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6-2 招かれざる客、来店。

 洗いかけの皿から、洗剤の泡がぽたりと手を伝って落ちた。オレの手首を掴むタカの指まで濡らして、その感触にハッとしたように、タカはオレの手を解放した。 「悪い。痛かったか?」 「あ、いや……平気」  本当は、痛かった。元々そこは例の縄傷が痛む場所だったけど、いつものリストバンドの上からでも骨が軋むくらい、タカの手は力強かった。  普段あれだけ過保護なタカがオレの痛みに考慮出来なくなるくらい、真剣で、切羽詰まってた。今日、これを伝える為に、タカが余程覚悟してきたんだなってのが、凄く伝わってきた。 「……そのリストバンドも、もしかして九重から貰ったものだったり、するのか?」  落ちた沈黙の間を埋めるように、ぽそりとタカが零した。今度はオレがハッとする番だった。 「いや、違う……けど」 「そうか。最近いつも付けてたから、もしかしてって……嫉妬してた」  ――嫉妬。  タカが、九重に。その一言だけでも、タカがオレを好きだというのが事実であると物語っている。またぞろ動揺が襲って、オレは目を泳がせた。心臓が、忙しない。どんな顔したらいいのか、分からない。 「ごめん、タカ……オレ……全く、考えたこともなかったから……どう返せばいいのか、分かんねえ……」 「そうだろうな。俺も、結論を急かすつもりはない。ただ、お前が九重とも他の誰ともまだそうした関係でないのなら、俺にだってチャンスはあると思っていていいよな」  またあの、鋭い眼差し。いつもは優しい深い栗色の瞳が、スッと心の奥深くまで射抜いてくるようで――その目に魅入られたら、身動きも出来なくなる。 「俺は、諦めないから。お前に幼馴染や親友としてじゃなく、いつか恋愛対象として好きになって貰えるように努める。――だから、これからはそのつもりでいて欲しい」  タカは、きっぱりとそう言った。オレは……何も言えなかった。  その後、タカは夕飯の片付けを終えるとすぐに帰り支度に入った。 「今日の所は、もう帰る。お前も混乱してるだろうし、一人で考える時間も必要だろう。……それに、あんまり遅くまで一緒に居ると、俺もいつまで歯止めが利くか分からない」 「歯止め?」 「好きな相手と、夜中に二人きりだぞ。……俺だって、男だからな」  その言葉の意味は、流石にオレでも分かった。オレだってもう、子供じゃない。タカだってもう……子供じゃないんだ。 「それじゃあ、また月曜日に学校で。身体……無茶をするなよ。しっかり休め」  それまで知らない男性みたいだったのに、最後にはやっぱりいつもの過保護な幼馴染の顔に戻って、タカはオレの頬を優しく撫でて去った。  部屋に一人になったオレは、それからどうやって過ごしていたのか覚えてない。ただひたすら、ボーッとしてて……タカの言葉が幾つも脳内にリフレインしてた。  その内に九重から電話が来て、「遅い。何してる」とお叱りの声が飛んで……タカがとっくに帰ったことを報せるとホッとしたみたいだったけど、「じゃあ何で早く帰って来ない」って、またお叱りを頂いた。  オレは確か、飯食ったら眠くなって気付いたら寝てたって誤魔化したっけ。「子供みたいな奴だな」って揶揄われて、もう子供じゃない、って返して――。  九重が迎えに寄こした車田さんの車に乗ってタワマンに帰ると、タカの匂い消しとでも言うように九重に風呂に入れられて、洗われて……後は頭の使い過ぎで疲れたのか、気付いたら九重のベッドで寝てた。  昨日の顛末を改めて思い出しては、オレは小さく息を吐いた。  オレ……親友に恋愛対象として好きだ、って言われたんだよな。それってもう、青天の霹靂っつーか……。一つの世界が壊れたみたいな、ダイナマイトインパクトだった。もうメテオ級の衝撃だ。まさか過ぎた。  壊れた世界……オレとタカの、これまでの関係性。  ――友達……には、もう戻れねーのかな。  長袖ワイシャツの下、今はリストバンドを外して包帯が巻かれた自身の手首を見下ろして、オレはそこよりも、不意に胸の奥に芽生えた痛みに戸惑っていた。  感傷に浸っている間にも時間は流れていく。オレは店長と一緒に須崎に仕事を教えながら、気を紛らわすように接客に勤しんだ。――そんな時だった。がやって来たのは。    カランカラン、と来客を知らせるドアベルが軽快に響く。反射的に入口の方を見て、お定まりの「いらっしゃいませ」と共にスマイルを向けて、オレは固まった。 「あ、トキさん。こんにちは」  可憐な笑顔で軽く手を振りながら入店してきたのは、今最もオレが会いたくない人物ぶっちぎりナンバーワンの生徒会書記、四ノ宮 郁……その人だった。 「し、しの、みや……? 何で?」 「トキさんがここでバイトしてるのって、ファンの間では有名じゃないですか。折角なので、見に来ちゃいました」  油断してた! まさか、いきなり休日の学校外で仕掛けてくるとは思ってなかった! 「花鏡の知り合いか?」  そう訊いてきたのは、須崎だ。オレは内心冷や汗を掻きながら、努めて笑みを作った。 「あ、ああ……生徒会の、書記の四ノ宮」 「お友達さんですか? はじめまして、トキさんの後輩の四ノ宮と申します」  にっこりと大輪の花が綻ぶような、実に愛らしく美麗な笑顔で以て挨拶を交わす四ノ宮。誰がこの美少女にも見紛うような少年が、実は九重以上の腹黒ド鬼畜ヤローだと思うだろうか。  渋谷さんなんて、「これまた随分可愛い子だねぇ」なんて顎髭撫でながら鼻の下伸ばしてる。そいつ、男だぞ! 「そうか? 花鏡の方が……」 「え?」 「あ、いや、何でもねえ! こっち見んな!」 「何でだよ!?」 「ふふっ、仲良しさんなんですね」  四ノ宮の言葉に、ハッとする。あんまりコイツの前で須崎と話さない方がいい。下手したら須崎まで標的にされかねない。  とにかく、とっとと接客して帰らそう。 「お、お客様! 窓際の景観の良い席が空いているので、そちらにご案内しますね!」 「わぁ、ありがとうございます。でも、僕カウンター席で良いですよ? 一人ですし。良い席は他の方の為に取っておいて下さい」 「良い子だねぇ」  くっ……違う、店長! たぶん、カウンター席の方がオレの動きを見張れるからだ!  でも、客自身がこう言っているのに、別の席に通す訳にもいかない。四ノ宮がカウンター席に座るのを見ながら、オレは内心で(ほぞ)を噛んだ。  何が狙いなんだ? コイツ……。次何かしてきたらボイスレコーダーでコイツの裏の発言を録音して、それを材料に脅して画像消させる計画とか立ててはいたけど……こんな職場にまではそんな機器持ってきてねーぞ!  いや、でも……逆に四ノ宮もこんな人目のあるとこじゃ、流石に何もしてこないか。マジで単なるオレへの嫌がらせか? 「トキさんのオススメとかって、ありますか? あ、僕あまり甘くない方が好きなんですけど」  甘党な顔してるくせに、意外だな。 「……コーヒーと、ザッハトルテ」  タカの好きな組み合わせ。甘いのが苦手でも、これならいけるって。 「へぇ。では、それで」  注文を受けて、店長がコーヒーを淹れる。香ばしい匂いが鼻を擽り、店内に広がっていく。オレはザッハトルテを一つ、ケースから皿に移した。店長の淹れたコーヒーと合わせてトレイに乗せ、四ノ宮の前に運ぶ。 「ありがとうございます。わぁ、美味しそうですね」  黒いコーヒーに黒いケーキ。四ノ宮の顔的にはロイヤルミルクティーとシフォンケーキとかそんな感じの真っ白なイメージなのに、反して置かれたのは真っ黒なプレート。まるでコイツの腹の中を表してるみたいで、何とも皮肉が利いてる。  それらに手を付ける前に、四ノ宮は鞄の中を漁り始めた。 「あ、パソコン繋いでいいですか? 論文の続きをしたくて」 「偉いねぇ。勿論どうぞ」  論文だと? どんだけ長居する気でいるんだ? コイツ……。  警戒しながら見ていると、四ノ宮が開いたパソコン画面に、一枚の画像が表示された。なんてことはない、デスクトップ画像……に見せかけて、オレの写真だ。先日の人様に見せられないようなやつじゃなくて、通常時の。――ただし、隣にはタカが写っていた。

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