもの泣き叫ぶ声に、王国軍の非情な命令が聞こえる。暗闇と銃声に人々の間で恐怖が増幅されていく。
塔からはその窓から幾筋も煙が上がり、巡礼者たちも近くの兵士たちに掴みかかったりと暴動が起き始めていた。
その混乱の中でアルの姿だけがぼんやりと浮かぶ。
「アル……? なんで光ってるんだ……?」
パンッ! バァンッ!
「くっ!」
「アル!」
どこからともわからない銃声が一斉にアルとその腕に担がれたルシオに向かって放たれる。
「くそっ! このために街の灯りを消したな」
アルの身体の周りにはまるで太陽のフレアのように赤と金に火の粉が輝いている。街の明かりが明々と灯っている間は目立たなかったけれど、それが消えてしまえば極夜の暗闇にアルの姿だけが輝きを放っていて、見失うことなどあろうはずがなかった。
「魔力を使うとこうなる」
パァァーーン! パァン! パンッ! バンッ!
辺りは暗闇に包まれているというのに、それほど外れていないアルの側を銃弾がひっきりなしに飛んでくる。街の人々を巻き込まないように屋根を走ることが逆に思い切りよく発砲させる結果となっていた。
「アルっ! どこかに隠れよう! 森へ入るんだ!」
アルの背中から再びめりめりと裂ける音がする。
「アルっ! 翼を出すな!」
「仕方ないだろう、グズグズしていれば君に当たる」
ローブを押し上げて現れる翼は、決してアルの表皮の色だけではない暗闇の中でもわかるほど濡れた赤をしている。
「アルっ!」
バァン!
「くっ……!」
アルの背に伸ばそうとしたルシオの腕を銃弾がかすめた。
「ルカっ! くそ! 羽の中に隠れていろ!」
アルは翼で防御壁を作るようにルシオを包む。
「やめろ、かすり傷だ。アル、翼をしまえ!」
その間にも容赦なく銃声が浴びせられ、アルの翼にも穴が開く。
「っっく……!」
翼とフレアのような防御壁を貫通した弾のいくつかがアルの肩や脇腹に当たっている。アルがふと、進行方向を変えた。
「アル?」
「このまま森に入れば余計に的になるだけだ」
そう言うと、アルは屋根の上から飛び降りて悲鳴の耐えない街の中を走り抜け、広場に出た。
至るところに置かれているキャンドルに向かって腕を振ると、アルの身体を覆っていた火の粉がキャンドルに飛び火し、再び灯りがともる。吊るされているランタンに触れていくと、触れたものから順に火が着いて一瞬燃え上がり、何事もなかったかのように本来の炎の大きさに戻り、周囲を明るく照らす。
「そこまでだ」
明るくなった広場の周囲には軍が集結し包囲しており、銃口の中心はアルとルシオだった。二人はその場に立ち尽くし眉一つ動かさなかった。
「アル、もう少しだ、がんばれ……!」
ふらふらとようやく立っているような状態の大柄なアルの身体を、ルシオが支えて暗い路地裏を歩く。
雪の上にはぽたぽたと血の跡が続いていく。ルシオの腕から垂れる血が点々と道しるべを作り出しているけれど、アルからはほとんど流血が見られない。それなのに、ぐったりと意識も朧げで足元も覚束ない。
早くどこかで手当をしないと……! 逸る気持ちをなんとか押さえつけて、ルシオはアルの歩調に合わせる。
広場で囲まれたあのとき、アルとルシオの作戦は最終段階だった。
広場に王国軍の大半をおびき出し、囲ませる。アルが腕を一振りすると、着けて回っていたランタンやキャンドルの炎が一斉に大きくなり、意思を持った生き物のように伸びあがり、繋がって増殖し、あっという間に輪になって王国軍を取り囲んだ。
火の輪から出ることもできず、兵士たちは怒りと恐怖に叫びながらそれでも発砲してきた。けれど、火の勢いにほとんどの銃弾がアルとルシオに到達するまでに弾けて溶けた。
アルの瞳は爬虫類のように縦に瞳孔が開き、金色にきらきらと輝きを放っていた。身体が燃えているように全身から太陽のフレアに似た蒸気や火の粉が輝きながら辺りに放たれる。隣に居たルシオでさえその熱気に顔を覆ったほどだった。
王国軍が動けないのを確認すると、アルはルシオを抱えて羽を広げた。
遠く暗い夜空を飛んで広場を離れると、アルの身体が傾き始め、ゆっくりとそれでも人気のない路地裏に落下したのはアルの意地だったのだろう。
「こんなに痕跡を残していたら簡単に後を追われてしまうよ」
路地裏の背後の闇から、不似合いに楽し気な声が聞こえた。ルシオは眉間に皺を寄せて振り返る。
「無事に逃げられたんなら、もう僕たちに構うな」
小さなランタンを一つ掲げてぼんやりと浮かび上がる表情は、炎に揺られて少し寂しそうにも見える。薄汚れたローブのフードを目深にかぶり、その下からは夏の湖のようなエメラルドグリーンの瞳が覗く。その後ろからは背の高い男の影も付き従うように付いてきている。
「お前も晴れて追われる身だろう。すぐに身を隠せ。キリル、早くアークを連れて行け」
「私もお前たちにはもう用はないと言ったんだが、アーク様がもう一度だけお前に会いたいと仰られるのでな」
「私の知らないうちに、いつの間に二人は仲良くなったの?」
アークが拗ねたように口を尖らせる。
「悪いが、こっちは緊急だ。お前たちに付き合っていられない」
ルシオは再び前を向いた。
「大聖堂へ行きなよ」
背後からかけられるアークの言葉の意味がわからなくて、怪訝な顔で振り返った。大聖堂など騒動の真っ只中、動乱の街の中心だ。それに巡礼者がひっきりなしに訪れていて、普段よりも人でごった返しているはずだ。
「私がさっき神のお言葉を聞いたとき。
今夜、大聖堂には神が降りられると言った」
「神が……?」
「そう。だから、私はそれをみなに伝えた」
「それなら余計に大勢が押しかけているだろう」
「でも、私がそう伝えたから、国王がその後宗教の廃止を宣言したとき、大聖堂を封鎖した」
「それじゃ、大聖堂は今……」
「無人で、きっとこの騒動が収まるまでは誰も入れない」
ルシオは支えているアルの腕をぎゅと握った。
「それならお前たちも一緒に……」
アークはゆっくりと首を左右に振った。
「私たちは時間が経てば経つほど不利な状況になるだろう。この混乱に乗じて少しでも早くこの街を離れた方がいい」
キリルが代わりに答えた。それもそうだと思う。ルシオたちだってアルがこんな状態でなければさっさと街を離れた方がよっぽど安全だ。
「それに、私は大聖堂には入れない」
「アーク……」
「父を、殺めたから」
「アーク、必ず、生きのびろ。アークは生きるべきだ。もっと違う世界で、ちゃんと生きていくんだ。いいな」
「ルシオ……。うん、ありがとう」
今度こそ、ルシオは前を向いて、アルの熱い身体を支えて歩き出す。二人の気配はしばらく背中で感じていたけれど、やがて消えた。
アークの言った通り、大聖堂は正面の出入口が封鎖され、鎖と南京錠で乱暴に施錠されていた。けれど、ルシオやアークは知っていた。こういった大聖堂はじめ各地にある教団の聖堂は、タペストリーの裏に司祭たちがいざというときに自分たちが真っ先に逃亡するための隠し扉がある。
ルシオは間もなくその隠し扉を探し当てた。中はがらんとしていて、こんなに人々のいない大聖堂は初めてだった。
消し忘れたのだろうランタンが一つだけ、ステンドグラスをゆらゆらと照らしていた。天井付近にあるステンドグラスは窓の向こうの降り積もる雪を色とりどりに染めている。
講壇の陰にアルをもたれさせ座らせる。
「アル……、大丈夫か。どうしたらいい? 僕にできることはないか?」
大聖堂の中は声が反響するし、誰に聞こえるとも限らないから、ルシオは小声でアルの耳元に口を寄せる。
アルの身体は熱く、とても人体の体温とは思えないほど発熱している。裂けた背中から流血していないのも、おそらくこの体温に関係しているのだろう。たとえば、血液すら蒸発していっているとか……。
それほどまでに、今、アルの体内ではあり得ない異変が起こっているようだった。なにを言っても反応のないアルの顔は、血色が良いからか、目を閉じているだけで眠っているように穏やかだ。
雪を運んできてなんとか身体を冷やしてみようと試みるけれど、アルの肌に乗せた瞬間、雪はみるみる溶けていった。それならばと口に含ませようとしてみても、意識のないアルは飲み下してはくれない。口の中はさらに熱くて、ルシオは指でさえ触れられない。
アルの首に腕を巻き付けて身体を重ねる。
「アル、どうすればお前を助けられる?」
まるで熱した鉱物を抱きしめているような熱さで、このまま抱きしめているときっと火傷して、炎が上がり、一緒に燃えてなにもなくなってしまうのだろう。
ふと、しんとした静寂の中で、空気が揺れた気がした。顔を上げてアルを見上げる。先程と変わりなく目は閉じられて、口も結ばれている。それでもじっと見ていると、口元がわずかに動いたのがわかった。
「……ルカ、」
「! アル! わかるか!? どうすればいい? 教えてくれ!」
静かな大聖堂で、ランタンの炎が小さく揺れる。もう少しでオイルが無くなればいずれ炎も消える。
「……はな、れろ。やけど、する」
「! ……嫌だ。お前は僕を独りにはしないと約束しただろう。約束を違えるのか?」
アルがこのまま人間の器とやらが壊れるのであれば、ルシオも一緒に消えてしまいたい。本気でそう思っていた。
ルシオはタペストリーを見上げる。今まで何度も祈ったけれど、願いを叶えてくれたことなどなかった。神が降りるとアークは言った。本当に居るならどうか。どうか、助けて欲しい。
「結局、僕は神に祈るのか」ルシオは呟く。
神への祈りの言葉を口にして、目を閉じてアルの赤い髪に埋もれる。
アルは常にルシオの側に居てくれた。たとえ、お互いの身体は離れたところにあっても、その魂はこうして側に居てくれたのだから。胸元の石を握り込む。
そのとき、アンティークショップの店主の言葉が甦った。
人間の器が壊れるということは死ぬということではないのか。ルシオは不思議に思いこっそりと聞いたことがあった。
今の人間の身体は無理やり細胞を変化させている状態であり、そもそもがドラゴンの生命力と言っても差支えない魔力と細胞の急激な変化に耐えうる強靭な肉体があって初めて成り立つもの。本来の魔力と肉体は絶妙なバランスの上で成り立っているから、あの魔力にあの強靭な身体なのだ。
今は魔力の量を抑えることで人間の器を維持しているだけで、魔力を抑えずに放出すれば器の方が壊れる。膨らみ続ける風船のようなものだ。
けれども。
ルシオは胸元の紐を引き千切った。急いで紐を全て外し、口に含む。
魔力量が元に戻れば、その魔力に見合う、一番バランスのとれた肉体、つまり元のドラゴンの姿に細胞の方が姿を寄せて変化するのではないか。つまり、元の姿に戻るのではないか。
アンティークショップの店主はそう言っていた。
完全に器が壊れてしまうということはすなわち肉体の死だから、人間の器が完全に壊れてしまう前に元の姿に戻す。魔力量に合わせた強靭な肉体に戻す。
ルシオがアルから預かった石は、アルの魔力の半分で、生命を分け与えられたもの。それをアルに返す。
アルの頭をわずかに持ち上げて、唇に重ねた。舌で石をアルの口の奥に押し込むと、アルの喉元が僅かに上下した。
その直後、赤い炎がアルの身体から吹き出す。皮膚から発火し、身体全体に燃え広がる。
「アルっ! アルバっ!」
ルシオはなにも考えず燃え上がるアルの身体にしがみ付いた。瞬く間にルシオの身体も炎に包まれた。
「……?」
熱くも痛くもない。アルから少し身体を起こして、自分の手をまじまじと見つめる。相変らず炎に包まれて、金色と赤い炎がルシオとアルの身体を包んでいる。
勢いも感じるし、髪や服のすそなども炎の勢いでふわふわと揺れている。けれど、髪も服も燃えてはいない。
目の前に横たわるアルの身体がぱちぱちと火の粉が弾けるような音を立て始めた。その音が次第に大きくなり、全身からめきめきみしみしと軋み、裂ける音がし始め、アルの皮膚がひび割れていく。
「アル……?」
人間の皮膚が裂けた下からは、赤い網目模様の爬虫類のような皮膚がのぞく。めりめりと音が変わってきたかと思うと、あらゆる場所の皮膚が裂けて、入りきっていなかった巨躯が窮屈な皮膚を裂いて外に出てくるように姿を現し始めた。
まるで昆虫か爬虫類の脱皮のように、器を脱ぎ捨ててその下から新たな器が姿を現す。顔も皮膚が裂け、その下から尖った鼻先と大きく裂けた口、鋭く太い歯はルシオの腕ほどの大きさがある。
ばさり、とアルの背後に巨大な赤い翼が現れるけれど、血濡れではなく溶液のようなものでぬらぬらと濡れている。その翼の大きさに見合うように身体も小山のように大きくなっていき、大聖堂の決して低くない天井までいっぱいになってきた。
フレアのような炎がゆらゆらと陽炎のように揺らめく中で、懐かしい金色に煌めいた瞳が開いた。
「アルバ……!」
ドラゴンが窮屈そうに首をもたげて、なにかを思い出すように一瞬遠くを見て、またルシオを見下ろす。
『ルカ。無事だったか』
長い首をゆっくりと降ろして、ルシオに顔を寄せる。懐かしくて、嬉しくて、その鼻先に抱きつく。
「アルバだ! 本当にアルバだったんだな」
さらさらとした鼻先の皮膚はもう熱くはなくむしろひんやりとしていて、軽く火傷になりかけていたルシオの腕や胸には気持ちが良かった。
「懐かしい……会いたかった、アルバ」
『ずっと一緒だっただろう。なんだ、こっちの姿の方が好きだっていうのか』
頭の中に直接響く声も、アルのものでもあるし、子どもの頃に衝撃と共に初めて聞いたアルバの声でもあった。子どもの頃から憧れて会いたくてたまらなかったアルバという美しい生き物と、ずっと一緒に旅をしてきてルシオに初めてのあたたかさと恋という感情を教えてくれたアルという男が、胸の中で一つになる。
鼻先に顔をこすりつけて、見えないように、ルシオは泣いた。アルバが死ななくて良かった。どんな姿であれ、ルシオにとっての唯一がアルバであることに変わりはない。
それに気付いているのかいないのか、アルバが鼻先でルシオをくいと突く。
『ルカ。この姿でも共に森を駆けて生きてくれるか』
「……うん。アルバ、愛してる」
『ああ、俺もだ。ずっと、初めて会ったときからルカを愛している』
アルバが金色の瞳を細めて、首を絡める。その首に抱きつくと、そのままルシオをぶら下げて天井のステンドグラスを見上げる。少し伸ばすだけでステンドグラスに手を触れられそうだった。
『もう行こう』
「……身体は大丈夫なのか?」
『ああ、生まれ変わった気分だ』
ばさり、と巨大な翼を広げて一度羽ばたきをしただけで、風圧で講壇が倒れ、椅子が転がり、ランタンの火が消えた。
『しっかり捕まっていろ、舌を噛むぞ』
「……うん」
巨大な体躯は重量もありそうなのに、なぜか薄い蝙蝠に似た羽だけでふわりと浮く。そのまま天を睨み、教団の創始者を聖者に模したステンドグラスを突き破った。
街は暗闇の中で暴動が激化し、一般の人々は逃げ惑い、子どもの泣き声と悲鳴がこだまし、巡礼者は王国軍と衝突し暴力の応酬となっていた。あらゆる場所で火の手と銃声が上がる。大聖堂の前でも、巡礼者と王国軍が衝突していた。
そこへ突然、空からステンドグラスのガラス片が降り注ぐ。一瞬遅れて、大聖堂の高い塔や壁が崩れ落ちてくる。人々は呆気にとられてみな一様に大聖堂に注目した。
この国で一番高く、教団の富と権力の象徴である大聖堂が、てっぺんから崩れていくのを見た。その目線の先で、赤く煌めく太陽のようなドラゴンが大聖堂を崩しながら飛び出し、鋭いかぎ爪がついた指で高い塔を掴むと積み上げられた石と彫像が崩れた。
人々は悲鳴を上げて逃げ惑う。
「あ、悪魔だ……」
「なんということだ……」
「ああ……、この国はもう終わりだ」
嘆くもの、恐怖から攻撃し始めるもの、武器を捨てて逃げ惑うもの、そして祈るもの。
大聖堂は見る影もなく崩れ落ち、それを足場にしてドラゴンは夜空に翼を広げて飛び立った。街や人間には目もくれず、ドラゴンは地平を目指して飛ぶ。その先には、地平線にうっすらと明るくなり始めた稜線があった。
まだまだ小さい欠片だけれど、確かに輝く太陽が覗いていた。
「……太陽だ」
「もう夜明けだったのか」
朝焼けは極夜の終わりを意味する。自然と人々の中で混乱が収まりつつあった。
「今日……神が大聖堂に降りられると予言されていなかったか……?」
巡礼者の一人が呟く。
「アーク様の?」
「そうだ、確かに……予言にあった」
「だがあれは悪魔の姿じゃ……?」
次々と巡礼者たちが暁の空を見上げる。
「あれは神ですよ」
一人の巡礼者が、ローブのフードを脱ぎながら眩しそうに目を細める。
「わたくしたちが生まれる前から存在する、太古の神ですよ。
姿や目に見えるものに縛られていれば真贋を見誤ります」
地平線を浮かび上がらせるあたたかな光に向かって飛びながら、ルシオはアルバの首にしがみ付いていた。
「どこに行くんだ?」
『ルカとならどこでも。……とりあえず美しい湖のそばに家でも建てるか?』
「もっと世界を見て回ったらな」
赤いさらさらとした皮膚に、首に沿って生えている赤いたてがみが風になびく。ルシオは顔を埋めて太陽の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
了
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