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#1 「…もう、帰るよ。また、そのうちね…」 ベッドにうつ伏せた背中にそう言った俺は、自分の上着を手に持って部屋を出た。 ここは、フランス… 世界中を飛び回っているせいか…俺はいつの間にかあちこちに現地妻ならぬ、現地彼氏を作った。 それは、日本に住むまもちゃんの知らない所だ… いや…多分、彼は知っていた… でも、何も言えなかったんだ。 11年前…中学の時、俺はジュリアーノ音楽院への飛び級クラスの選考に落ちた。 …それ自体は想定内の出来事だった。 でも、その時に感じた違う事が…俺の頭の中に歪なしこりを残した。 ギフテッド… 所謂、才能に恵まれた人の事を言うそうだ。 俺は、そんなあやふやなものに、敗れた。 それが…大人になった今でも、解せないんだ… 人がどれだけの物を犠牲にして、ここまで成り上がって来たと思ってんだよ… わらけてきちゃうだろ…? 才能 そんな、あいまいな物の前に…俺の努力と苦労が、否定されたんだ。 グレてもおかしくない。 両親はいつもの如く、感心無さげに俺の不合格の知らせを受けていた。 俺は…というと、ただただ、傷心さ。 まもちゃんに縋っても、星ちゃんに甘えても、誰彼構わずに八つ当たりしても…解せなかった。 “才能”なんて物の前に、ひれ伏すなんて…こんな屈辱的な事は無い。 だって…俺は、何でも上手に弾く事が出来たんだ。 それは、たゆまぬ努力と…沢山の犠牲の上で成り立って来た、確実で決して裏切らない物だったんだ。 それなのに… それなのに…!! 「…はぁ、素晴らしい表現力です!」 そんな賞賛の言葉を受けて…審査員のスタンディングオベーションを貰ったのは…俺じゃなかった。 見知らぬ子供の背中を、俺は、奥歯を噛み締めながら…睨みつける事しか出来なかった… あの曲を、俺は誰よりも知っていた… なぜなら、何度も何度も弾き続けたからだ。 なのに、楽譜のどこにもない抑揚をつけた子供の演奏が…評価された…。 おかしいだろ… あんな茶番、付き合うだけ…無駄だったのさ。 …嫌な思い出を思い出した。 俺は、込み上げてくる悔しい気持ちを押し殺す様に下唇を噛み締めて、道路を走って行く車のテールランプを見つめて瞳を細めた。 そして…吐き捨てる様に宙に向かって、ブツブツと言ったんだ。 「ふん!結局は…音楽も、時代の流れに敏感なマスコミとおんなじさ…。差別だと騒がれれば、その人種を雇って…取り繕う。ギフテッドなんて偏った人間、そんな場所でもあてがわないと…きっと、人権団体が騒ぐんだ…。だから、芸術分野に参入して来た。」 そう…神聖で、厳格な…この舞台に、土足で上がり込んで、下らないおままごとの曲を演奏して…過剰評価を受けている。 …そう思わないとやってられない。 この、胸の中のモヤモヤを、取り払う事が出来ない…! 「きっと…その子は、その他の全てを犠牲にしたのかもしれないね…」 そう言ったまもちゃんの顔を、ふと、思い出して…俺は不貞腐れた様に顔をそむけた。 犠牲の対価ね… 一体、それって…どんな事だよ。 どんな事を犠牲にすれば、俺の努力を上回る事が出来るというのか…?! 到底、納得出来ないね… -- 「違う…もう一回…」 「はぁい…」 もう…何回目だろう。 先生は、僕の運指が一向に直らないので、だんだんイライラし始めてる。 こんな事で怒るなんて…バッカみたい。 僕はそう思いながらも、右手で弓を引きながら左手を言われた通りに動かした。 「…はぁ!ちっがう!」 先生は…僕の指が違う所へ行く度に…眉間にしわを寄せて、こう言うんだ。 ふふ…! 「ちっがう!ちっがう!」 先生の真似をしてそう言った僕は、足元にやって来たパリスを見下ろして、顔を歪めながら、続けて言った。 「パリス、ちっがう!ちっがう!」 「…豪ちゃん、遊ばない!」 朝ご飯を食べた。 ここには、畑が無いから…買って来てあったパンを焼いて、目玉焼きを乗せた。 惺山、ここは…何だか…しっくりこない。 フランスになんてやって来た僕は、毎日、先生と一緒に運指の練習をしてる。 僕の指の癖が直るまで…曲を弾いちゃ駄目…なんて、先生に言いつけられたから、僕は頑張って…運指の練習をしてる。 あぁ…葉物の野菜の入った…味噌汁が飲みたい… 僕は、大きな窓を眺めて…外で自由に飛び回る小鳥を眺めた。そして、グルル…と音を立てるお腹に、眉を下げて…途方に暮れた。 すると、先生は、そんな僕を見て…ため息を吐いてこう言った。 「豪ちゃん!駄目だな!全然集中してない!」 僕は、結構…先生に怒られる。 それは、お迎えに来て貰ったあの日からだ… 中学校の卒業式が終わった次の日…先生がブンブンとやたら煩い車でお迎えに来てくれた。 僕はあらかじめ用意していた荷物と、バイオリン、パリスを抱えて待っていたんだ。 「…豪ちゃん、その…鶏は…?」 「ん…?パリスだよぉ?とっても美人さんでしょ?」 兄ちゃんに買って貰った、新品の綺麗なかごに入れて貰ったパリスを、僕は得意げに先生に見せたんだ。 そうしたら、先生は、一気に顔を歪めてこう言った。 「はぁ…!動物を連れて行くなら、検疫に必要書類を届けなきゃ駄目なんだ…。何も準備してない。も、置いてきなさい…!」 「ん、何でぇ…?!」 そんな先生の言葉に首を横に振った僕は、地団駄を踏みながら兄ちゃんに言った。 「パリスと離れるのはヤダ!やっぱり…行かない!」 「そうか…やっぱり、豪ちゃんはここに居る事にしたのか!」 てっちゃんがそう言って笑ったから、僕も一緒になって笑って言った。 「うん!」 「うん!じゃない…!はぁ…まったく、やれやれだ!」 先生は、僕の荷物を車のトランクに詰め込みながら、首を傾げて言った。 「その鶏は、一緒に到着出来ない。でも…連れて行くから…乗りなさい!」 「…どうしてぇ…?」 「どの国も、動物の…伝染病とか、そういう物を持ち込ませない様に、水際対策してるんだよ。その為に…検疫って言って、あらかじめ…その動物が病気を持っていないか、病気にかかっていないか…検査するんだ。その証明書が無いと…海外には連れて行けない。覚えておきなさい!」 へえ… 僕の荷物を詰め込んだ先生は、兄ちゃんに書類を手渡しながらこう言った。 「ここが、フランスの自宅です。何かあったら、ここに連絡を下さい。」 「は、はい…」 「に、兄ちゃぁん!」 惺山…僕は、とうとう…この地を離れます。 幼い頃から育った素敵な村。 嫌な事も多かったけど…楽しい事も沢山あった… そんな、生まれ育った村を後にします。 僕を強く抱きしめてくれた兄ちゃんは…ずっと、僕の髪を撫でてこう言ってくれた。 「頑張れよ…!頑張れっ!豪…!」 僕は…その言葉に、強い思いを感じて…涙がこぼれたんだ。 「豪ちゃぁん!達者で暮らせよっ!なんかあったら、すぐに帰って来いよっ!!」 お見送りには、てっちゃん、清ちゃん、晋ちゃん、大ちゃん…それと、みんなのお父さん、お母さんが来てくれた… そんな大好きな家族に見送られて…僕は、先生の車に乗り込んだ。 「うわぁ…」 思った以上に深いシートは…体が自然と上向いた… 膝にパリスの籠を抱えた僕は、窓を開いて、みんなに挨拶をした。 「兄ちゃぁん…!てっちゃん、晋ちゃん、清ちゃん、大ちゃぁん…!お父さん、お母さん!ぼ…僕は、行ってくるよっ!!」 「豪ちゃん!!大好きだ~~~~~!」 そんなてっちゃんの雄叫びに顔を歪めた先生は、容赦なく車のエンジンを掛けた。 ブルブルと震える車内…パリスは喉を揺らして少し戸惑ったみたいに首を傾げてる。 「うるさいねぇ…?」 「こういう車なんだ…」 そして、タイヤの音を立てながら、先生は颯爽と車を出した。 僕は…膝に置いたパリスの籠のせいで…振り返る事も出来なかった。 だから、バックミラー越しに…みんなが手を振ってくれているのをじっと見つめ続けたんだ。 惺山…僕は、あなたの願った通りに…先生の元へ行くよ。 そして、上手になった頃…また、一緒に過ごそうね… 僕は、彼と過ごした思い出の詰まった…村を出た。 「…うっうう…うう…うっ…」 「泣かなくても良い…」 先生は、そう言って…僕の頭を撫でてくれた。 そして、そのまま車をかっ飛ばして…空港まで一直線したんだ。 「…はぁ…すごい…パリス、見てごらん…?あんな、あんな…あんな物に、乗るのかぁ…?!」 空港の駐車場に車を停めた先生は、いそいそと僕の荷物をトランクから下ろしていた。 そんな中、僕は…上空を飛んで行く大きな飛行機を見上げたまま、口を開けていた。 惺山…怖い… 「先生…怖いねぇ…」 「豪ちゃん、先生にパスポートを渡しなさい。」 キビキビ動く先生は、いつもと違って急いでいる様に見えた。 僕の手を掴む手も、歩く足の速さも…僕を無理やり引っ張って行くみたいに…力強かったんだ。 「怖いねぇ…?」 「怖くないさ…」 先生の言った通り…パリスは、検疫所と言う所に送られた… 「パ…パリスゥ~~!あぁぁ~~ん!!」 その場にへたり込んだ僕は、周りの人が振り返るくらいに大絶叫して泣き叫んだ。 「…だから、何で、初めに言わなかったの?!鶏を連れて行きたいなら…もっと早くに言ってたら良かっただろ?そうしたら、こんなに面倒な事にはならなかったんだ!」 先生は…僕を見下ろして、怒って…そう言った。 だから、僕は先生を睨んでこう言い返したんだ。 「なぁんで、そんな風に…怒ってるの?!どうして、僕の手を強く掴むの!あっああ…ん!せいざぁ~~ん!せいざぁ~~ん!この人は、意地悪だぁ!大っ嫌いだぁ!」 籠に入れられたまま…遠くへ連れて行かれるパリスが、とっても不安そうに僕を見つめていた。そんな彼女の瞳を見た僕は、その場で突っ伏して大泣きした… 先生は、そんな僕の両腕をがっちり掴んで体を起こした。 そして、おっかない目をしたまま…こう言ったんだ。 「豪ちゃん…よく、聞きなさい。君が、事前に私に伝えていれば…あの鶏は、一緒に連れて行けたんだ。つまり、あの鶏が…向こうに連れて行かれるのは、私のせいじゃない…君の責任だ。」 知らなかったんだ… なのに、先生は、傷心の僕に…そう言った。 その瞬間、僕は先生が大っ嫌いになった… 涙を乱暴に拭いて立ち上がった僕は、何も言わないまま…先生の後ろを付いて行った。 「…何か食べるかい?」 「…」 始めて来た空港は大きな場所だった…天井も高くて…ガラス張りの向こう側には、大きな飛行機がいくつも停まっていた。見た事もない人数の外国人があちこちを歩き回って…僕よりもうんと小さな子供が、慣れた様子でスーツケースを転がしている。 本当は、もっと…驚きたいけど…僕は、すっかり…へそを曲げた。 だから、先生の踵だけ見つめて…歩き続けた。 「…強く言い過ぎたよ。悪かったね…。何か、お腹に入れなさい…」 僕は、そんな先生の言葉も、視線も、無視した。 そして、彼の座った席に一緒に腰かけて、じっと…自分の手元を見つめたまま押し黙った。 もう…やだな。 この人と一緒に居るの…やだな。 「豪ちゃん…機嫌を直してよ。チェックインに急いでたんだ…。ごめんね。もう、大丈夫だから…機嫌を直してよ…」 先生はそう言って、僕の髪を撫でた。 だから、僕は自分の頭を振って…思いきり嫌がった。 惺山、僕は…この人が好きだと思っていたけど、嫌いかもしれない。 だって、僕の手を強く掴んで、引っ張ったんだ! 嫌だったし、痛かった…! こんな僕の様子にため息を吐いた先生は、席を立ってどこかに行ってしまった… 良いんだ…あんな、うんこマン。 うんこ眼鏡マン…良いんだ… 「ほら、サンドイッチを食べるかい…?長い時間、飛行機に乗るから…何か食べた方が良い。お腹が空いちゃうよ…?」 席に戻って来た先生は、美味しそうなサンドイッチを手で掴んで僕に差し出した。 グゥ~~~~! すると、食べ物を見た瞬間、僕のお腹が盛大に鳴った… 「…ん、要らない!ばっかぁん!大嫌い!」 恥ずかしさで顔を真っ赤にした僕は、そう言って、先生とサンドイッチから顔をそむけた。…すると、視線の先の男の人に、黒いモヤモヤが見えて… 咄嗟に僕は顔を下に俯かせて、何も視界に入らない様にした。 人が多い所は…僕にとっては、恐怖の連続だ… でも、きっと…僕から離れたら、この人は助かる。 体にモヤモヤを纏った人が居る。その人は…もうじき死ぬ人… そう思っていたけど、違った。 “僕が傍にいると…死ぬ人”に、変更…更新、されたんだ。 惺山と離れて半年が経って…それが、どんどん、確実な情報に変わって行く。 だって、彼は、東京で元気に過ごしているんだ。 未だに、体の周りにはモヤモヤが纏わり付いているけど、この前は…出来上がった僕の為の交響曲のCDと、東京バナナを送ってくれた。 後は…彼の手紙と、写真が同封されていた… 惺山は、僕の傍にさえいなければ…死なない。 僕は、本当に…悪魔や死神の様な、悪い物なのかもしれない…そんな思いも、確実な物になって行くみたいで… 少しだけ…胸が痛くなった。 「…豪ちゃん、飛行機って言うのはね…電車やバスみたいに…簡単に乗れるものじゃないんだよ。1時間前には、チェックインって言って…この飛行機に乗りますよって…お知らせしなきゃ駄目なんだ。」 俯いた僕に、先生は淡々とそう話しかけた。 そして、さっきとは違う…落ち着いた声で、続けてこう言った。 「だから…先生は少し、てんぱった。それで…あんなに急いで、焦って、乱暴にした。それが…嫌だったの…?」 僕は…この人が大嫌いだ… 「…うん。嫌だったぁ…だって、僕は…知らなかったんだぁ。だから…あんなんされて、嫌だったぁ…!」 顔を上げた僕は、先生を見た瞬間…彼の困った様な表情に…一気に溢れて来た涙を止める事もしないで怒ってそう言った。 「うん…ごめんね。」 すると、先生は、優しくそう言って…僕の髪を撫でてくれた… だから…僕は、もう…怒る事を止めた。 「…へそを曲げたのぉ…。ごめんなさいぃ…」 そして、僕たちは…仲直り出来た。 先生のくれたサンドイッチをあっという間に平らげた僕は、ただで食べられるラーメンと、ジュースも飲んだ。 空港って…食べ物がタダなんだ… 素敵な所だと、思った。 俯いていた顔をあげた僕は、周りの人を見ない様にしながら先生に言った。 「…兄ちゃんはねぇ、毎朝、ご飯を、どんぶりで、2杯も食べるんだぁ。だから、空港に来たら…きっと、お米ばっかり食べちゃうかもしれない。」 すると、先生は目じりを下げて笑いながらこう言った。 「そうなの…。それは、健康的だね…」 健康的なのかな…? 惺山は…兄ちゃんを”米信者“って呼んでた。 僕は、視線をどこにも合わせない様にして、窓の外に見える飛行機だけ見つめながら、足をブラブラと揺らした。 「…怒った先生は嫌い。だから…もう、2度と怒らないでぇ…?」 「はは…努力するよ…」 先生はクスクス笑って、テーブルの上に置いた僕の手を掴んだ。そして、何度も優しく撫でながら、コーヒーを飲んでいた。 そんな彼を横目に見ながら、僕は足を揺らし続けた。 惺山…さっきの言葉は取り消すよ。 この人は、うんこ眼鏡マンじゃない…やっぱり、優しい人だった。 ところが、僕はその前言を再び撤回する事になったんだ… 飛行機の中はとっても快適だった。寝ていたら…あっという間にフランスに付いちゃったんだ。それは…昼食後の数学の授業よりも、僕には簡単な事だった。 問題は…その後に起きたんだ。 フランスに付いた先生は、再び車のトランクに荷物を詰め込み始めた。そして、僕は、先生の運転する車で…先生のフランスの家まで連れて来て貰ったんだ。 それは…車通りの少ない、片田舎の、豪華な一軒家だった。 緑の屋根に、白い壁…お洒落な茶色い玄関の上には…雨除けの屋根が付いていて、足元には…3段の階段が付いていた。 「わぁ…ハウス名作劇場に出て来そうな家だねぇ…?」 僕は、ワクワクして…体を揺らしながら、先生の顔を覗き込んだ。 すると、彼はクスクス笑いながら車を停めて、こう言ったんだ。 「さあ…豪ちゃん、お家に着いたよ。今日から君は、私の奥さんだ。」 あはは…!バッカみたい! 「わぁ~い!」 ケラケラ笑った僕は、嬉しそうな先生と一緒に荷物を車から降ろして…大豪邸に入ったんだ!! 「わぁ…おっきい!」 玄関は広くって…天井はめちゃんこ高い! しかも…スリッパが付いてる!! ニコニコ笑顔の先生を見上げた僕は…靴を脱いでスリッパに足を入れながら言った。 「お…お邪魔しまぁす…」 「はぁ…ご、豪ちゃん…ただいまぁで良いんだよ…。だって、君は…もう、私の物なんだからねぇ!あ~はっはっは!」 先生は、とってもご機嫌だった。 機嫌が悪くなる前兆も、予兆も、感じられなかった… 玄関を抜けて大きな部屋に案内された僕は、コの字型に配置されたソファを横目に見ながら、悠々と鎮座するグランドピアノに駆け寄った。 「わぁ!ピアノだぁ!!ピアノだぁ!」 しかも、この家は、ぴょんぴょん跳ねても…床がきしまない…!! 「豪ちゃん…私たちの寝室はここだよ…?」 僕の背中に手を当てた先生は、そう言いながらリビングに掛かった階段を上り始めた。 2階建てのお家…ゴクリ… てっちゃん家も、大ちゃん家も、清ちゃんも、晋ちゃんも、みんな…2階建てのお家だった。だから…階段って…僕は、憧れてたんだぁ! 「うわぁ…!階段のあるお家だぁ…!」 僕は、嬉しくって…ケラケラ笑いながら先生を見上げた。すると、先生は瞳を細めながらこう言った。 「シャワーに入るかい…?」 え…? 「どうしてぇ…?」 首を傾げてそう聞いた僕に、先生は同じ様に首を傾げて、こう言った。 「いや、私はね…そういう…汗ばんだ香りってのが、ある方が、興奮するタイプなんだよ。でもね、中には…そういうのが嫌だって言う人もいるし、念の為…聞いただけなんだ…。うん。うん…。」 「へぇ…」 何の事か、僕は、よく分からなかった… でも、適当に頷いて…先生に合わせて相槌を打った。 「さぁ…ここだよ…!豪ちゃぁん…!」 白い壁紙の続く廊下にある茶色の素敵なドアを開きながら、先生がそう言った。 僕は顔を覗かせて、部屋の中にひょこひょこと入って行った…すると、何を思ったのか、先生は僕を抱っこして、そのまま大きなベッドに乗せたんだ。 「あははぁ!先生…!僕は眠たくないのにぃ…!!あはははは!」 僕は…まさか、あんな事されるなんて思っていなかったから…ただ、ケラケラ笑ってそう言った。 「豪ちゃん…先生って、呼びながらするの…?それとも…理久って呼ぶの…?」 おもむろにシャツを脱ぎ始めた先生は、僕を見下ろしながらそう言った。だから、僕は首を傾げてこう言ったんだ。 「…先生は、先生でしょ…?」 「はぁ~!燃えるじゃないかぁ!!」 そう言ってベッドに飛び乗って来た先生は、驚いて何も出来ない僕のトレーナーを捲り上げて…体を舐め始めた。 「はぁ…?!あっ…ちょっと…先生、なぁんで…!やめてよぉ!」 「あぁ…!!何てことだぁ…!!豪ちゃん…おっぱいがある…」 …酷い!! 気にしてるのに…!!そんな事言うなんて… …僕の胸は、少しだけ膨らんでいる。 理由は知らない。 でも…湖に入ると、いつも大ちゃんがジロジロ見て来た事は…覚えてる。 惺山は、ちっぱいだって言って…喜んでたけど。僕は…気にしてる。 「んぁ…やめてぇん!先生…なぁんでこんな事するのぉ!」 僕は…結構、乱暴に、髪の毛を鷲掴みして持ち上げ様としているのに…先生は、嬉々としながら、僕のおっぱいを舐め始めた。 「これは…まずいね。これは…まずいですよ…。」 先生は、そんな言葉をブツブツ言いながら、僕のおっぱいに乗った乳首を舌先で転がして…口の中で吸った。 「あぁあっ!ん…だ、だめぇ…ん!」 その瞬間、体中がビリビリと痺れた僕は、先生の頭を抱えながら体をのけ反らせた。すると、先生は…僕の胸の上でグフグフ笑ってこう言った。 「ほほっ!可愛い!!豪ちゃぁん!!先生は…フルスロットルだぞ~~!」 最悪だ…このままじゃ、やられる…! そんな時…ふと、枕元にあった鶏の形をした目覚まし時計に、僕は、手を伸ばした。 …ガチン! そして…そのまま、先生の頭に振り落としたんだ。 「アイタ~!」 両手で頭を押さえた先生を押し退けた僕は、逆に先生の上に跨って乗った。そして、何度も何度も頭を引っ叩きながら、怒って言ったんだ! 「なにしとるかぁ!この、変態ジジイ!惺山に言いつけてやるからな!言いつけてやるからぁ!」 この時点で…僕は、先生が…うんこ眼鏡マンだと確信した。 「こらぁ!死んじゃうだろがぁ!」 先生は頭を押さえながらそう言って、僕の頭を思いっきし引っ叩いた! 「キーーーー!」 怒った僕は、先生に何度も鶏の目覚まし時計を振り落とした。 もちろん…頭は一回目だけ…。 後は…腕とか…足とか…目立たない場所を、狙った…へへ。 「キャーーー!」 悲鳴を上げた先生が逃げ出したから、僕はその後を般若の顔になって、追い掛け回した。 こうして、先生の良からぬ妄想と誤解を解いた僕は…ムスくれた顔を僕に向ける先生に、にっこりと笑って言ったんだ。 「先生…?夜ご飯は何を作ろうか…?」 「ふんだ!」 その後、3日くらいは…先生の機嫌は悪いままだった。 でも…おかしいよね。 だって、先生は…僕の事が好きな訳じゃないのに…エッチをしようとしたんだ。 彼が好きなのは…青い蝶。だけなのにね… 「ちっがう。豪ちゃん!もう一回…!」 「はぁい…」 僕は、大きな窓越しにテラスに視線を送って…綺麗に整備された花壇の上を舞う蝶を見つめながら、眉を顰めた。 あぁ…お昼ご飯…何、食べようかな…? #2 冬のフランス…ここの音楽院に、俺の贔屓にしている男の子がいる。 幼い頃からバイオリンを続けて来た彼は、今年…とうとう音楽院を卒業する事となった。そんな彼の就職活動に、少しでも箔を付ける為に、俺は、理久に推薦状の依頼をしたんだ。 彼の推薦状があれば…大船に乗った様な物だからな… 「よっ!富士ちゃん。元気にしてた…?」 「あぁ…北斗さん。お久しぶりです。」 理久の自宅の近くで待ち合わせした俺たちは、お互いの近況を話しながら彼の自宅へと向かっていた。富士くんは、俺のコンサートによく来てくれた子なんだ。 俺みたいになりたいと言って…フランスの音楽院に入った彼は、少しばかり…海外の空気に飲み込まれて、上手く実力を発揮出来ないでいた。 だから、俺は、少しでも…彼の力になりたかったんだ。 ピンポン… 「はぁい…」 通い慣れた理久の自宅の呼び鈴を鳴らした俺は、見た事もない子供に出迎えられた。 クルクルの茶色がかった髪の毛は、体を揺らす度にフワフワと揺れて…まん丸の瞳は、俺を見つめたまま…固まった様子だった。 そして、やっと動き始めたかと思ったら、気の抜けたような声で…こう言ったんだ。 「あ…あれぇ…?まもるの大事な人だぁ…!」 は…?! どうして…? 予想もしなかった名前を耳にした俺は…一気に顔を強張らせた… 「なんだ、お前…」 そう言ってその子を小突いた俺は、眉間にしわを寄せて凄んで言った。 「お前、誰だよ…なんで、まもちゃんの事、知ってんだよ?」 すると、その子はあわあわと動揺しながらも、俺を見つめてこう答えた。 「フィ…フィ…フィッシュアンドチップスを…まけてくれた…僕の財布に優しいおじさんだったんだよぅ…!うわぁん!先生~!青い蝶は、まもるの大事な人だったぁん!」 …なんだ、それ… 「おぉ…北斗、富士君…いらっしゃい。どうぞ…?」 クルクルパーの子の叫び声に、理久が慌てて玄関先までやって来た。 フランス人形みたいに可愛い顔をしたその子は、名前を豪ちゃんと言うらしい。クルクルの髪の毛は地毛なのか…やや茶色がかっていて、喋らなければフレスコ画の天使の様だった。 付かず離れず、ずっとその子の側にいる理久の様子は、まるで、美しさに囚われた老ぼれジジイの様で、俺は顔をしかめて、一気に情けなくなった… 「…ほっくん、どうぞぉ?富士くん、どうぞぉ?先生も…どうぞぉ?」 俺たちに紅茶と、シナモンロールを出した天使は、そそくさと理久の隣に座って、顔を赤くしながら、もじもじと体を揺らした。 理久が変態なのは知っていた… でも、とうとう…マジもんのドール系なんて呼ばれそうな子供に手を出して、性のはけ口にしているのかと思ったら、俺は正直…ドン引きする以外なかった… 天使が淹れた紅茶を啜りながら、シナモンロールを指さした理久は、俺を見つめてこう言った。 「豪ちゃんがどこからか貰って来たんだ。美味しいから、北斗も食べてみて…?」 「要らない。それより…本題に入りたいんだ。」 席を立った俺は、富士くんを引き連れて、理久のグランドピアノに腰かけて言った。 「理久、推薦状を書いて欲しんだよ。富士くん…さあ、何を弾こうか…?」 そんな俺の言葉に、のんびりシナモンロールを食べ始めた富士くんは、慌ててバイオリンをケースから取り出し始めた。そして、彼を見下ろす俺を見上げて、こう言ったんだ。 「じゃ、じゃあ…“愛の夢”を…」 「リストだぁ~!ふふぅ…僕、リスト大好き~!」 クルクルパーの天使はそう言うと、理久の肩をモミモミと両手で撫でた。 すると、理久は鼻の下を伸ばしながら、そんな子供の手をニギニギと握っているではないか… 俺は…どうやら、まずい所に、富士くんを連れて来てしまったのかもしれない。 そんな光景を目の当たりにした俺は…表情を変えずに、そう思った。 しかも、あの天使は…まもちゃんの事を知っていた。 もしかしたら、実年齢は20歳を過ぎている合法ロリータで…上級者向けの男娼をしている奴なのかもしれない。考えたくもないけど…14歳の俺を食べちゃったまもちゃんの行動を考えると、彼もワンチャン…上客なのではないかと、否定もしきれないのが…痛い所だ。 少し頭の足らない奴に、そういう性の仕事をさせている悪い大人が居るって、聞いた事がある… つまり、この子は頭が足りない…男娼なんだ。 じゃなかったら…初対面の俺に向かって…“ほっくん”なんて、一度も呼ばれた事も無い様な、薄気味悪い呼び方で呼んだりしない。 はぁ… 人材教育の一環として、理久は大学の講義や、音楽院の名誉顧問なんて就任してると言うのに…本当…バカやってる。 こんな事がばれたら…ロリコンの烙印を押されて、名誉をはく奪されかねないよ。 呆れた様に首を横に振った俺は、富士くんの“愛の夢”の伴奏を、ピアノで始めた。 そして…すぐに手を止めた… 「…ねえ、さっきから、お前は何の話をしているの…?」 俺は、ピアノを弾く手を膝の上に下ろして…天使を睨みつけて、そう聞いた。 頭に来たんだ… 富士くんの演奏中…あの天使は、理久に耳打ちをした。しかも何度もだ…。 理久は理久で、そんなあいつの話を真面目な顔で聞いて、何度も頷いてやがる。 そんな様子に動揺した富士くんの演奏が、ことごとく…乱れてしまったんだ。 …感じ悪いにも程があるぜ。 だから、俺は天使を睨みつけて…そう聞いたんだ。 「まぁ、北斗…演奏中なんだ。後にしよう…」 すると、理久は、困った様に眉を下げて…俺にそう言った。 でも、彼の後ろからこちらを見つめる、まん丸の瞳は…全くもって、反省なんてしていない様子だ。 苛つくだろ…? 「おい、クルクル頭。お前、失礼だろ?今、理久に曲を聞かせようと思って彼は演奏を始めたんだ。なのに、お前、失礼だろう?違うのか?なんの話をしたのか知らないけど、俺たちは、遊びに来てる所じゃ無いんだ。人生を賭けて音楽をしたい人が、高みを目指す為に、評価されに来ているんだ。そんなこの場に、お前は、ハッキリ言って不要なんだよ…。男娼。」 俺は、理久の隣に座る天使を睨みつけて、表情を変えないままそう言った。すると、理久は、天使を隠す様に立ち上がって、俺に向かってこう言ったんだ。 「私がお願いして同席させてる。この子は、私の聴き手をしてくれているんだ!ただ、それだけだ!…男娼なんかじゃない。そんな物言いはやめなさい…!」 はん…! 理久、見損なったよ… 奥さんと結婚した時もそうだが…お前は、すぐに、そうやって…誰かと物理的に繋がりたがる… 俺には孤高を求めるくせにだ。 「聴き手?笑わせる!こんなアホ面した天使に、音楽の何が分かるって言うんだよ?理久…はぁ…どうかしてるよ?どうかしてる!」 首を横に振った俺は、ため息を思いきり吐いて…仁王立ちした。そして、おもむろに富士くんのバイオリンを手に持って…自分の首に挟んでこう言ったんだ。 「聴き手ってのはな…もっと、教養があって、音楽に精通している人を言うんだ。馬鹿には務まらないお役目だよ…?そう、お前みたいな、馬鹿には出来ない。」 理久の背中越しから、俺を見上げる天使に向かって、そう言った。すると、あいつは首を傾げて…ただ、俺をじっと見つめて来たんだ。 本当…一挙手一投足がムカつく奴なんて…めったにいないぜ? そんな天使を鼻で笑った俺は、弓を美しく構えて…バイオリンを弾き始めた… それは、富士くんが演奏した…”愛の夢 第3番“ 聴き手…それは、奏者の音色を聴き分けられる…良い耳を持った人。 資本家が、音楽家のパトロンになる時…その人物が投資の価値があるのかどうか…見極める時に同席させる…なんて、噂で聞いた事がある。 俺は、今まで、一度も…そんな奴にはお目にかかった事はない… 所謂…眉唾もんだ。 …天使よ。お前がそんな聴き手なんて言うなら…俺の音色が分かるか…? チェコ、イギリス、フィンランド、フランス…そして、アメリカでも… 俺のバイオリンは、名を馳せているんだ。 単身コンサートを開けば、いつでも満員御礼だ…! “孤高のバイオリニスト”なんて呼ばれて、重宝されているんだ…! そんな最高の音色…お前みたいな素性も知れない奴に、聴かせる事自体下らないんだ。だって…どうせ…聴いた所で、お前みたいな奴に、俺の素晴らしさなんて…分かる訳も無いんだからな…! でも…今日は特別、聴かせてやるよ。 もし、お前が本当に聴き手なら、分かるはずだ。 俺の、素晴らしさがな…! “愛の夢”を弾き終えた俺は、バイオリンを首から外して…天使を煽って見て言った。 「どうだ…これが、世界に認められた音色だ!聴き手?ふざけるなっ!邪魔なんだよ、実績もない癖に…爺を垂らし込んで、騙すんじゃない。とっとと帰んな!」 吐き捨てる様にそう言った俺は、富士くんにバイオリンを返して、もう一度、初めからの演奏を促した。 すると、そんな俺の背中に、か細く震える声が届いた… 「…富士くんは、弾きたくないみたいだって、先生に言ったぁ…」 「はぁ…?!」 「富士くんは、弾きたくないみたいだって言ったんだぁ!怖いほっくんが、無理やり弾かせてるぅ!そんな、そんな彼に…どんな評価を下せば良いのか…言ってみろよぉっ!」 なんと… 理久の背中から飛び出した天使は、俺に向かって啖呵を切ってきやがった。 「それに、僕は…エッチする男じゃなぁい!先生の朝昼晩の食事の世話と、快適な住環境を提供する代わりに…色々教えて貰ってるんだぁ!」 天使はそう言うと…俺の目の前までやって来て、鼻息を荒くしてこう言った… 「…ほっくん。どうして、そんなに怒ってるのぉ…!」 バシンッ! 「あっ!豪ちゃん!」 俺は、思いきり…天使の横っ面を引っ叩いた。 でも、あいつは、俺を見つめたまま…こう続けて言ったんだ。 「…ほっくん、どうしちゃったの…?僕の知ってるあなたは、そんな音色を出す様な人じゃなかったのに…。ちょっと聴いただけで分かった。あなたは…怒ってる…」 は…?! 頭に来たね… だって、俺は、こいつの前で今の今まで一度たりとも演奏なんてした事が無かったからね。その割に、目の前のクルクル頭は…やけに自信たっぷりにそう言って、俺を見つめて来たんだ。 だから、俺は、もっと…頭に来た。 「な…何を…何を知ってるって言うんだっ!!馬鹿のくせに!!お前に音楽の事なんて…何も分からないだろっ!客の上に乗って…腰でも振ってろよっ!」 頭に血が上った俺は、目の前の天使の腹に足をついて、思いきり蹴飛ばした。 すると、理久は血相を変えて…天使を受け止めて、俺を睨みつけてこう言った。 「こら、北斗!」 理久の声なんて…どうでも良かった… 天使が、俺をジッと見つめて来る視線も…あいつの口から出る言葉も… 何もかも…嫌だった。 だから、俺はそのまま富士くんを置いて…逃げる様に、その場を立ち去った。 まもちゃん… まもちゃん!! 「うっうう…!!」 理久の家を飛び出した俺は、自然と込み上げてくる涙をそのままに…ひたすら走って逃げた… 今日初めて会ったのに、あいつに俺の何が分かるって言うんだ…!! どうして、俺が…?! どうして…?! …俺の、言われたくない事を… 聴き手…と言うのは、嘘じゃなかったという事なのか… 胸の奥から込み上げてくる気持ちは、怒りや、悲しさじゃない…恐怖だった。 まるで…誰にも見せられない…弱くて、脆い…心の中を、覗かれた様な気がして、激しく…動揺した。 「そんな音色を出す様な人じゃなかったのに…」 そう言って…悲しそうに眉を下げたあの天使の顔が…目に焼き付いて離れないんだ… 足の遅い俺は…ただ、無駄に疲れた体をヨロヨロと揺らしながら、道端にうずくまった。 そして…激情が胸の奥から込み上げてくるのを…堪えられずに、その場で嗚咽を漏らして泣き崩れた… まもちゃん…助けて… 天使が、俺の前に来て…終末のラッパを鳴らしてる。 もう…お前は、お終いだって、言ってる…!! -- 「富士くん?演奏したくなかったの…?」 「いや…その…えっと…」 先生は富士くんと大事なお話をしてる。 だから、僕は…彼の紅茶を淹れ直してあげた。 富士くんは、観念した様に項垂れると、バイオリンを手に持ったまま…ダラリと力なく下ろして言った… 「北斗さんの期待を裏切りたくなかった…。だから、このお話を受けて…最終的に、木原先生に、とどめを刺してもらおうと…」 「駄目だよぉ!北斗がどんな奴か知ってるだろ?そうやって…そうやって…!憎まれ役は全部俺になるんだもん!やんなっちゃうよっ!」 先生は、地団駄を踏みながら怒って、ちょっとしたやばい大人になっている… だから、僕は、富士くんの袖を引っ張って…こう言ったんだ。 「お茶淹れたよぉ…?こっちで、ゆっくり話してけば良いよ…。どうせ、先生は暇なんだぁ…」 「豪ちゃぁん!」 ふふ… 富士くんは…ほっくんの事が好きなんだ。だから…言えなかった。 きっと、がっかりさせてしまうと思って、怖くて言えなかったんだ。 でも、後ろめたさが…音色に出てしまった。 僕は、ほっくんが弾いたピアノを指で撫でながら…テラスへ出て、鼻から思いきり空気を吸った。 引っ叩かれて…蹴飛ばされた… でも、痛くなかった… さっき聴いたバイオリンの音色は、僕の知っている…彼のバイオリンじゃなかった。 胸に突き刺さる様な音色は…“愛の夢”を、ぶち壊していた… 目の前に広がった庭の綺麗に管理された花壇…僕は、視線を移してヒヤシンスの株についた綺麗な花を見つめた。 そして、瞳を細めて言ったんだ… 「綺麗だね…でも、もう…終わりそうだ。」 花の命は短いなんて言うけど…株さえ守っていれば…来年も、また、美しい花を咲かせてくれる。 だから、今年の花を散らしたとしても…来年の花を楽しみにしながら…ずっと、手入れをしてあげれば良い… 「この子は…少し、手入れが行き届いてない…」 こんな時、てっちゃんがいてくれたらチョチョイのチョイで剪定してくれるのに…ここには…彼は居ない。 僕は、密集して枝を伸ばしたコスモスの株を手入れし始めた。 こんなに枝が伸びきってしまうと、日当たりの悪くなった枝たちが…お日様の光を意地でも浴びようと…横に倒れて伸びちゃうんだって…教えて貰った。 だから、少しだけ…空間を作るみたいに、要らない枝を間引きした… 「あぁ…立派な株だね?3年以上ここに居るの…?そう…」 しっかり張ったコスモスの根っこにそう言った僕は、タイル張りにされた地面を歩きながら、順繰りに花壇の様子を見て回った。 ほっくん… どうして、あんなに…音色が、鋭く、汚れてしまったんだろう… 彼のバイオリンは…もっと、美しかった筈なのに。 僕は…町の写真館に飾られていた…まもるとほっくんの写真を思い出して、楽しそうに笑い合うふたりの笑顔を目の前に映しながら、肩を落とした。 まもるの隣で微笑む少年…あれは、確かに…ほっくんだった。 先生の愛する…青い蝶。それも…ほっくんだった。 昨日…先生が弾いていたピアノから、美しい青い蝶が、沢山、飛び交っていたんだ。嬉しそうに微笑みながらピアノを弾く彼は、幸せそうだった… だから…僕は、今日やって来る人が…先生の愛する人だと、確信していた。 なのに… なのに… 惺山…会いたいよ。 何だか、とっても…寂しいんだ。 「豪ちゃぁん!富士くん、帰るってぇ!」 そんな先生の声に顔をあげて、大きく咲いたライラックを撫でながら、僕は急いで先生の元へ向かった。 「ん、待ってぇ…!」 「…さようなら。富士くん。」 そして、先生の後ろに隠れながら、ベソをかいて帰る富士くんの背中にそう言った。 彼は、先生にこっぴどく怒られたみたいだ… 「全く!北斗は、聞かないんだから!ちゃんと自分で話して欲しいよ!いっつも、いっつも、俺ばっかり…!憎まれ役なんだ…!!こんなの、酷い!」 怒りの治まらない先生は、ブツブツと文句を言いながらピアノに腰かけた。 僕は、そんな先生を見ながら、食器を片付けた。 「あの時だってそうだ!みんな、何も言わないから…結局、最後に俺が言ったんだ!そうしたら、理久みたいな人には…分からないだろっ!なんて、キレられたんだ!!」 ほっくんは、先生の…青い蝶。 何よりも大事で、愛している存在… 元奥さんよりも、誰よりも、ほっくんの事が大好きな先生。 だけど…良く分からない… 「先生…ほっくんのバイオリンは、少し…痛かったねぇ…?トゲトゲしていたぁ。」 「えぇ…?あの子はね、そういう子なんだ!感情の起伏がある。ただ…それだけの事さ!」 良く知ってる人だからこそ…主観が邪魔するのかな…? 思い込みや、決めつけをしてしまうのかな…? 目に見える変化に、気付けないのかな…? ほっくんのバイオリンが大好きな僕は…彼の曲を何度も聴いていた。 彼の人となり、なんて…付き合いのない僕には分からない。 でも…音色の繊細さと…正確さから…彼は、穏やかさと、気高さを持ち併せた人だと思っていた。 いうなれば…それは、1輪で真っ白の花を付ける、イチリンソウの様に… 強く目を引くけど…可憐なんだ。 「先生…?ほっくんはぁ…」 「豪ちゃん、何が言いたい…?」 首を傾げながら先生に近付く僕に、彼は鋭い視線を向けてそう言った。 その様子は…まるで、黙れ…とでも言っているみたいだ。 「ほっくんは…前と違うね。まるで、違うぅ…。とっても…音色が、汚かったぁ。」 僕は、躊躇する事なく…先生を見つめて、そう言った。 すると、彼は、何も言わずに…自分の書斎へと行ってしまった。 きっと…僕に、苛ついたんだ。 「惺山…?人って、分からないね…。本当の事を知りたがる癖に、見たがらない。それを僕は…愚かだと思う。」 先生の居なくなったピアノに腰かけた僕は、指を立てて…きらきら星を弾いた。 この曲は…あなたの曲。 大きな森が…麓に広がった山の合間に…小さな星たちが瞬いてる。 ねえ、そうだよね…惺山。 「会いたいよ…とっても、寂しい…」 鍵盤に置いた指をそのまま…ダラリと下に落として…僕は悲しくて泣いた。

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