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7-7 残った〝初めて〟
それから、どのくらい眠ったのか。再び浮上してきた頃には室内に電気が点り、窓からは夜の闇が覗いていた。
オレは相変わらずふわふわしていて、まだ夢を見ているような心地で熱に浮かされていた。ぼんやりした頭で誰かが傍に居ることを認識したものの、それが誰だったか、自分が今どうしていたのか、すぐには思い出せなくて……。
最初、四ノ宮かと思った。でも、そうだ。違う。オレ、帰って来たんだ。帰って来たんだった。
だから安堵して、枕元の人を呼んだ。
「……九重」
ハッとした気配があった。それから、こちらを覗き込む顔。
「おはよう、トッキー」
――五十鈴センパイだった。
「!?」
驚いた反動で一気に覚醒を果たし、半身を起こ……そうとして、ぐらり、目眩を起こした。
「ああほら、無理しないで。まだ寝てていいよ」
穏やかな声音でセンパイがオレを再び寝かしつける。枕に頭を逆戻りさせながら、オレは傍らのセンパイを見上げた。
「セ、センパイ? 何でここに?」
「何でって、キミがここを指示したんじゃん」
「え? ……あ」
そういえば熱で倒れる前、オレ、センパイにマンションの鍵を渡した記憶がある。周りを見回す。そこは、オレの前のマンションの寝室だった。そうか、センパイ……オレを運んでくれたのか。センパイがここを使ってくれという意図だったのに、何だか面倒掛けて申し訳ない。
そこまで思い出して、はたと止まる。記憶を探っていて、とんでもない映像が脳裏を過ぎったからだ。近付くセンパイの顔、唇に重なった、濡れた柔らかい感触――。
背筋を冷や汗が伝った。
「あ、あの~センパイ、ちなみに、その……オレにキ、キ、キスしませんでしたか?」
めちゃくちゃ吃 った。センパイは一瞬キョトンとした後に、ニンマリとしたり顔で己の唇に人差し指を立てた。
「覚えてたんだ? トッキーの唇、熱くて甘くて蕩けそうだったよ」
「――!!」
オレは愕然と硬直し、それから盛大に混乱した。センパイがオレにキス? センパイとオレが? ていうか、待て。オレ、唇――。
ぽろり、知らず目尻から雫が伝い落ちた。センパイが目を丸くする。一粒、流れた涙はその後とめどなく溢れて、オレの視界を歪ませた。
「ぅっ……うぅ~」
「え、ちょ……トッキー!? どうしたの? 何処か痛いの?」
「オレ、ふぁっファーストキス、だったのに……ッ」
センパイが一瞬止まる気配がした。驚く声。
「え? あんな激しいえっちしといて、まだだったの?」
「はっ初めては、いつか好、好きな人にって……思っ」
ダメだ、止まらない。ぽろぽろ、ぽろぽろ、後から後から流れ出す。自分でも、どうしてこんなに悲しいのか。たぶん、熱のせいだ。心が弱ってるんだ。
こんな……こんなことくらいで、泣くなんて。センパイ困ってる。でも、オレの……オレの最後に残された砦、だったのに。
「もうオレの〝初めて〟……全部無くなっちまったよぉ~」
子供みたいに泣きじゃくった。センパイがどう思うかなんて、気にする余裕も無く。ただただ、どうしようもなく悲しくて――。
不意に、瞼に柔らかい感触が重なった。覚えのある感覚。
「ごめんね……泣かないで」
優しい唇の感触。いつかの九重のキスを思い出し、目を開いた。五十鈴センパイが気遣わしげにオレを見ていた。
「そんなに大切にしてたなんて、知らなかったから。でも、薬を口移ししただけだから、あんなの数の内に入れなくていいんだよ」
「でも……」
「トッキーは、今好きな人居るの?」
唐突な質問。今度はオレが目を丸くする番だった。それから、軽く頭 を振る。
「まだ……そういうの、よく分かんなくて……」
センパイは頷きを返した。
「そっか。それなら、まだ〝初めて〟残ってるじゃん?」
「え?」
スッ……と、センパイの指先がオレの胸元を指した。
「〝初恋〟……キミの心は、まだ誰にも渡してないんでしょ? いつか好きな人が出来た時、一番大切なその〝初めて〟をプレゼント出来るよ」
――〝初恋〟。
まだ、残っていた。オレの……一番大切な〝初めて〟。
じわりと、胸の奥に温もりが広がっていく心地がした。だけど、それもすぐに霧散してしまう。
「でも、オレ……もう、誰かに恋をする資格もない……」
思い出すのは、昨夜の記憶。何度も、何度も――オレの中は、四ノ宮のものでいっぱいになった。
「よ、汚れてるんだ……こんなの」
もうオレの身体は、四ノ宮の形に染まってしまっている。こんなの、他の誰かになんて――。
「渡せない……」
ぽつり呟いた言葉は、痛みを孕んで震えた。五十鈴センパイは少しの間俯くオレを黙して見つめていたけれど、ふと何を思ったのか、こんなことを言い出した。
「――見せて」
え? と思った時にはセンパイは布団を捲り、オレの服の釦 に手を掛けていた。止める間もなく、プチプチと開かれていく前。
「せっセンパイ!? 何を!?」
慌てて制止しようと手を伸ばすが、熱のせいか力が入らない。センパイは気にせず、断固たる意思で作業を続行する。そういえば、いつの間にかオレ、パジャマを着てる。センパイが用意して着せたのか? いや、今はそれどころじゃない。
露になる肌。胸元を全開にされ、焦燥が襲う。
「センパっ……やだ!」
お構い無しに、センパイは次にオレのズボンと下着を一気にずり下ろした。羞恥の余地もない程の早業。気が付いた時には、オレは全部をセンパイの前に晒していた。困惑と混乱と焦燥。そこに恐怖が混じってパニックを起こす寸前に、センパイは言った。
「綺麗だよ。何処が汚れてるの?」
「へっ?」
メタリックブルーの瞳が真っ直ぐにオレを見据え、柔和に細められる。
オレは急に恥ずかしくなって、元々高かった全身の熱を更に上昇させた。
「ぃっ……いいよ、そういう……気休めとか」
ぷいと口を尖らせて横を向いた。すると、引き戻すようにセンパイの指先がそっとオレの肌に触れる。
「気休めだと思う? 嘘じゃないよ。綺麗だ。――欲しくなるくらい」
するりと陶器に触れるように優しく、センパイの手指がオレの胸元を撫で上げる。こそばゆさに息を詰め、走った動揺にまだぞろ目を逸らした。センパイの声が耳元で囁く。
「怖かったでしょ。痛かったよね。……頑張ったね。でももう、我慢しなくていいんだ」
ハッとした。穏やかで優しい声音。振り向くと、センパイは音色のままの労わるような表情を浮かべていた。目が合う。じわりと視界が再び涙で滲み、衝動に攫われた。
「……かった」
――怖かった。
「痛かったよォ」
涙と共に吐き出した本音は、自分でも驚く程弱く脆いものだった。
合意だった。後悔なんてしていない。――そう、自分に言い聞かせていた筈だったのに。
オレ本当は……辛かったんだ。そんなことも、自分では気付けなかったなんて。……いや、本当は分かっていて、蓋をしたんだ。自覚したら、壊れてしまうから――。
五十鈴センパイは幼子をあやすようにオレの頭を撫ぜてくれた。それが優しくて余計に泣きたくなって、暫くの間オレはセンパイに甘えてしゃくり上げていた。
今日会ったばかりの初対面の人に、何でオレ、こんな弱い所ばかり見せてるんだろう。センパイは不思議だ。それが何だか、嫌じゃない。
「……いいのかな」
小さく零すと、五十鈴センパイは「うん?」と促すようにオレの顔を覗き込んだ。
「オレ……まだ恋しても、いいのかな……」
幸せになっても……いいのかな。
「勿論だよ」
センパイは即答すると、ふわりと微笑 った。それから、悪戯っぽくウインクをして、
「何だったら、おれに恋してくれてもいいよ? そうしたら、ファーストキスもちゃんと〝好きな人〟にあげたことになるし」
などとおどけて見せる。オレが泣き腫らした目をぱちくりさせていると、そこへ――。
ガタン、物音がして、見ると寝室の入り口に思いがけない人物の姿があった。
「こ……九重?」
手にしていた荷物を床に取り落とした様子で、九重はこちらを凝視したまま凍り付いていた。
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