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8-9 愛情と無関心

 オレの帰りが少し遅くなった時、九重はいつも玄関に居て、「遅い」って偉そうに文句を言いながらもオレを出迎えてくれた。――それが、ひねくれたアイツの「おかえり」の挨拶。  だけど今日は、玄関を開いてもそこには誰も居ない。それはそうだ。九重は今熱を出して動けない。そうと分かっているのに、何故だか無性に心が騒いだ。  脱いだ靴を揃えることも忘れて、小走りに廊下を進む。九重の寝室前で、一度大きく深呼吸をしてから、音を立てずにそっと扉を開いた。  九重は眠っていた。キングサイズのベッドのド真ん中。コイツらしく仰向けで堂々たる寝姿を見て、少しホッとした。だけど、一人だとスペースが余っていて何だか寂しい。  忍び足で傍に寄り、額に手を遣る。――熱い。やっぱり、朝より熱上がってるな。  夕飯は食べていないだろうから、今から何か消化の良いものを用意して、それから改めて声を掛けてみよう。  そう決めて、身を翻そうとしたところで、不意に腕を掴まれた。 「!」 「――遅い」  お定まりの、あの文句。九重はいつ目覚めたのか、気怠げな熱っぽい瞳でこちらを見上げていた。少し拗ねたような表情。  ――ああ、オレ。帰ってきた。本当に、帰って来られたんだ。  改めて、それを実感した。 「……ただいま」  ようやく、その言葉が言える。 「悪い。起こしたか」 「それは別にいい……何か、あったのか」  怪訝げな九重の問い掛け。早く帰ると約束したのに果たせなかったから、きっと不安にさせてしまったんだろう。申し訳なさに眉が下がる。 「親父が、学校まで迎えに来てさ。強制的に実家に連れ戻された」 「……なに?」  オレは九重に語って聞かせた。先日の痴漢リーマンとの一件が親父に知られていたこと。ブチ切れた親父に実家に軟禁されかけ、家政婦さんの助けで逃げて来たこと。 「スマホ取り戻したけど、お前寝てるかもだし起こしちゃ悪いと思って、帰り着くまで連絡控えてた。約束……守れなくて、ごめんな」 「事情があったんなら、仕方ない。だが、大丈夫なのか? 向こうは結局納得していないんだろう? また迎えに来るんじゃないか?」 「どうだろうな……」  もしかしたら、見放されたかも。とは言えなかった。九重は布団の中で肩を竦めた。 「それにしても、幼馴染といい父親といい、お前の周りは過保護に過ぎるな」 「……言っとくけど、お前も充分オレに過保護だぞ?」 「まぁ、お前は危なっかしいからな。父親が心配する理由も分からないではない」 「何だよ、それ」  むぅ、と頬を膨らませる。 「……親父が心配してるのは、『花鏡家の跡取り』だ。オレ自身のことなんて、どうでもいいんだよ」  続けた心情の吐露に、頬だけでなく心までもが萎れた。九重はそんなオレをまじまじと見据えて少し黙した後、ぽつりと零した。 「俺もそんな風に思ってた時期があった」  言葉の意図が読めず、思わず九重の顔を見る。九重は遠くを見るように天井を振り仰ぎ、先を紡いだ。 「後々そうですらなかったと、気付いたがな。俺の父親が大病院の院長なのは知ってるな?」 「まぁ……」  何だよ、突然。自慢か? 「母方は大手不動産会社の社長令嬢。完全な政略結婚だった。二人の間に愛は無い。だから、双方他に愛人が居た」 「!」 「互いにそれを知っていて、知らんぷり。自由に不倫三昧だ。その癖、世間体だけは一丁前に気にして、いい夫婦のフリをしている。……仮面夫婦ってやつだな」  九重の口から初めて語られる、〝家族〟の話。その内容はあまりにも衝撃的で、オレは言葉を失った。 「父親は人間不信で、他者に自分の病院を譲るのを嫌がった。故に子供を跡継ぎに仕立てると決めたようだが、正妻との間に授かることは絶対に無い。だから、愛人に産ませた子を自分と正妻の実子ということにして引き取った。……それが、俺だ」 「! 九重が……」  ――愛人の子。 「実の母親には会ったこともない。金と引き換えに俺を売ったと聞かされたな。父親の愛人は沢山居たが、誰のことも信用出来ない人だから真に心を許した相手なんて一人も居なかったようだ。皆ただの肉欲の捌け口として、手を出しただけに過ぎない。飽きたら金を握らせて黙らせて、取り替える。それだけだ。……ある意味、割り切った関係性で義母よりもマシと言えるかもしれないが」  九重は、乾いた笑みを漏らした。責めるようでいて、何処か自嘲する風でもある、胸に痛い笑みだった。 「義母は、不倫相手に愛を求めた。決して〝母親〟にはなれない〝女〟だった。俺のような血の繋がらない義息になど、母性も愛情も芽生える筈がない。特段酷く当たられたことはなかったが、興味も関心も持たれなかった。ベビーシッターや家庭教師に任せて終わり。後は生活必需品だけ与えて放置だ。義母にとって俺はただ『病院を継ぐ為の道具』であり、それは父親にとっても同じだった」  その点では、皮肉にも二人の考えは一致していたと言える。 「ただ、家を空けがちな父親と違って、義母は家に男を連れ込んでくるのが難点だった。幼い俺には男女の営みなど理解出来ないから、問題ないと踏んだんだろう。俺が居ても行為はお構いなしに行われた」 「なっ!」  想像してしまった。幼い子供の目に、耳に……それはどれだけ大きなトラウマを残したことだろう。 「次第に俺が成長してきて義母も居た堪れなくなったのか、今度は俺を邪魔にするようになった。面と向かってそうとは言われないが、男を連れ込む時はそれとなく外出を求められるようになった。その内に、『早い内に自立心を鍛えた方がいい』とかいう建前で、このマンションを与えられ、以降ここに一人で住むよう決められた」 「それでお前……ここに」  一人で……ずっと。もう何年? 自立心? 何だそれ。単に邪魔だったから、体良く追い出しただけじゃんか。  そんな……そんなのって。 「お前は、反抗……しなかったのか?」 「したら捨てられると思った」  絶句した。九重は、言葉の重みに反して何でもないことのように表情を変えずに言う。 「誘拐された時、俺が泣いたのは……犯人が怖かったからじゃない。このまま両親に見捨てられると思って、絶望したからだ」  あの時の九重を思い出す。明かりの差さない暗い部屋に閉じ込められて、しめやかに泣いていた幼い少年。――それはきっと、計り知れない程の深い絶望感だったに違いない。 「両親にとって、俺はいくらでも換えの利くただの道具だ。期待に応えられなかったら、容赦なく他の不倫相手に産ませた子供と〝取り替え〟られる……それを理解していたから、俺は歯向かうこともなくただ〝良い子〟にしていたよ。それでも、最初の内は期待していた。少なくとも俺は跡取りとしては必要とされている。俺が勉強で頑張れば、テストでいい点取れば……二人の望むような優等生で居れば、二人共俺のことを……俺自身のことを、いつか認めてくれるんじゃないかと思っていた」  〝でも、そんなことは無かった。〟 「俺がいくら頑張っても、二人にとってはそれが当たり前だったんだ」  だから、褒められることも、認められることもない。ただ及第点を出し続けていれば捨てられることはない――それだけ。 「跡取りとしてすら……俺じゃなくても良かったんだ。俺はあの二人に、まともに心配されたことすらない」  疲れを孕んだ口調だった。滲んでいたのは、諦観。期待することを止めた、空虚な平穏。  ……オレは? ふと、胸中に自問する声が上がった。  オレは、自分の意志で家を出た。「跡なんか継がない」って強固に主張して、親の七光りとかじゃなくて自分自身の力を試したいんだって、親父の反対を押し切って読モんなって……反抗するように、髪を染めた。  そんな風に自分を押し通せたのは――オレは決して捨てられないって、安心感が何処かにあったからじゃないか?  だからこそ、今日初めて親父に見放されたかもしれないと思った時、あんなに胸が痛んだんだ。 「オレ……は」  甘えていたのか。両親に。  愕然とするオレに、九重は静かに告げた。 「俺は〝換えの利く道具〟だったが、少なくともお前の父親にとってお前は、跡取りだからだろうがなんだろうが、それだけ心配する程の価値のある存在なんじゃないのか」  その時、室内に軽快な着信音が鳴り響いた。――オレのスマホだ。  反射的に鞄から取り出し、表示を確認すると目を瞠った。 「……母さんからだ」

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