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7-6 イタチごっこの自己満足

 あの男が来たのは、やっぱり夕方頃だった。それまでオレ達は斜向かいの喫茶店に入り浸り、味のしない飲料を消費しまくりながら他愛もないお喋りに興じたりして待った。  五十鈴センパイの話は興味深くて面白かった。好きなファッションや音楽の話、これまでにお付き合いしてきた女性や男性とのマル秘体験話(センパイはどうやら男女どちらもいけるバイ・セクシャルというやつらしい)  時折鋭い質問責めに遭うと困ったが、基本的にあまり無理強いはしないタイプのようで、オレが本当に嫌がるとそれ以上は深掘りしないでいてくれた。  センパイとの対話を楽しんでいる内に時間はあっという間に過ぎ、もうじき学校の授業が終わろうかという頃合に、ようやくあの男が姿を現した。  例のアパートに近寄るストーカー男を最初に発見したのは、勿論オレだ。そのことを報せると、五十鈴センパイは「よしきた」と膝を打って立ち上がった。  オレもついて行こうとしたら、「トッキーは顔を見られているから、警戒される恐れがある」として、待機を命じられた。 「もし、いっくんが帰ってきたら、アパートに近付けさせないようにトッキーが引き留めといて」  その為の見張りとして残す、と。オレも「よしきた」と膝を打って応じた。  センパイ一人でストーカー男と対峙しにいく様を、カフェのガラス越しに緊張しながらじりじりと見守った。もしもの時の為にとボイスレコーダーとスタンガンを託そうとしたが、センパイはレコーダーの方しか受け取らなかった。 「武器(これ)は必要ないよ」って、言われたけど……本当に大丈夫かな。  不安を抱きつつ、見守る。センパイは真っ直ぐアパートに歩いていって、何の(てら)いもなしに例の男と接触を図った。そのまま、何やら話し込み始めたけれど、ここからだとやり取りは聞こえないし、二人の細かな表情も分からない。今、どうなっているんだろう。  食い入るようにそちらを見ていると、男が動いた。何だか慌てた様子で、五十鈴センパイの前から逃げるように去っていく。……お。  そのままストーカー男はアパートを後にすると、来た道を戻っていった。逸る気持ちのままにオレは会計を済ませて退店すると、センパイの元へ駆け寄った。 「五十鈴センパイ! どうでした!?」  センパイは返答の代わりに、笑顔でVサインを寄越してきた。オレの表情も思わず緩む。 「パパの名前出してたっぷり脅しといたから、たぶんもう来ないよ。安心して?」  流石のビッグコネクション、強い。オレが感心していると、センパイは声のトーンを落として続けた。 「ところで、さっきの男、いっくんが売春してるだの、だからストーカーじゃなくて合意だのって言ってたんだけど、本当?」  言葉に詰まった。……アイツ、またペラペラと喋ったのか。オレの態度でセンパイは答えを察したらしい、小さく息を吐いた。 「成程ね。……もしかしてトッキー、同情で抱かれた?」  びくりと肩が跳ねる。それでまた悟られてしまった。五十鈴センパイは、そっと苦笑を零した。 「優しいね、トッキーは。だけど、その優しさは身を滅ぼすよ。嫌なことは嫌だってちゃんと言わなきゃ。何でも相手のことを受け入れてたら、いつか抱えきれずに壊れちゃうよ」  静かで、優しい声音だった。胸の奥がギュッとなる。――分かってる。分かってるけど。 「あそこで突き放してたら……壊れてたのは、四ノ宮の方だった」  センパイの視線から、オレは敢えて目を逸らして呟いた。分かってる。大丈夫だ。後悔はしていない。  オレは男だから。強いから。何も傷付いてなんかいない。あんなこと……何でもない。  俯いて落とした目線の先に、スッとボイスレコーダーが現れた。センパイに渡していたそれが返却されたのだと、一瞬後に気付く。 「あの男の発言、録音しといた。諸々自爆してるから、脅迫材料になる。ただし、いっくんの未成年売春の件だの、諸刃の剣だね。これの処遇はトッキーに任せるよ」 「消しちゃっても平気……なのか?」 「そうだね。あの男の写真とかも撮っといたから、後で素性調べて念押しに職場や家庭の方にも〝お願い〟の連絡入れとく。流石にそれで忠告無視してまたいっくんに逢いに来ることはないだろうと思うし、そのデータ自体は破棄しても問題ないでしょ」  そんなことまで出来るのか……五十鈴センパイ、頼りになるけど怖ぇな……。ともかく、これであのストーカー男が四ノ宮に接触することはなくなったのか。  張り詰めていた気の糸が、ふうっと緩んだのを感じ――直後、急に世界が眩んだ。 「ただ、問題はあの男だけじゃないかもしれないってとこだねー。他にも過去の〝客〟が今後出現する可能性も否めない。それを全て排除することはいっくん当人の協力がない限り不可能だし、最悪イタチごっこに……って、トッキー!?」  ふらり、よろめいて、五十鈴センパイの腕に抱き留められたようだった。センパイの焦った声が降ってくる。 「どうし……ぅわ、熱!?」 「なんか、ホッとしたら、急に……」 「そういやずっと顔赤かったもんね。え、何もしかしなくても、ずっと無理してた?」  見上げたセンパイの顔、ぼんやり霞んでよく見えない。やべ、ふわふわしてる。意識飛ぶ前に、約束……果たさなきゃ。  鍵。鍵。あった。オレの前のマンションの鍵。これを、五十鈴センパイに――。 「センパイ、鍵……ここに」 「ここに連れて行って欲しいの? 住所は?」 「――」  ぼそぼそと譫言(うわごと)のように零したそれを、センパイはちゃんと聞き取れただろうか。オレの意識はそこまでが限界だった。最近、気絶癖付いてんな……なんて何処か呑気に思って、そのまま全てがシャットダウンされた。    ◆◇◆  ……頭が重い。視界が霞む。オレ、どうしたんだっけ? 五十鈴センパイが居る。上からオレを覗き込んで、何か言ってる。  ぼんやり見詰めていると、センパイが手にした何かをオレの口に注ぎ込んだ。冷たい。水と……口内に広がる苦味。スッと気管に入り込み、オレは()せてそれを吐き出してしまった。  苦しい。苦い。なんだコレ。センパイがオレの口元を拭う。何か言ってる。けど、上手く聞き取れない。少し困ったような顔。  センパイはさっきのやつを今度は自分の口に含み、オレの顎を掴んで顔を寄せた。――濡れた柔らかい感触が、唇に重なった。ピリリと首筋の後ろから痺れるような感覚が走る。  思わず目を瞑った。さっきの苦い水がぐっと喉奥に送り込まれて、無意識に嚥下する。温かいものが、唇から離れていく。微かな呼気を感じ、薄らと目を開いた。  間近にセンパイの顔。ホッしたような表情で、柔らかく微笑む。頭を撫でる優しい手の感触に、何だか安心して、オレは再び意識の微睡(まどろ)むままに瞼を閉じた。

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