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8-10 傍に居たい。

 端末から顔を上げ九重に視線を遣ると、彼は小さく頷いた。出ろということだろう。  それを受けて、オレはやや緊張しながら通話ボタンを押した。 「――もしもし」 『もしもし、鴇真』  知らず、安堵の息が漏れる。親父はイマドキ携帯を持っていない。母さんの番号を借りた親父かもしれないと思っていたが、聞こえたのはちゃんと母さんの声だった。 『飯倉さんから聞いたわ。ごめんなさいね、鴇真。私が孝子( たかこ)と出掛けている間に、あの人ったら勝手なことしたみたいで』 「いや……母さんは悪くないし」  孝子さんは、タカの母さんだ。二人は昔から仲が良い。にしても、やっぱり今回の件は親父の独断だった訳だ。端末の向こうで、母さんが苦笑した気配がした。 『鶴真(たずまさ)さんと喧嘩したみたいね。あの人、しょげてるわよ』 「しょげ?」  親父が? 『今回のことは、流石にやり過ぎたって。……許してあげてね。あの人、ただあなたが心配だっただけなのよ』 「心配……」 『ええ、あなたは遅くに授かった一人息子だからね。大切にしたいのよ。それは私も同じだけど。でもあの人、不器用で頑固だから。そのやり方が分からないのよ』  親父と母さんは十二、歳が離れている。一周回って干支が一緒だ。親父はあの通りの性格だから、当初誰とも心を通わせることがなかったらしい。  見合いの話などもあったようだが、変にお堅い親父は「真に愛した人としか添い遂げない」と突っぱねていたらしく、長らく独り身でいたそうだ。  では、花鏡流の跡取りはどうするのかというと、当時親父は弟子の誰かに継がせる気でいたらしい。  もう一生独身でいるかと思われた親父だったが、ある時運命の相手に出逢った。それがオレの母さん――時子( ときこ)さんだ。  母さんは元々、生け花を習いに通っていたそうだが、その内に親父と惹かれ合い、結婚した。十二も歳の離れた頑固親父の何処が良かったのか、聞くと母さんは決まって惚気( のろ)けたものだ。――『だってあの人、可愛いのよ』 『本当は人一倍愛情深い人なのに、それを上手く表に出せなくて、いつも空回っちゃってるのよね。私があなたを身篭っていた時なんかも凄かったのよ、過保護っぷりが。少し動くだけでも危ない危ないって、私に何もさせようとしないの』  何もさせずに閉じ込めて守る――それが、親父なりの愛情表現だった。 『度が過ぎると、される側は窮屈で堪ったものじゃないんだけどね』  再び、苦笑の気配。 『そうして、あなたが家を出てからも、あの人ずっとあなたのことを心配していたのよ。なのに、強情だからやり方が素直じゃないの。私があなたに連絡を取る傍ら、あの人はあの人で常に、人を雇って密かにあなたのことを調べていたみたい』 「げ」  それでアイツ、痴漢リーマンの事件のことを知ってた訳か。つーか、実の息子の動向を知るのに、わざわざ金で人を雇うか? 会話しろよ。  ……いや、会話しようとしなかったのは、オレも同じか。頭の固い親父に何を言っても無駄だと決め付けて、ずっと逃げてたんだ。 『鴇真、最近身辺で何かあったみたいね。私を心配させたくないからか、鶴真さんも詳細は教えてくれないのだけど。とにかく、それが原因で、あなたのことを守らなくちゃって、強く思ったみたいで。……どうやら、やり過ぎちゃったみたいね』 「……」 『あなたからしてみれば災難だったろうけど、あまり責めないであげてね。代わりに、私がたっぷり叱っておいたから』 「母さんが?」 『そうよ、私怒ると怖いんだからね』  その言い方が何だかお茶目で、次いで母さんにこってり絞られて萎れている親父を想像したら何ともおかしくて、オレはつい笑ってしまった。  母さんの穏やかな声が、耳を撫でる。 『ねぇ、鴇真。あなた知らないでしょ。あの人ね、あなたがモデルをしてる雑誌、毎月買ってるのよ』 「え」 『それも、二冊。一冊はそのまま保存して、もう一冊はあなたのページだけスクラップして取っといてるのよ。笑っちゃうでしょ』  アイツ……オレにはモデルなんて辞めろって言ってる癖に。 『あなたの一番の大ファンは、あの人なんじゃないかしら。あ、このことは内緒よ。あの人、私にも秘密にしてるつもりみたいだから』  それを聞かされたオレの方も、何だか居た堪れない。というか、照れ臭い。それから、一つ思い出したことがあった。 「……母さん」 『なぁに?』 「親父と電話って、代われるか?」  母さんは少し驚いたようだった。オレが親父と話したがるとは思わなかったんだろう。でもすぐに明るい口調で『ええ、分かったわ』と了承してくれた。  流れる保留中の音楽。クラシックの有名な曲。曲名は何だったっけな。優雅で軽快な曲調。母さんが親父を呼びに行っている間のじれったい時間、オレはそわそわした気分でそれを聞いていた。  ちらり、横目で九重の方を窺う。九重は〝自分のことは気にするな〟とばかりに、また小さく首肯してみせた。その気遣いがありがたくて、同時に申し訳なくて、オレは目顔で頷き返した。  三巡目辺りで、曲がぷつと途切れた。 『――鴇真』  電話口に出た親父の声は、固かった。 『電話、代わった』 「……うん」 『何の用だ』  そっけない言葉。普段だったら突き放されたように感じて、会話を諦めていたことだろう。 「その……オレ、親父のこと〝害〟とか言ったのは、悪かったよ。言い過ぎた」  少し間があった。それから親父は、ぽつりと零した。 『私も、叩いたのは悪かった』 「……うん」  そのことは別にいいよ。親父もそんなつもりじゃなかったのは、分かってるし。――そう言ってやりたいけど、上手く伝えられない。こういうもどかしさを、親父もずっとオレに対して抱いていたんだろうか。  どう切り出すか迷った末に、オレは今思っていることをありのまま唇に乗せることにした。 「親父、今オレさ、友達とルームシェアしてるんだ。タカじゃないけど、親父並に過保護な奴。偉そうでひねくれてて可愛くなくて……ああ、ちょっと親父に似てるな、そういや。けど、何か放っとけなくてさ。一緒に居てやりたいんだ」  ハッと息を呑んだのは、電子回路の先の親父だけじゃなくて、傍に居る九重もだった。 「色々あるけど、ちゃんと元気にやってる。心配してくれんのは嬉しいけど、一人じゃないから。……だから、大丈夫だ」  今度の間は、長かった。親父はどう反応するだろう。やっぱり納得いかないだろうか。不安になってきた頃、ようやく親父から言葉が返ってきた。『そうか』と一言。……相変わらず感情が読みにくい。 「読モもさ、やっぱり続けたいんだ。最初は確かに、親父への反抗心から当て付けに始めたようなとこあったけど、今では楽しくてやりがいもあってさ。自分の力、もっと試したいっていうのも本当だし」 『……』 「でも、それだけじゃやっぱりダメだよなとも思うんだ。親父に言われたからとかじゃなくて、オレ……花のこともちゃんと勉強しようと思うんだ。勿論、学校もバイトも読モも辞めるつもりねーから、時間は限られてくるし、将来的にオレが花鏡流の跡継げる程育つかも分かんねーけどさ。でも、やれることや選択肢は多いに越したことないだろ? だからさ」  〝親父、改めてオレにレッスン付けてくれねーか?〟 「何を今更って、虫がよく聞こえるかもしんねーけど……オレやっぱり、花も嫌いじゃないから」  思い出したことがある。今朝見た過去の夢の続き。  オレが親父に贈った父の日の花。次に見た時には元通りに復元されて、親父の部屋に飾られてた。――オレが生けた、山盛りの下手くそな状態で。  当時オレは嫌味と受け取っちまったけど、今にして思えば、あれは親父なりの〝ごめんなさい〟だったのかもしれない。  暫しの沈黙の後、親父は静かに告げた。 『……厳しくするぞ』  その言い方が何とも親父らしくて、オレは自然と口元を綻ばせていた。 「望むところだ」    ◆◇◆ 「話は済んだのか」  終話ボタンを押すと、九重が控えめに訊ねてきた。 「ああ。これから親父に生け花のレッスン週一で付けてもらうことになった」 「また忙しくなるな」とぼやくと、九重はオレをじっと見上げて、「でも、楽しそうだな」と仄かに口元に笑みを刷いた。 「そうだな。ちょっと楽しみかも」  ようやく、親父と分かり合えた気がした。じわりと胸に温かな熱が広がるように、嬉しさでいっぱいになる。 「ありがとうな」 「何が?」 「お前のおかげだから」  九重はキョトンとした。それが何だか可愛く思えて、頭を撫ぜた。 「うわ、熱っ!? そうだお前、熱あるんじゃん!」 「ああ……ちょっと、クラクラするな」  申告すると、電池が切れたみたいに、ふぅっとベッドに沈み込み目を瞑る九重。やべ、めっちゃ喋らせちまったもんな。無理させ過ぎたな。  聞いてしまった九重の事情。  親父に見放されたかもと思った時、オレは凄く心細くて悲しい気持ちになった。――コイツはそれを、ずっと味わい続けてきたんだ。  もう、そんな想いさせたくない。  あの夜にも誓った。オレじゃ足りないかもしれない。だけど、オレの存在が少しでもコイツの孤独を和らげることが出来るのなら――傍に居たいと、改めて思った。 「お前、もう休んどけ。飯は食えるか? これから用意するな」 「……ん」  九重は今一度そっと瞼を開き、こちらを見上げるとふわりと微笑んだ。 「良かったな……花鏡。親父さんとのこと」  それは、いつか見た優しい笑顔で。……胸が騒いだ。喉の奥まで一緒に、きゅうっと抓まれたみたいに切なくなる。  ――お前、自分は親のことで辛い想いしてんのに、オレのこと、そうやって喜んでくれるのかよ。  鼓動が高鳴る。嬉しいのに、何だか泣きそうで。頬が熱くなる。……おかしいな。オレ、もう熱は下がった筈なのに。  九重の柔らかい笑顔。見てるとぶわぶわ落ち着かなくて、逸らしたくなるのに目が離せなくて。ずっと、見ていたくて――。  ゴトン、手からスマホが滑り落ち、ハッとしてようやく金縛りが解けた。  パッと背けた顔が自分でもどうしようもなく真っ赤に染まっているのが分かり、オレはひどく困惑した。      【続】

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