2 / 55

第2話

「吉良!!!!」 自分を呼ぶ声に静はゆっくり振り返った。そして大学のキャンパスを慌ただしく走ってくる男に、静は手を挙げた。 「暁!」 「吉良、この間は大丈夫だったか!?」 どこかで静が居ると聞いて、すっ飛んで来たのだろう。ちょっと待ってと荒い呼吸を整えながら、肩で大きく息をする暁を見て静はどこかホッとした。 彼、桜庭 暁(さくらば あきら)は静の小学校からの幼馴染みで、大学までずっとオンブに抱っこ状態で進んで来た。 その容姿にそぐわない性格のキツさと口調から、あまり友達の出来ないかった静の唯一無二の親友だ。 暁は静とは正反対で優しそうと第一印象で言われるほどに、その表情は柔らかい。現に長年付き合って来ている静でさえ、暁が声を荒らげるのを聞いた事も見た事もないくらいに性格も見た目通り温厚だ。 自分は文系人間だからと言う通り、暁は色白でスポーツとは無縁に見える。だが、長い手足と高い身長は人目を惹き、眼鏡の奥の瞳は長い睫毛がくっきりと彫り込まれた二重を縁取り、とても魅力的だ。 そんな整った顔立ちなのに、それを鼻にもかけず、それどころか女性に奥手な質の暁を静はとても気に入っていた。 「ようやく逢えた。吉良、この間大丈夫だった?」 この間とは雨の中、倒れる事になった、あの事だ。 そもそもああなった責任は静自身にあった。久々に暁と遊ぶ時間が持てたのだが、運の悪い事に柄の悪い連中に絡まれてしまったのだ。 負けん気の強い静は人数と見た目でものを言わす連中に怯む事なく挑んでいったのだが、暁はそんな事にてんで無縁。人なんて産まれてこのかた殴った事なんてありませんというタイプ。 このままではやられてしまうと踏んだ静は、暁を逃がし、そのまま自分も逃げる事にしたのだ。 逃げ回っている間に雨脚は強くなり、何日か前から体調の悪かった静は途中で倒れてしまったということ。そこを、心に助けられた。 本来ならば菓子折りでも包み、先日はありがとうございましたとでも御礼を言いに行くべきなのに、鬼塚組の組長と聞いた静は助けられておきながら、外道と暴言を吐いて部屋を飛び出した。 さすがにあれはないなと思ったが、やはり罰が当たったのか、あの後に一週間も寝込む羽目になった。 「俺は大丈夫…暁は大丈夫だったか?」 「うん、吉良と離れたから、かなり焦ったよ」 フッと笑うその顔に癒される。暁は静がそうであるように、静のことをいつも気に留めてくれる。 そんな暁に静は全幅の信頼を寄せていた。だが鬼塚組と関わった事は知られない様にしないといけないし、心配掛けない様にしなければと静は息を吐いた。 「今日もバイト?」 「ああ、いや、この一週間も行けなくて、クビになった。本当に参ったぜ。早くどこか捜さないと…」 「そうなのか?俺もどこかあてを捜してみるよ。とりあえずさ、腹減らない?驕るよ」 「え?ああ、いいのか?」 「いいのいいの、臨時収入入ったからさ。静もバイトなくなって、キツいだろ?」 「あー、ぶっちゃけそう」 忘れていたわけではないが、そうだ。とりあえず何よりも先に収入源を得なければいけない。 熱を出してうんうん唸っている時は、それどころではなかったが、いざ元気になってバイトをクビになるという恐れていたことが現実になると足元が揺らぐ。 これからどうしようというよりも、早く何とかしなければという焦りが出てくるのだ。 静は4つのバイトを掛け持ちしていた。そのバイトのせいで学生の本分もままならない状態ではあったものの、静にはそうしなければいけない理由があるのだ。 「うわー、見て、吉良。CL600だ」 興奮する暁に言われて正門に目を向けると、フルスモークの黒の車が停まっていた。その艶のある磨き上げられたボディに、行き交う学生の姿が鏡のように映し出される。 車好きの暁は一人、すげーすげーと連呼していた。もちろん車に疎い静でも、それがとても高い高級外車だというのが、フロントバンパーに居座る見覚えのあるエンブレムで分かった。 「誰待ちだろう?良い彼氏見つけたもんだ。で、どこで食べる?駅前行く?」 暁がそう言いながら静とその車の横を抜けようとした瞬間、車のドアが開いた。さすがに、どういう人が乗っているのだろうと好奇心が勝り、ふと視線を移してギクリとした。 思わず息を飲み、車から颯爽と降りてきた男を凝視する。どうしてと言葉が出かけて、それを飲み込み、睨みつけるように男を見た。 「ようやく捕まった。あなた、住所を転々としているので自宅も分からなくて困りました。大学に行けば逢えると想いましたけど、まさか初日に逢えるとは。私は運が良い」 相馬は静に近ずくと、柔らか音色で静にそう言った。 にこやかで柔らかな表情、お手本であるかのようなスーツの着こなし、品のある佇まい。 何もかも完璧な相馬は、本当に極道なのか疑いたくもなるほどだった。もしかして謀られてるのではないかと思うほど。 別に静の感覚がおかしいわけではないだろう。それを証拠に、周りの女の子たちは花のように顔を赤く染め相馬を見ている。そんな中でただ一人、静だけが相馬を睨みつけていた。 「ちょっと…吉良?」 暁が驚いた様に、静の腰をつつく。 友達といえば暁以外皆無と言ってもいい、そんな静がこんな明らかに知り合う機会も無い様な男と接点を持ったとすれば、その時点で必ず暁に言うだろう。 しかし一度足りとてそんな話聞いた事が無い。だが間違いなく男は静に話しかけているし、静も男を知っている風だ。 一体この男は誰だ?暁は静と目の前の長身の男を交互に見た。 「何しに来た」 その暁に答えずに、静は長身の相馬を睨みつける。相馬はその静の睨みも気にもせずに助手席のドアを開けた。 「学生証をお返ししようと思いまして。ここで立ち話もなんですし」 確かに先ほどから何事かと、学生が好奇の視線を向けてくる。その上、派手な車と派手な男の登場で何事かと足を止める者も現れた。 このまま注目の的になるのは得策ではないと、静は溜め息をついて助手席側に回り込んだ。 「お友達は?」 相馬が暁に目を向けた。それに静は慌てて相馬の腕を掴んだ。 「いい!俺だけだ!暁…また電話するから」 「でも…吉良…」 暁が心配そうに静の顔を見つめる。それでも静は大丈夫と微笑んでみせた。 こんな事に暁を巻き込みたくない。相手は普通の人間ではないのだ。闇の世界の人間だ。 しかもそんじょそこらのチンピラとは格が違うのだ。 「では、失礼しますね」 相馬は笑顔で丁寧に暁に頭を下げて、運転席に乗り込んだ。 静は相馬が乗り込んだのを見て、渋々、車に乗り込んだ。飲まれるようなシートに身体を預けて、シートベルトを締める。相馬はそれを確認して、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。 サイドミラーには心配そうに車を見送る暁が映り、段々小さくなっていく。きっと心配性な暁のことだ。大丈夫と言われても、あれこれ考えているだろう。 だが静は暁が巻き込まれなくて良かったと、心の底から安堵した。 「体調はいかがですか?この間は点滴をした後だったので、身体も幾分か楽だったとは思いますが」 「…ああ、あれくらい」 相馬に顔も向けずに、つっけんどんに言う。だが、あれくらい何ともないと鼻で笑って言いたくても、正直なところ地獄の苦しみだった。 頭が割れる様に痛くて咳も止まらず、これは本格的にヤバイと泣く泣く病院に行く羽目になったほど。金銭的な余裕も皆無だった静からすると、痛い出費。 助けてもらった恩を仇で返した罰かと、その行いを布団の中で後悔したものだ。 「彼は親しいのですか?」 「関係ないだろう」 「そうですね…。吉良と呼ばれていたので、そんなに親しくないのかと思いまして。でも、あなたは彼を名前で呼んでいるので、親しくないわけないですね」 相馬は一人で、おかしなことを言いましたと笑った。 ふと仏頂面の自分の顔がサイドミラーに映り、静は息を吐いた。 相馬は静がどんなに失礼な物言いをしても、怒りもせずにコミュニケーションを取ろうと静に話し掛けてくる。そんな相馬の気遣いに、静は少し恥ずかしくなった。 例え極道だとしても自分よりも年上の人間に、この口の聞き方は失礼ではないだろうか。 それに、何をされた訳でもなく、どちらかと言うと礼を言わなければならないような事をしてもらっているのに、こんな不躾な態度を取るのはどうだろうか。 普通に考えて常識がないのはどちらだろう?天秤にかけてみれば、結果を見なくても明らかだった。 静はゆっくりと深呼吸して、肩の力を抜いた。 「…静なんて女の名前だろ。顔も名前も女みたいで、嫌いなんだよ。暁はそれを知ってるから吉良って呼ぶの」 敬語ではないものの、自分の質問に答えた静を見て相馬はニコリと微笑んだ。まるで、駄々をこねた子供に口を聞いてもらった母親の様だ。 「そうですか。でも、静って良い名前じゃないですか。何事にも動じずに物音もなく、静かで穏やかな…そんな願いがあるんじゃなですか?」 相馬がそう言って、静に問いかける。 初めは冷たさがあり神経質そうな男だと思ったが、こうして話してみると柔からい物腰の紳士だと分かる。 人を気遣い、相手を思いながら物を言う。気品の溢れた男だった。 「そんないいもんじゃねーし。相馬さんだっけ」 「覚えててくださって光栄です。相馬 北斗です」 何でフルネームと思ったが、自己紹介はフルネームで。そう言ったのは静だった。 律儀にフルネームを名乗ってもらったものの、それは心に対して嫌味のつもりで言ったものなのになと思わず笑ってしまった。 「北斗って顔じゃない」 「そうですね、名前負けですかね」 静という名が、何事にも動じず静かで穏やかなという願いがある名前ならば、北斗とつけたこの男の親はどういった理由でそれと名付けたのだろう。 間違えても、ヤクザになって欲しいなんて思わなかったのではないだろうか? そんな静の思いを知ってか知らずか、相馬はクスリと笑った。 それからほどなくして、車のスピードが緩まった。ふと前を見るとビルが見えた。 思った通り、車はゆっくりとビルの地下に潜り込んだ。シャッターの前で車が停まると、何処からとも無く何人かのスーツ姿の男達が出て来て、深々と頭を下げている。それに何の反応も示さない相馬を静は盗み見た。 この男はやはり相当高い立場に居るのだろうか。そう考えた途端に言い知れぬ不安が静を襲い、思わず息を呑んだ。 音もなくゆっくりと開いたそこに、車は流れる様に入り込む。ここまで来たらさすがにもう逃げれないと周りを見ると、次々とそれらしき人相の人間が現れ整列する。 そして明るい駐車場の、ある一定の場所で車を停めると相馬は着きましたよと車を降りてしまった。自分もここで降りるのかと迷っていると、壁際に居た男がドアを開けて頭を下げる。 何て事してくれるんだと、静は目眩を覚えた。 「どうぞ」 低いドスの利いた声が静に掛けられ、静は困惑しながらゆっくりと車を降りた。相馬はそのまま駐車場から屋内に入り込めるドアを開けて、静に微笑みかける。 静はゴクリと喉を鳴らした。 何事も物々しい…。そんな感じに、静は少し息苦しさを感じた。 大理石が敷き詰められたホールに、相馬の革靴が高い音を鳴らす。この間は夢中で飛び出したから何も気にしなかったが、見上げれば首が痛くなる程高い位置に、これでもかと輝きと存在感を醸し出した豪華なシャンデリアがぶら下がっている。 そもそもここはこの間の場所なのだろうか?一体ここはどういうビルなのだろう? 車で一気に駐車場に入り込んでしまったので、外見が正確には解らない。ハンドルを握っていた訳でもないので、ここの正確な位置も把握していない。 この間は怒りと熱で朦朧としていて、今思うとよく帰れたなというレベルの記憶しか残っておらず、ここが先日の場所かどうかというのははっきりしない状態だった。 警戒する静を横目に相馬はエレベーターに乗り込み、そこに招き入れた。地獄へようこそと言うべきか否か。 「ここ、この間のとこ?」 「ええ、そうですよ」 相馬は覚えてませんか?と言いながら、最上階のボタンを押した。 段々、息苦しさが酷くなる。きっと、あの男に逢うからだ…。 静は無意識に、襟元をギュッと握りしめた。 静達を乗せた箱は、音もなく目的地まで連れて行く。エレベーターは目的の階に停まると、チンッと無機質な音を鳴らした。 ドアが開くと相馬が静に降りる様に促した。静はそれに渋々従い、ゆっくりと足を踏み出した。 一階のロビーとは違い、その階の床は足を飲み込むのではないだろうかと思う様な、フワフワの絨毯が敷き詰められている。足音まで飲み込まれ、歩いている感覚が薄らいだ。 エレベーターを降りて3メートルくらいの所に、どこから持って来たのか不思議なくらい大きな西洋風のドアが静達を出迎えた。相馬はそのドアの横に備え付けられたベルを鳴らして、返事を待たずに重そうなドアを開けた。 「どうぞ、静さん」 そう言われて静は覚悟を決めて、部屋に入った。 やはり生活感の感じられない部屋を奥に進み、静は息を飲んだ。黒の革張りのソファーの背凭れに両手を広げ、長い足を組んで座る心。長い前髪から覗く、鋭い眼光が静を捕らえて離さなかった。 この間よりはラフな格好で、ジーンズに黒のVネックのセーター。その胸許からは、強靭な胸板が顔を覗かしていた。 「よう、久々やな」 心は静を見ると、口元でフッと笑った。相変わらず人を圧倒する存在感だ。 だがそれに負けまいと静は深い息を吐いて、手を出した。 「学生証、返せ」 「まぁ、座れ」 「いやだ」 座ってしまうと、もう動けない様な気がする。 この間はまだ熱があって朦朧としていたが、今ははっきり覚醒されている静の脳は、心の放つオーラーを危険だという警告信号をチカチカ点滅させていた。 これ以上、関わるなー逃げろと。 「掛けてください。取って食べやしませんよ」 頑に動こうとしない静の肩を相馬が軽く叩き、静はポンと前に出された。 これではビビってる様だと静は肝を据えて、心の向かいに腰掛けた。 「もうええぞ、相馬」 心は相馬を手で追い払う様にして言うと、相馬は肩を竦めた。 「無茶はしない様にしてくださいね」 心に言われて相馬は少し考えた様だったが、溜息と共にそう言ってその場から離れた。 静の後ろで、パタンとドアの閉まる音がする。この広い密室の中でこの男と二人きり。 静は手の平にじんわり汗が滲んだのが分かった。

ともだちにシェアしよう!