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9-7 露見と隠蔽

 メドレーリレー開始直前、ギリギリで戻るとプールサイドには先に須崎と九重が来ていた。 「遅ぇぞ」  ストレートに突っ込んだのは、須崎の方だった。  優等生モードの九重は「何にせよ、二人共間に合って良かったよ」なんてニッコリして見せたが、その琥珀の瞳の奥には不機嫌な光が揺らめいていた。オレがタカと居たのが気に食わなかったようだ。  列に並ぶと、九重に小声で「何処に行っていた。探したぞ」とお怒りの声音で耳打ちされた。――やっぱり、九重はオレのことを探してくれていたらしい。  オレはそれには答えられず、曖昧に笑って誤魔化すことしか出来なかった。  続いて、二階観覧席を振り仰ぐ。一年生が固まっている辺り。同じA組だから、一番端の一塊に四ノ宮の姿はあった。こちらに気付くと、何事も無かったかのようにいつも通りの可憐な笑みで手を振ってくる。  オレがタカと一緒に戻ってきたのを見て、彼はどう解釈しただろう。あの笑顔からは何も読み取れない。  腹の奥に残る鈍い痛みと共に、先刻の記憶が蘇る。四ノ宮の言葉。行為。そして、その後のタカとのこと――。    ◆◇◆  無限に続くかと思われた沈黙を先に打ち破ったのは、タカの静かな問いだった。 「……誰だ」  低く、唸るような声。 「誰が、トキにこんな……っ」  押し殺した激情が空気からピリピリと伝わってくる。凄絶な憤怒。思わず身が竦んだ。 「アイツらか? 須崎の」  ハッとして、顔を上げた。 「違う……」 「……そうだな。アイツらみたいな小物に、こんなことが出来るとも思えない」  タカは思案げに足元に視線を落とし、次に目線を上げると、何故かしら確信したような口調で告げた。 「――九重か」  問いですらない、断定。オレは目を剥いて首を左右に振った。 「ち、違うっ!」 「何故庇う。アイツ以外有り得ない。お前の姿が見えなくなってから、アイツも会場から消えた。……ここに居たんだろう?」  九重の姿が? 何で……いや、もしかしたら、タカみたいにオレが居なくなったことに気付いて、探してたんじゃないか? きっと、タカの方が先に見つけたんだ。誤解だ。 「違う。本当に九重じゃ」 「じゃあ、誰だ?」 「それは……」  言葉に詰まった。目を逸らす。そんなの、言える訳が無い。数秒の間の後、ふわりと背中を布の感触が覆った。――オレの上着(ジャージ)。その辺に落ちていたのを、タカが拾って掛けてくれたらしい。タカの纏う怒りの波動が、不意に和らいだ。 「悪い。そうだよな……言いたくないよな。辛いのはお前なのに、責めるような聞き方をして悪かった」 「タ……」  スッと、目の前にタカの手が差し出された。タカは真剣な眼差しで継いだ。 「触れてもいいか?」  何処か懇願するような響きだった。さっき、オレが突き放してしまったから――拒絶されたと思ったのかもしれない。  改めて自分の行動がタカを傷付けてしまったのだと悟ると、酷く胸が痛んだ。タカの大きな手。いつも優しく撫でてくれるその手に、オレは自分からそっと触れた。  タカはホッとしたようだった。 「ごめん……さっきは。タカが嫌な訳じゃ、ない」 「分かってる」  タカはオレの手をぎゅっと握り締めると、何かを堪えるように唇を噛み締めた。 「謝るのは、俺の方だ。今度こそトキを……絶対に守ると誓ったのに。結局、何も……」 「タカ……」  違う。タカが責任を感じることなんて、何も――。 「トキ、保健室まで連れていく。抱え上げるぞ」 「!」  保健室!? 「ま、待ってくれ、タカ! それは、いいから!」  今にもオレを抱えて運ぼうとするタカを、慌てて止めた。タカは違う解釈をしたようで、「直で病院の方がいいか」などと窺う。病院なんて、もっととんでもない。 「オレは、平気だ。それよりも、水泳大会……今どうなってる? まだ終わってないよな?」 「トキ、何を言ってる。今は水泳大会なんて」 「お願いだ」  遮るように、顔を伏せたまま強い口調で乞うた。 「誰にも……知られたくない。大事にしないでくれ」 「トキ……」 「オレは問題ない。初めてじゃ……ないから」  タカが息を呑む気配がした。その反応に、また胸が軋む。きっとまた、オレはタカを傷付けている。でも今は、こうするしかない。 「お願いだ、タカ……誰にも、言わないで」    ◆◇◆ 『水泳大会、優勝はA組!』  結果を報じる放送に、一二年A組一同から歓喜の声が上がった。最終種目のメドレーリレー後、そのままプールサイドで結果発表を聞いたオレは、ようやく肩の荷が降りた想いだった。 「やったな、須崎!」 「おう」  感じるタカの視線から逃れるように、すぐ近くの須崎に笑顔を向け、平静を装った。  タカには無理を言って口を噤んで貰うことにした。中の液体の処理と汚した机や床の掃除も、タカには教室から出て貰い、オレ一人で済ませた。  四ノ宮が置いていった水着を使うのは複雑な心境になったけど、背に腹は代えられない。そのままタカの心配を振り切り、頑なに平気だと言い聞かせて会場に戻った。  四ノ宮の言っていたように、泳げる程度には回復したが、やっぱり少しもたついてしまった。よりによってオレの種目は平泳ぎ。大股開きだ。嫌でも四ノ宮とのことを意識するし、腹の奥は依然痛むし、掻き出してきた筈の液体がまだ残っている気もするしで、あんまりベストは尽くせなかった。不甲斐ない。  でも、その分も他のメンバーがカバーしてくれたので、リレーは問題なく一着でゴールを決めることが出来た。総合結果も今しがた報じられた通りだ。  安堵の息を吐く。同時に、改めてタカに知られてしまった事実が、重く心にのしかかった。――タカにだけは、知られたくなかったのに。  これは、きっと罰だ。オレが煮え切らない態度で、罪を重ね続けてきたから。  そうだな……いい加減、覚悟を決めよう。  タカに伝えよう。告白の答え。これでもう、今まで通りでは居られなくなるとしても。かえって今回のことで、踏ん切りがついた。  オレは、タカに相応しくない。タカには、もっと素晴らしいパートナーが現れる筈だ。いつまでもオレが縛り付けていちゃ、駄目だ。  生まれた時からずっと一緒だった、大切な幼馴染――その手を、放す時が来た。  密かにそう決意して、退場する皆と共にプールサイドを辞そうとした、その時だった。 「九重。俺と勝負しろ」  タカが、九重を呼び止めた。驚いて立ち止まったのは、その場の全員だった。  九重が怪訝げに眉を寄せる。 「勝負?」 「お前の得意な種目で構わない。俺が勝ったら、二度とトキと関わるな」 「っタカ!?」  思わず、タカの腕を掴んで問い質した。 「何言ってるんだよ、タカ!」  タカはオレにだけ聞かせるように、そっと耳元で囁いた。 「安心しろ、トキ。絶対に勝つ。もう九重(アイツ)に、お前を苛まさせはしない」 「っ……!」  ――違う。  タカは勘違いしてる。先刻のアレをやっぱり九重の仕業だと思ってるんだ。  オレが口を添えるより先に、九重が疑問を述べた。 「風見、何で僕が君と勝負する必要があるんだ?」 「自分の胸に聞くんだな」 「タカ!」  誤解だと伝えたい。でも、皆見てる。この状況でどうすればいいんだ?  九重がオレに視線を寄越した。オレは戸惑って、ふるふると首を左右に振った。タカが九重を煽る。 「どうした? 怖いのか? 俺に負けるのが」  ぴくりと、九重の眉が一瞬吊り上がった。険悪なムード。いけない、このままじゃ。  何か言わなきゃと口を開くも、オレが言葉を発するより先に、九重が静かに先を紡いだ。 「その条件……こっちにも適用されるってことでいいのかな」  決して声を荒らげるでもなく、むしろ静謐さすら感じられるが、そこには有無を言わせぬある種の迫力があった。 「俺が勝ったら、花鏡から手を引くのは風見(そっち)だ」  優等生モードの一人称〝僕〟が剥がれていることに当人が気付かない程、九重の言葉には本気の念が(こも)っていた。  目に見えぬ火花が、タカと九重、二人の視線のかち合う中心で爆ぜたような気がした。

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