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第15話

 昨日から降り続く雨は止む気配も無い。雲のせいでまだ昼間なのに暗い空を見つめていると、テレビから天気予報が聞こえる。今夜から明日にかけて断続的に雨が降り続けるでしょう。それに新月らしい。暗い夜になりそうだな、とトウマはぼんやり考えた。  今日は妙にユンユンが甘えてくる。移動する先にまでついて足にすり寄るものだから、歩きにくくて仕方ない。どうしたんだよ、と撫でてやっても、ゴロゴロ喉を鳴らしたり、ナァンと鳴くばかりで答えてはくれなかった。  いっぱい甘やかしてあげるか、と猫じゃらしなどで遊んでやってすごしていると、トウマの携帯端末に連絡が入る。ソウジからだ。ちょっとお茶をしに行かないか、なんて珍しい。生活に余裕ができたんだなあ、とトウマは感心しながら、了承した。 「ユンユン、ちょっと出かけてくるからお留守番頼むな」  にゃ! と驚いたような声を出して、ユンユンはにゃあにゃあと足に絡みついてくる。行かせたくない様子だったから、トウマは困った顔をしてしゃがみこみ、ユンユンの頭を撫でた。 「大丈夫、ソウジとちょっと食事しに行くだけだよ。夕方……そうだな、4時までには帰るって」  みゃああ、と寂しそうに鳴くのは、少しかわいそうな気がして、トウマはひとしきり撫でてやってから、「帰ったら『にゅ~る』あげるから」と約束した。するとユンユンは嬉しそうにいい子で留守番の構えに入ってくれたので、トウマは安心して部屋を出た。  すっかり春になった街並みは温かくて、季節の移り変わりを感じる。あれからもトウマは時折ユンユンからとんでもないプレイをさせられたりしたけれど、その生活を別に嫌だと思ったことはない。勿論、翌日は信じられないくらい全身が痛むし、恥ずかしくてたまらないし、気持ち良くてどうにかなってしまいそうだけれど。  ユンユンとの生活は幸福に満ちていたのだ。猫又だろうが、誰かと一緒に暮らすのは心地いい。それが愛する猫なら尚のこと。人になった時の奔放さにはドキドキさせられっぱなしだけれど、だからといって彼が苦手というわけでもない。むしろ、とても優しくしてくれるし、よくよく考えれば只者ではないような気がして。トウマはユンユンの全てを知らないけれど、彼を好きだと感じていた。  今日は甘えん坊だったもんな、帰りにカナタさんの店で何か買ってあげよう。トウマはそんなことを考えながら、ソウジと待ち合わせの喫茶店まで歩いて行った。  彼はこれまでしてもらってきた食事のお礼をしたいと言って、料金は持つから好きなだけ頼んでくれと張り切っていた。ソウジがそんな風に言えるようになるなんて、と内心感動をしつつも、トウマはいつもの量の注文をするだけに留めた。遠慮しなくても、とは言われたけれど、トウマはこうしたできごとが有っただけで十分だったのだ。  問題が起こったのは、店から出た後のこと。降り続く雨が大きな水たまりを作っていたのだけれど、通りかかった車がその上を通過すると、盛大に水が跳ね上がって二人に襲い掛かった。うわーっ、と叫び声を上げて避けようとしたものの間に合わず、二人してびしょ濡れになってしまったのだ。 「うわーっ、トウマ、うちに来いよ! ここからならうちのほうが近いから、シャワー浴びてけ!」 「いや、でも」 「いいからほら、そのままじゃ家に帰るまでに風邪引いちまうかもしれないし」  そうやって気を遣って来るのも彼にしては珍しい話で、トウマは始終感動しながら、厚意に甘えることにした。  ソウジのアパートに向かい、ありがたくシャワーを使わせてもらう。その間に洗濯をしてくれていたようで、服を借りた。「もう今日はうちに泊まっても」とまで言い出したソウジに、トウマは慌てて首を振った。 「いや、そういうわけにはいかない。ユンユンが待ってるから」 「あー……そっか。大変だな、猫ちゃんと一緒に暮らすのも」  自由が奪われるよなあ。ソウジの言い方に、トウマは「うーん」と唸った。自由を、奪われているだろうか? まったくそうではないとも言い難いけれど、それ以上にユンユンとの時間はかけがえの無いものだ。 「まあ、楽だとも言えないけど、大変なだけでも無いかな。ユンユンと一緒にいると、満ち足りた気持ちになるんだ。撫でてやってるだけで心が癒されるし、そこにいてくれるだけでいい……っていうのかな? もうユンユン無しの生活なんて考えられないぐらい、俺は今幸せだよ」 「お前~、そんなんじゃ彼女できないぞ」 「ソウジは猫飼ってないのに、できてないだろうが」  軽口を叩き、笑い合って。それからソウジは「でもさ」と苦笑した。 「なんかお互い変わったよな~。それこそ、トウマが猫ちゃん飼い始めたぐらいから」 「……ああ、そうかも、な」  そう頷いてから、ふいにソウジの部屋の時計を見る。もう4時が近い。ああ、4時までに帰るって約束したんだった。トウマは慌てて、「すまん、今日のところは服を借りて帰ってもいいか?」と尋ねた。あまり着ないパーカーとジャージで帰るのは少し落ち着かないが、背に腹は代えられない。ユンユンは携帯端末などを持っていないから、帰るのが遅れると連絡する手段が無いのだ。 「あー、いいぜ。洗濯したトウマの服もそのうち持って行くから、その時返してくれればいいしさ。猫ちゃんによろしくな~!」  ソウジは快諾して見送ってくれた。とはいえ、靴だけはどうしようもなくて、ビシャビシャのまま履いて帰路に着く。足早に歩くその空は、まだ夕方だというのに雨のせいで随分うす暗く思えた。 (あれ、なんか……)  この光景、見覚えがあるような。何か落ち着かない気持ちになって、少し息が上がるほどに歩く速度を上げる。ややして、カナタのペットショップに辿り着いた。  カナタは店の入口に立っていて、トウマは「あれ」と思わず声を出した。するとカナタが「ああ、トウマ君」と困ったような顔をする。 「さっき、君の友達が来て」 「俺の、友達?」 「ほら、白黒で、すごく背が高い外国人の子だよ。君を探しているようだったんだけど、よく見たらこんな雨なのに傘もさしてないし、裸足だし、何か有ったのかって心配してたところなんだ」 「ユ、……アイツが⁈」  ユンユンの名を出しそうになって、慌てて言葉を呑み込んだ。ペットショップの時計を見ても、まだ4時10分だ。そんな、探しに出るほど遅くなっているようには思えないのだけれど。いつも、少し遅れたぐらいなら普通に留守番をしていた。なのにどうして今日に限って。  そういえば。ユンユンは朝から妙に甘えていた。今日、だからなのか。トウマはわけがわからないまま、「あ、あの、そいつはどっちに行きました⁉」と尋ねる。カナタは「あっちのほうだよ」と街ではなく、小高い山の見えるほうを指差した。 「わかりました、すいません、見つけたらまた連絡します!」 「気を付けてなあ、今日は暗くなったら灯り無しじゃなんにも見えなくなるぞ、早く合流できたらいいんだが」  トウマはカナタに頭を下げて、駆け出した。  何故だろう。こちら側には来たことが無いはずなのに、その道を知っている気がする。いつか、子猫を抱いて駆け抜けたような。いつのことだったか、いや、ユンユンを抱いて走った道ではない。だとしたら、いったいいつ――。  街灯が照らし始めた道を走り、長く暗い橋を渡ると、街並みは古めかしい物に変わっていった。ところどころに木々や空き家が現れ始め、ひなびた神社や寺、墓地も現れる。道行く人は雨のせいかトウマの他にはおらず、薄暗い道はどんどん前が見えにくくなる。  車道を過ぎる車の灯りが雨にチラつく。走っているせいで、ソウジに借りた服はあっという間に濡れてしまった。体まで染みて冷たいはずなのに、それでも、息が上がって体内は熱いほどだ。心臓が爆発しそうなほどに走って、日頃運動不足の脚が悲鳴を上げる。ユンユン、と名を呼びながら、トウマはひたすら彼を探した。  胸がザワザワする。何かを思い出しそうになって、その度にその記憶がかき消えて行く。ただ、曲がり角に来るたびに、確かな感覚が「こちらだ」と告げているような気がした。  トウマはどんどん街から離れて、山のほうへと向かっていく。いつの間にか周囲は古めかしい木造の民家や生い茂った草木が並んでいるようだが、殆ど灯りが無いものだから暗くてよく見えない。そのうち山の麓に差し掛かって、トウマは足を止めた。  ハァハァと荒い呼吸を繰り返しながら、小高い山を見上げる。鳥居と長い石の階段が見えるから、きっと上には神社が有るのだろうが、そっちではないような気がした。入り口の狐像がこちらを見つめているように感じて、少々薄気味悪い。ここは一体どこなのだろう。ユンユンは一体どこに。きょろきょろと周りを見渡して、彼の名を呼ぶ。雨の音にかき消されて、それは誰にも届かない。 「……?」  理由はわからない。何が聞こえたというわけでもない。ただ、トウマは誘われるように歩みを進めた。道路から隠れるように草の生い茂る空地が並び、細い道が微かに存在しているのを見て、トウマは一瞬躊躇したけれど、その確かな感覚に向かって踏み出す。  高い草を掻き分けて奥へ進むと、草の刈られた円形の場所に出る。そこに、ユンユンが蹲っていた。なにやら人の赤子ほどの小さな岩を抱えているようで、トウマはわけもわからないまま「ユンユン」と声をかけた。 「……ッ!」  彼はバッと振り返り、トウマを揺れる瞳で見上げている。信じられないものを見るような、泣き出しそうなような、何とも言い難い表情を浮かべて。  トウマはなんと言っていいかわからなかったが、少なくともそうせねばならないと思って、「ごめん、遅くなって」としゃがみこむと、ユンユンも入れるように傘を動かした。もう、二人共ずぶ濡れだったのだけれど。 「約束、守れなくてごめんな、心配もかけて……。ユンユン、帰ろう?」  そう言ってもユンユンはしばらく無反応だった。と、思ったのだけれど。トウマはふいに気付いた。雨のようにポロポロと、ユンユンの頬を伝っているのは、涙であると。 「ユンユン、」 「ご、しゅじん、さまぁあぁああ……ッ!」  泣いているのだと気付いた次の瞬間、ユンユンは顔をクシャクシャに歪めて、トウマの胸に飛びついてきた。それで尻もちをついて、いよいよ全身ずぶ濡れになってしまったのだけれど、それどころではない。ユンユンはトウマに縋りついて、ワンワン咽び泣いている。 「ユンユン、ユンユン……」 「ごしゅじんさまああ、もう、わたくしをおいていかないでぇえ……」  ひとりにしないで。慟哭を受け止めて、ぎゅっと抱きしめてやる。ごめん、大丈夫、ここにいるよ、ずっと一緒だよと言い聞かせても、ユンユンは泣くばかりで声が届いている気もしなかった。どうしてやれば、と背中を撫でていて、トウマは気付いた。  ユンユンが先程抱いていた岩。それには微かに模様が彫ってあるのが見える。もう朽ちてそれは読めないが、恐らく文字だ。そして、そのぐらいの大きさの岩が昔何に使われていたか。トウマはなんとなく見当がついた。  これは、墓だ。ユンユンは、誰かの墓を――いや。  恐らく、岩も朽ちるほど昔に死んだ、本当の飼い主の墓を抱いていたのだ。

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