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第1話

冷たい雨が、身体を濡らしていた。 地面に出来た泥臭い水溜りに顔が浸かっていて、気持ちが悪い。苦味を感じるのは口に入ったのだろうか? 早く起き上がらないと。 だが頭で理解出来ていても身体が鉛の様に重く、そして自分のものではないかの如く動かない。ピクリとも。 薄ら開いた目が捉えたのは、止めどなく降り注ぐ雨とそれを溜め込む水溜り。 このまま、俺は死んでしまうのだろうか?そんな事が、頭を過った。 別に、このまま死んでも良いかもしれない。そう思って瞳を瞑った。 そして、それに合わせる様に、俺の思考回路はそこで途絶えた。 ズキズキと身体中を駆け巡る強い痛みで目が覚めた。靄のかかる視界が煩わしく、頭を振ってそれを拭う。 何か、変だ。そう思いながら吉良 静(きら しずか)は、醒めやらぬ目を凝らして記憶を辿っていた。 そうだ、さっきまでは雨に打たれて、そのまま死ぬと想っていたのに…。 ここが天国と言われても、まぁ、それも不思議ではない。ぼやけた視界が晴れ、飛び込んできたのは天使だった。 染み一つない真っ白の天井には、どこかの画家によって描かれたと思しき天使の絵が一面に描かれいた。その優しい顔をした天使は、ベッドに眠る静を見守る様に見下ろしていた。 「天国の天使は…絵に描かれてる訳ねーよな」 静はゆっくり起き上がり、辺りを見回す。頭がぼんやりするが、思考はだいぶクリアだ。 なので、ここが天国でない事は分かる。というか天国な訳はないだろう。天国にデスクがあるのなら別だが、多分、それはないだろう。 部屋には高級そうなアンテェークの家具や調度品が所々に置かれているだけで、何も飾りっけも生活感の感じられない。 それでも自分の4畳一間のボロアパートが何個入るのか分からないくらいの広い広い部屋で、床は鏡の様に艶やかな大理石が敷き詰められている。 ベッドの近くにある応接セットのソファはとても立派な革張りで、その前の大理石のテーブルには書類が散らばっていた。 ここは一体どこなのか…。とりあえず、病院ではなさそうだ。 「目ぇ覚めたんか?」 突然聞こえた声に、静は身体を強ばらした。低く鋭い、それでいて、優しげな声だった。 その言葉は、静の周りでは聞き慣れないイントネーションで、この土地の者では無い事を証明していた。 「誰だ……」 「誰はあんまりやな。死にかけとったお前を拾ってやったのに」 ベッドの近くにあるドアから出て来たのは、白のシャツに黒のスラックス姿の長身の男だった。その男の顔を見て、静は身震いを覚えた。 猛禽類を彷彿するように鋭い眼光は黒ダイヤの様に美しく、それと同じ様に痛みのない黒髪は男の年代にしては珍しく思えた。 計算された様に整った顔は彫りが深く、雑誌やTVで見るモデルや芸能人に引けを取らず、いや、それ以上のもので、どこか色香を漂わす男だった。 「助けてくれなんて言ってないぜ、俺」 静は素っ気なくそう言うと、男から視線を外した。静のようにコンプレックスを抱えていると、男を直視出来ないのだ。 こうも欠点がない男の姿を見せつけられると、どうしても自分はと比べてしまう。 大きく澄んだ薄茶色の瞳と無駄に長い睫毛。意志の強さがはっきりと分かる瞳ではあるが、その色のせいで柔らかく見える。そして高いが小さな鼻と、肉付きが良いぷるっとした唇。まさに女顔。 それに加えていくら食べても食べても太らない、細身の華奢な身体。 身長こそはあるものの、なかなか女の子にモテないのが目下の悩みの静の前に、歩いているだけで画になる男…。 「へー、顔に似合わず、威勢はええな」 男は、応接セットのソファにどかりと座り、長い足を組んでみせる。どこかのモデルでも、こうは様にならないのではないのか?静は心の中でそう想った。 何だろう、この男には人を威圧する様なオーラがある。それが何なのか、静には分からなかった。 「吉良 静。帝都大学の4年生」 「え…?あ!人の学生証…!勝手に見るなよ!」 自分の事も知らないはずの男にサラリと本名を言われて、静はギクリとした。 そしてなぜ自分の名前を知っているのか不思議に思ったが、その疑問もすぐに消え失せた。男の大きな手には、見覚えのある学生証が握られていたのだ。 男の手に握られた学生証を取り戻そうと、静はキングサイズのベットから飛び降りた。だが、その瞬間、頭が真っ白になるほどの立ちくらみに襲われ、その場に膝をついた。 「動ける訳がないやろ。肺炎で実際死にかけてたんのに」 「…あんた…マジむかつく」 静は頭を抑えながら、その男を睨みつけた。 だが男は気にする素振りも見せずに煙草を銜えて火を点けると、煙を勢い良く吐き出した。紫煙で男の顔が霞んだ。 「あんた、なんて呼ばれるんは初めてやな」 ククッと喉の奥で笑う男に、静は心底バカにされた様な気がした。そんな気はないのだろうが、この男は人を見下した様な感じがする。 感じがするだけで実際は見下されてはいないのかもしれないが、静にはそれがどうも腹立たしかった。 「あんたって呼ばれない?まさか、お坊ちゃん?とても育ちの良い様には見えないね」 静は思いっきり嫌味を言って、ベッドに腰掛けた。グルグル地面が回っている。 さっきは気がつかなかったが、どうも熱がある様な、身体が熱くて喉も痛い。肺炎と言われたが確かにそうかもしれない。 ズキッと小さな痛みが腕に走り、そちらに目を落とすと小さな絆創膏が貼られていた。点滴をされた痕の様だった。 「俺は鬼塚」 点滴の痕を眺める静に、男は静かに囁いた。 やはり、この男の声は心地がいい。が、それはそれだ。 「俺は鬼塚。何それ、すげー偉そう。名字は鬼で名前は塚か??人に名前を言うときは、フルネームで答えろ」 そう言い放つ静に、鬼塚はクスクス笑った。 目を細めて笑うと、さっきまでの重々しさはどこかに消える様な感じだ。笑うと幼く見えるのも、また意外だった。 その笑顔で全身から出る威圧的なオーラも和らぐ様な感じがして、どこか構えている静の心を撫でる様な錯覚に陥る。 「鬼塚 心や。心と書いて”しん”や」 「似合わねーの」 静はゆっくりベットから立ち上がり、心の真向かいのソファに座り、悪態を吐いた。 それにしても、ここは本当にどこなのか。心の家であるとしたら、本当に坊ちゃんかもしれない。 部屋の高級さもさることながら、男の着ている服も安物ではなさそうだ。何だか妙なことになったなと、静は辺りをキョロキョロ見渡した。 「落ち着かんか?」 「無駄に広い…これあんたの?」 静は自分に着せられたスウェットを指差して、心に聞いた。 「俺にそのサイズは入らへん。買いに行かせた」 「買いにって…」 誰が?そう聞こうとした静の言葉を遮る様に、ドアのベルが部屋に響いた。 「入れ」 テーブルに置いてある黒い箱は、どうやら訪問者が映し出されるTV付きインターフォンの様だ。その箱にそう告げると、入り口のドアの開く音がした。 すると、心がまた重々しい威圧する様なオーラを身体から吐き出した様な、そんな感じがした。 次は一体、誰だ?と、少し重い瞼を何度か瞬きで動かし眼を凝らすと、また男が現れた。 またその男は心とはタイプは違うものの、目を見張るような端正な目鼻立ちをした男だった。 ダブルの黒のスーツに、きっちり整えられたアプリコットカラーの髪。切れ長で鋭さはあるものの、柔らかな眼差しにどこか安堵してしまう。 高い美鼻が少し神経質そうに見えるが、弧を描く唇は薄く整った形をしていた。 そして心と同じ様に長身で、細身ではあるがスーツの上からでも鍛えられたしっかりした身体付き。そんな二人が並ぶと圧倒されてしまう。 「ああ、起きましたか。大丈夫でしたか?」 薄い唇が紡ぎ出す言葉は丁寧で、その音色もまた柔らかった。だが静は、その冷たさのある整えられた顔つきが、どこか取っ付き難さを覚えて怪訝そうに頭を下げた。 「何や、相馬。今日はもう何もないやろう」 「ええ、帰るので挨拶を」 「挨拶?まさか、この男に?」 相馬と呼ばれた男が言う挨拶というのが可笑しくて、静は思わず声を上げてしまった。 挨拶しないと帰ってはいけないのか?今時古めかしい会社じゃあるまいし。大体、こんな男に何を挨拶なんかすることがあるんだ。 一人で納得いかない様な顔をして、マジでオマエ何者?なんて言う静。その様子を見た心は、喉を鳴らして笑った。 相馬はそんな二人を呆気に取られた様に見ていたが、やがて溜め息をついて肩を落とした。 「あなた、まだ何もお話していないんですか?」 「ああ、聞かれてへんから、言わんでもええやろうと思って」 何もとは何だ。自分に何を話していないことがあるんだと、静は二人の会話に蛾眉を顰めた。 「何、何だよ、言えよ」 静が言うと、心はフッと口角をあげて笑うだけで、それに静はムッとして目の前の大理石で出来た立派なテーブルを軽く蹴る。 だが、さすが頑丈そうなそのテーブルはビクリともせずに、反動が弱り切った静に跳ね返って来た。それに益々腹が立って、そのテーブルを再度蹴り上げた。 「足癖も良いなぁ」 心はまた、可笑しいのかクスクス笑う。その心の顔を、相馬が驚いた顔をして見ていた。 心に笑われて静はまたそれが腹立たしく、怒りを隠さぬままジロリと睨みつけてみるものの、心の刺す様な瞳の前では猫とライオン。まるで迫力に欠けるものだった。 「あなたも遊ぶのはお止めなさい。失礼、もうお話しているとばかり思いまして。彼は、仁流会鬼塚組の六代目組長ですよ、えっと…?」 「吉良 静や。自己紹介はフルネームでせんと、怒られるからな」 心は、ガラスの灰皿に煙草を押し付けて、長い足を組み替えた。そんな心の前で、静は相馬が言った言葉に固まっていた。 まるで金槌でフルスイングで殴られたぐらいの衝撃で、目の前が真っ白になった。相馬が何を言っているのか理解するまで時間がかかり、静は声にせず”え…?”と言った。 仁流会鬼塚組。関東を牛耳る極道の大本で、一般人でもその名前は耳にした事がある組だ。だが極道といっても仁流会は昔気質の極道で、最近ではインテリヤクザとか経済ヤクザなんて呼ばれる部類に入る極道。 鬼塚組はもとより、仁流会は日本の極道の頂点に君臨し、政治家にも息がかかっているという莫大な組織だった。 その仁流会会長風間組組長 風間龍一は、それこそ日本の全ての極道を震撼させる戦争を起こした人物だ。元々、仁流会は風間組が首領を務めていた訳ではない。その戦争で首領だった佐渡組を叩き潰し、ものの見事に天下を勝ち取ったのだ。 西の風間、東の鬼塚は共に兄弟の盃を交わしていて、極道を言わば牛耳っているといっても過言ではない。それはあまりにも有名な話で、静も知らない話ではなかった。 その東の元締めの鬼塚組の組長が、目の前に居るこの若い男?この男が仁流会会長補佐を務める、あの鬼塚組組長? それよりも静は怒りに身体が震えた。息が荒くなり、心臓が早鐘を打つ。全身の血液が逆流しそうなほどの怒りに、静は唇を噛んだ。 まさかそんな人間に命を救われるなんて…! 「おい、どないした」 「俺は…俺は、あんたらみたいな外道に助けてもらう筋合いはない!!外道が、人助けなんて笑わせるな!!」 静はいきなりそう叫ぶと立ち上がり、まだはっきりしない足取りで自分の服などを掴むと部屋を飛び出した。 その後ろ姿を追う心と相馬。相馬は呆れた様に心を見た。だが心も、何なんだ急にと言わんばかりの顔をしていた。 「何かされたんですか?」 「いや、まだ何も。でも、何かありそうやな」 心は再び煙草に火を点けた。それを見て、相馬は小さくため息をつく。 言わずとも解れ。それが心の道義。 心の右腕として長く支える相馬はそれを汲取り、静の飛び出したドアに目を向けた。 雨の中、裏道に倒れ込んでいる静を助ける様に命令したのは、心だった。いつもなら誰が死のうが、それこそ目の前で殺され様が眉一つ動かさない心。そんな心が地面に転がる静を抱え上げたのだ。 周りは驚き戦いたし、相馬もさすがに驚いた。だが心は非常に気紛れな男だ。もしかしたらいつもの気まぐれかもしれないと、それに従うことにしたのだ。 しかし今回は、いつもの気まぐれとはまた違う様に思えた。心がこのプライベートルームに相馬以外の人間、それも素性の知れない人間を入れたからだ。 ゼイゼイと苦しそうに息をする泥と雨で汚れきった静を、病院ではなく部屋まで運び、服を着替えさせたのも身体を拭いてやったのも心。 他人の事はおろか、自分のことでさえも何をするにも億劫だという心がだ。 その予想の遥か斜め上をいく行動に、さすがの相馬もポーカーフェイスではいられなかったくらいだ。 誰も、静に触れる事は許さない。まさにそんな感じ。それも、柔らかな身体を持つ女性とは違う、あの一人の青年に。 静の人生は、心によって大きく変わるかもしれないと思いつつも、それを不憫だとは思わなかった。 相馬にしてみれば心さえ良ければそれでいいのだ。心がそう望むのであれば、相馬はそれに合わせて問題が滞りなく進む様に行動するだけ。 一人の青年の人生がどうなろうがそれは関係がないことであり、そういう運命だと受け入れてもらうだけの事。 相馬が心の望む通りにしてやりたいと思うほどに、この男にはそんなカリスマ性があり、組の人間も若輩者の心に一目置いていた。いや、崇拝してると言っても強ち間違いではないだろう。 心のためなら死ねるという人間は五万と居る。心を護るためだけに全てを捨てて、組に入った者も居る。 鬼塚心という男は、そういう孤高の存在でもあるのだ。 「はいはい、では調べますよ」 相馬はフッと笑って、気紛れな主のために動くことにした。ふと見ると、テーブルには静の忘れて行った学生証がある。これはちょうどいいなと、相馬はそれを手にした。

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