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10-4 愛情の檻

『悪い、トキ。少し遅くなる。店で待っていてくれるか』  勤務後に確認したタカからのスマホメッセージにはそう書かれていた。 「あれ? 帰んねーのか? 花鏡」  カフェの従業員控え室。着替えを終えたのに退出の姿勢を見せようとしないオレに、須崎が不思議そうに訊いてきた。 「何か、タカの迎えが遅れるみたいで……ちょっと、ここで待たせてもらおうかと」 「風見、そういや昨日も来てたよな。どうしたんだよ、アイツ急に。過保護レベルが上がってんじゃねーか」  これには苦笑を返すしか出来ない。送迎するとは言われてたけど、まさか通学時のみならず通勤時も該当していたとは……。その内、同じ店( こ  こ)で一緒に働くって言い出しそうだ。  でも、今日はどうしたんだろ。何かあったのかな……。  ざわりと、胸の奥が僅かに騒いだ。何となく、嫌な予感がする。何も無ければいいけど――。  須崎を見送って、そのまま待機すること数十分。タカから到着の連絡が届いた。 「トキ、すまない、待たせた」  店外で落ち合ったタカは、息を切らせて肩を弾ませ、急いで来てくれたのがよく分かる様相だった。ともかく、無事そうでホッとした。オレの考え過ぎだったか。 「おう、何かあったのか?」 「少し、やることがあったんだ。もう終わったから、大丈夫だ」 「やること? 引っ越しの荷物の片付けとかは、昨日終わらせてなかったか?」 「それとは別口だ。……トキには、後で話す」 「? うん」  何だか少し意味深な物言いが引っ掛かったものの、「折角だからケーキ買って帰るか」とのタカの提案に気を逸らされ、些細な疑問はその場では一旦忘れてしまった。  え? 一応読モなのに甘いものばっか摂取してるって? 大丈夫だ、オレ太らないタイプだから! てか、エクササイズすっし!? 「ただいまー! タカ、ケーキと夕飯、どっち先する?」 「ケーキは普通デザートだろう。……と言いたいところだが、トキは疲れているだろうし、先にケーキで休憩するか」 「りょーかい!」  タカの意見により、帰宅後真っ先にケーキを食べる運びとなった。オレはスタンダードにストロベリーショート。タカは例によってザッハトルテだ。  オレ、紅茶にタカ、コーヒー。……何か、その組み合わせ、四ノ宮がバイト先に来店した時のこと思い出して微妙な気分になるな。  でも、ケーキに罪はない! 「んー! んまい!」 「そうだな。あ、トキ、クリーム付いてるぞ」 「え? どこ?」 「違う、そっちじゃない」  タカの指先が、オレの口元を優しく拭う。それから彼は、くしゃりと相好を崩して、言った。 「全く、お前は。幾つになっても子供みたいだな」  慈しむような声音と眼差しに、何だか胸がいっぱいになった。 「……ありがとうな、タカ」  自然と、その言葉が口を突いていた。  タカがケーキ買おうなんて言い出したのは、きっと、オレを慰める為だ。自分は甘いものがあまり好きじゃないのに、オレの為に……。  その心遣いが、嬉しい。  本当はさっき、玄関扉を開こうとしてマンションの鍵を取り出した時、九重のことが脳裏を過ぎり、沈んだ気分になりかけた。  忘れようと決めても、まだ心は癒えない。その傷の痛みを、クリームの甘さは少しだけ忘れさせてくれた。  このクリームみたいに、タカは本当に優しい。もし、タカのことを恋愛対象として好きになれたなら……タカの想いに応えてやれることが出来たなら、オレにとっても、それが一番なんじゃないかと思う。  男同士だし、恋愛なんてやっぱまだよくわかんねーけど……形から始めるのも、有りかもしれない。 「なぁ、タカ」 「うん?」  そこで、ふっと四ノ宮の顔が浮かんだ。耳に焼き付いた、あの言葉と共に――。  ああ、まだ告げるのは早い。まずは、四ノ宮のこともちゃんとしないと。  呼び掛けた手前、「やっぱ何でもない」なんてのも気が引けて、さっと脳内で話題を検索した。 「そういや、後でするとか言ってた話って?」 「ああ」  頷いてから、タカはさらりと言った。 「第二の脅迫者の件だが、無事解決した」 「……へっ?」 「トキには首を突っ込むなと言われたが、やはり放置してはおけないからな。勝手をして悪いとは思ったが、交渉してきた」 「ま、待ってくれ、タカ……え?」  話についていけない。解決した? 何が? 第二の脅迫者の件って……四ノ宮の、こと? 「何で……相手が誰かって、分かったんだ?」  だって、オレ……言わなかった筈。 「水着だ。九重から返されてきた荷物の中に、洗ったばかりのものがあっただろう。あの日、水泳大会でトキが使っていたのと同じ柄のタオルやキャップと一緒に畳まれていたが、内側のタグに記名がしてあったんだ。――〝四ノ宮 郁〟と」  はっきりと、タカの口からその名が出た。唖然とする。カマかけなんかじゃない。 「お前が着ていた水着は、裂かれていたからな……もう一枚、てっきりお前の予備かと思っていたが……身体の上に乗せられていたのが、それだ。あの時、そんなことが出来たのは、犯人だけだ」  その時の悔恨を思い出したのか、タカはギリっと奥歯を噛み締めた。一殺那、栗色の瞳に憎悪の色が滲んでは、すぐに(なり)を潜める。 「驚いた……。学校で話した時は、全然そんなことをするようなタイプには見えなかったからな。お前によく懐いた可愛い後輩としか思わなかった。その時に連絡先を交換していたから、呼び出して当人に確認した」 「……認めたのか? 四ノ宮が?」 「ああ。画像などは全て消させて、二度とプライベートでトキに近付かないと誓約書を書かせた。だから、もう安心していい。――終わったんだ」  終わった? でも、何かがおかしい。何だ、この違和感。  改めて、目の前のタカを見る。今は安心感を与えるような穏やかな笑みを口元に刻み、優しくオレを見つめ返している。真摯で誠実な、栗色の瞳。――だけど。 「タカ……四ノ宮に、何をしたんだ?」  恐る恐る、訊ねた。嫌な汗が首筋を伝う。先程、タカが一瞬だけ見せた、苛烈な憎悪の色が頭から離れない。  返答には、ほんの少しだけ間があった。 「トキが心配するようなことは無い」 「嘘だ! 何も無しで、四ノ宮がそんな簡単に言うことを聞くとは思えない!」  そう、違和感の正体は、それだ。四ノ宮は九重よりも上手( うわて)な捻くれ者だぞ。そんな奴を、どうやって従わせたっていうんだ?  タカは困ったように息を吐いた。 「そりゃ、多少手荒なこともしたが」 「多少、って……暴力を、振るったのか?」 「殴った程度だ。大したことはない」  血の気が引いた。――殴った? 一体、何発? 「っ……!」 「待て、トキ! 何処へ行くつもりだ!?」  衝動的に立ち上がって玄関の方へ向かおうとしたオレを、タカが腕を掴んで止めた。 「四ノ宮の所なら、行かせない」 「離せよ、タカ! アイツ怪我とか、してんじゃ……」 「トキが気にする必要は無い」 「するよ! オレのせいじゃん!」 「トキ!」  強い力で引き寄せられ、抱き締められた。痛いくらいの、抱擁。まるで、オレを腕の中に閉じ込めておこうとするかのような――。 「トキ。頼むから、もう危険なことをしないでくれ」  タカが言う。傷んで震えた、喉から絞り出すような懇願だった。 「もう、誰にもお前を傷付けさせない。お前に害を為す者は、俺が全て排除する」  ――ああ、タカが。 「今度こそ、守ってみせる。――例え、どんな手を使っても」  ――壊れちまった。  昂る声音で語る決意は、鋭く歪んだ狂気を孕んでいた。

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