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第6話
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気味の悪い静けさの中、突然、頭上でバサバサっと鳥が羽ばたく音がした。
「きゃっ!」
リオンは驚いて身を屈めた。その拍子に、木の根っこにつまずいて前のめりに転んでしまう。
「……もうやだよう……」
起き上がることができず、冷たい地面に顔を伏せてリオンは泣いた。
この森に置き去りにされてから、どれくらい経ったのだろう。
何をどうすればいいのかもわからないままに、本能がとにかく動けと命令していた。秋の終わりの夜に、立ち止まって眠ってしまったら凍え死んでしまう。だから、歩いて、歩いて、歩いて……。
月夜がありがたかったのは最初だけだった。月の光が、立ち枯れの木々をこうこうと照らし、それが幼いリオンの目には、化け物のように見えた。
「おとうさん、おかあさん、おばあちゃん!」
怖くて、皆の名を呼んだけれど、答えはもちろんない。聞こえたのは、風に揺れる木々のざわめきだけだった。
恐怖と哀しみ、疲れと空腹と喉の渇きで、動けという本能の声さえ、リオンには届かなくなっていた。
(ねむいよ……)
うつらうつらとしかけたリオンの目の前を、小さくてほのかな光が、ふわふわと揺れながら横切っていく。
「なに?」
暗闇に浮かんだ光にはっとして、リオンは身を起こす。その光は通り過ぎていったが、別の光があとを追いかけるように、ふわふわと漂ってくる。
「ちょうちょ?」
行き過ぎず、目の前で漂う小さな光を見て、リオンは驚いて声を上げた。それは、光る羽をもつ、小さな蝶だったのだ。
「きれい……」
こんな時なのに、その蝶に見蕩れていると、先に行った蝶も光りながらふわふわと戻ってきた。
「ちょうちょさんたちはふたりでいいね……ぼくはひとりぼっちなんだ……」
ふわふわ漂う彼らに話しかけると、二匹の蝶は光る鱗粉を撒きながら、リオンの前を行き過ぎようとした。
「まって!」
リオンは立ち上がって蝶たちを追いかけた。ここで初めて出会った生きものたち……リオンは嬉しくて、そしてまたひとりになるのが怖かった。
蝶たちは、足が痛くて思うように歩けないリオンを待ってくれるかのように、ふわふわと漂いながら先を行く。それは、まるで道案内をしてくれているようだとリオンには思えた。
――こっちへおいで。
――もうすこしだよ。
光る蝶たちにいざなわれながら、立ち枯れの木々の間をしばらく行くと、急に目の前が開けた。そこに現れたものを見て、リオンは驚いて声を上げた。
「おしろ……?」
リオンの目の前には、荘厳な石造りの城があった。
その城壁には蔓が這い、城を囲む石の塀は苔むして、古く、荒れた様子がうかがえる。だが、その城が立派なことには変わりなかった。
今まで絵本でしか見たことがなかった城を目の前にして、リオンは圧倒されてしばらくぽかんと見入っていた。こんな森の奥深くに、大きな城があることも不思議だった。
やがて、光る蝶たちが「行くよ」とばかりにふわふわしながらリオンを促す。城を眺めながらついていくと、やがて、蔓に埋もれた木戸の前に出た。
「はいってもいいの?」
蝶たちに訊ねながら木戸を押すと、リオンの力でも簡単に開いた。リオンは怖々、城の中に足を踏み入れる。
「だれかいるのかな……」
いつの間にか空が白み始め、少しずつ、辺りの様子が見えるようになっていた。
城の周りは荒れていたが、入ったそこは足元に柔らかな草が生え、果実の甘い香りを放つ木が立っていた。木の近くには、きれいな水をたたえた小さな泉もある。蝶たちは、いつの間にか姿が見えなくなっていた。
「りんご!」
甘い香に誘われて木を見上げると、赤く色づいた果実が実っていた。空腹だったリオンは一生懸命、木に登り、小さな手をうんと伸ばして、一番下の枝から林檎をもいだ……が、片方の手を離してしまい、地面に放り出されてしまった。
だが、それよりも林檎だった。膝と肘を擦りむいて服も破れていたけれど、何も考えられず、ただ一心に林檎を食む。誕生日の林檎とはちみつのパイのことも思い出さないくらいに、リオンは丸一日ぶりの食べ物に夢中だった。喉もカラカラだったから、泉の水も手で掬って無心に飲んだ。
「おいしい……」
林檎は甘く、水は喉に染み渡って身体を生き返らせる。リオンはふう、と息をついた。その時だった。
「誰かいるのか?」
人の声に驚き、リオンは目を瞠って、辺りをきょろきょろと見回す。そして見上げた先には、見事な金髪をした若い男が立っていた。
(きれいなひと……こんなにきれいなひと、みたことないよ……このおしろのひと?)
リオンは一瞬、彼に見蕩れ、そしてはっと気がついた。
(ぼく、ひとのおうちのりんごをだまってたべちゃった!)
「あのっ、あのっ、ぼく、りんごをかってにたべちゃって、おみずものんで、ごめんなさい!」
顔の下で手を組み合わせ、リオンは一生懸命に謝った。
「とっても、おなかがすいていたの……」
「そんなことは気にしなくていいよ」
リオンの目線に合わせて膝を折った金髪の男は、優しくリオンに話しかけてきた。澄んだ声が耳に心地いい。
「それよりも、どうしてこんなところにいるの?」
「あのね、ちょうちょさんたちがこっちだよって。つれてきてくれたの」
彼の目が、一瞬、驚いたように見開かれる。
「それは、光る蝶?」
「うん。とってもきれいなちょうちょさん」
近くで見る彼は、本当にきれいだった。獅子のたてがみのように豊かな金髪が肩に零れ、彫刻のように美しい顔立ちを包んでいる。瞳は不思議な色だった。金にも見える琥珀色……その全てに、リオンはまた見蕩れずにいられなかった。男の人というよりは、もっと若いように感じる。
「迷子になったの? 君の名前は?」
「リオン……」
「私はユリアスだよ」
彼の声が心地よく、人に出会えた安心感で、今まで張り詰めていた心の糸が緩んでいく。力尽きて、リオンはその場にぺたんと座り込んでしまった。そんなリオンに、ユリアスが手を差し伸べる。
「大丈夫?」
(……よかった……きれいで、やさしいひとがいた……)
やじゅうさんではなかったけど……。
ユリアスに抱き上げられたリオンは、そのまま彼の腕の中で気を失ってしまった。
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