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第3話

相馬が出て行ってから暫しの間、沈黙が流れた。自分の鼓動だけが、いやに耳につく。 情けない事に目の前に座る心の顔を、目を、全く見れない。あの人を射る様な瞳と目を合わせたら、蛇に睨まれたカエルの様に静は動けなくなる。 そんな感じがした。 「今日は静かやないか、この間の威勢はどないした」 心は煙草を銜え、火を点けた。紫煙が広がり、煙草独特の香りが漂う。静は心が大理石のテーブルに投げた赤のマールボロの箱を、ただ眺めた。 「学生証」 「お前、まるでオウムやな。学生証、学生証って」 「俺はそれを取りにきただけだ!あんたとお話しにきたんじゃねぇ!!」 カッとなって声を荒らげると、心が笑った。 「そうそう、それそれ。そうやないとな」 さっきまでの威圧感のオーラはなくなり、少し穏やかな顔を見せたが心を見ようともしない静はそれに気が付かない。静はクソッと悪態をついて、拳を握った。 「何が狙いだ。この間の治療費とか言って、莫大な金でも要求するのか」 「随分やな。お前みたいなガキから取らんでも、金はある」 心は呆れた様に言って、バカラの灰皿に煙草を押し付けた。見事な細工がされてある灰皿だが、その輝きに不似合いな焼け焦げた吸い殻が溢れ返っていて、その価値も台無しだ。 ずっと片付けてないのか、それともヘビースモーカーなのか。多分、両方だなと何となく思った。 「もういい。俺も暇じゃねぇし。学生証、好きにしろよ。いらねーよ」 学生証なんて、紛失したと言って再発行してもらえばいいのだ。ここで不毛な言い合いをしても、どうしようもない。 静がそう言って立ち上がろうとした時、心が静の瞳を捕らえた。ひゅっと喉が鳴った。 まるで獣、それも百獣の王のそれだ。 静は想いの通り、立ち上がる事さえ出来なくなった。恐怖なのか何なのか、動くなと言われた訳でもないのに身体がピクリとも動かない。 心の瞳が、それを許そうとしないのだ。 「お前、暇やろ。バイトはクビ。コンビニとファミレスと、それと居酒屋。で、土日は引っ越し業者…そうやろ」 「な…、お前っ!!調べたのか!!」 静が驚愕の眼差しで心を見つめた。 いくらなんでも学生証にそんな事まで記載されてはいない。では、調べたのか。 鬼塚組の力を持ってすれば大学生一人の個人情報、調べるのは容易いことだろう。 しかし何故そこまで調べられなければならないのか。言い様の無い不安が静を襲った。 「母親が入院してるんやって?妹もまだ高校生。父親はなし。その生活費と入院費の為に働いて、自分は奨学金で大学に通って。いや、バイトはそのためやないよな。それよりも重要なこと…やろ?」 心が言う言葉に、静は唇を噛み締めた。 沸々と腹の底から怒りのマグマが沸き上がる。その爆発しそうな熱を、怒りを、静はそのまま心に向けた。 「てめぇ…。母さんと妹に何かしたら、殺してやる…」 「ハッ、俺がそんなしょうもないことするとでも?」 心は鼻で笑って、ええ迷惑やとソファに仰け反り長い両腕を広げた。その心の態度に、静は大理石のテーブルにあるガラスの灰皿を手に取り、心に投げつけた。 だが心はそれに眉一つ動かさず、それどころか少し首を傾げるくらいの動きで交わしたのだ。それはまるでスローモーションを見ている様だった。 そして灰皿は心の後ろの白い壁に激しくブチ当たり、煙草の吸い殻を撒き散らしながら砕け散った。 「拳銃も、銃口の向きを見れば避けれる。お前が投げた位じゃあ俺には当たらん」 フッと不敵に微笑を浮かべながら、心は人差し指を銃口に見立てて静に向けた。 「この…やろぅ…」 飛びかかりたい気持ちを抑えて、唇を噛み締めるとそのまま俯いた。 この男には勝てない。器が違いすぎる…。たった一瞬で解ってしまった心の底知れぬ力。 それを、まざまざと見せつけられた感じがした。 そこで初めて、こんな所にのこのこ来てしまった自分の浅はかな行動に後悔をしたが、でも負けたくないと拳を握る。 その時、急に心は長い指で静の細い首を締め上げると、テーブルを簡単に跨いで静をソファに押し倒した。 そのあまりの素早さに静は声を上げる事も、ましてや避ける事さえ出来ず、ただその鋼の様に硬い腕を掴む事しか出来ずにいた。 「唇噛むな。傷んなる」 息がかかる程に近くに心の顔があり、静は息を呑んだ。間近で見た心の瞳はやはり美しく、濁りも陰りもない力強いものだった。 極道の瞳が綺麗だというのも滑稽な様な気がしたが、それでも吸い込まれる様な瞳から静は目を逸らせなかった。 「…俺に、触るな…」 ソファに押し倒されて、静よりは大分と大きい心の身体に動きを封じられて、静は正直、困惑していた。 嫌悪感、恐怖、それとは違う何かが、心の奥底で渦を巻いてる様だったからだ。 「ヤクザを恨んでるか」 「…何?」 心の解いかけの意図が分からず、静は蛾眉を顰めた。一体、何を言っているのか、さっぱり解らなかった。 恨んでいると言えばそれは正解だが、なぜ心がそんな事を言うのか皆目見当もつかなかった。まるで何もかも知っているかの様な、その口ぶりに顔が引き攣る。 「お前のオヤジを自殺に追いやった、ヤクザを恨んでるか?」 「おま…どこまで調べた」 ”まさか”と思ったが、そうとしか考えられない。まだ逢って二回目なのに、心の何もかも知ってるぞと言わんばかりの顔。静の中で爆発しそうな怒りが、一気に湧き出て来た。 何もかも知っているのに、それを静の口から言わそうと言うのか? 「どけ、外道」 そう言って下から睨みつける静に、心がゆっくり唇を重ねた。 一瞬、静は何が起こっているのか理解出来なかった。だが動きを封じられた手を何とか動かし、抵抗を見せた。 それでも心は微動だにせず、静の首を掴んでいた手を顎に移動させ、無理矢理口をこじ開けると熱い舌を侵入させた。 「…っ!!ん…————!!」 心の想像もしてなかった行動に、静は小さく声を上げた。 それでも心は止める事無く、縦横無尽に静の口内を堪能する。居場所を無くした静の舌を見つけると自分の舌を絡ませ、ゆっくり吸い付く。 歯列を舐め上げ、上顎を味わう様に舐め回され、どちらとも無い唾液が静の口の端を伝う。 その感覚に静は身体の芯から痺れる様な気がした。身体中の力が抜けて、心を押し退けようともがいていた静の手も、もう抵抗を見せない。 元々、色恋沙汰に無縁だった静はキスは勿論の事、ディープキスなんて経験がなかった。そんな静にとって、心の与える深い口づけは身体の力を奪うのに十分だった。 クッチュッと卑猥な音を立てて唇が離されたとき、静は乱れた呼吸を整えるのに必死だった。潤んだ瞳に加え、仄かに赤くなった目尻。上がった息を整えようと必死の静に、心は息を飲んだ。 今まで、こんなにも激しく自分の劣情を煽り立てる者が居ただろうか?初めて味わう欲望を駆られる相手が同じ男だという事が可笑しくて、いや、自分らしいと思った。 心は力の抜けた静の身体を抱きしめると、細く白い首に顔を埋めた。 それに静がピクリと震え、やめろ…と訴えるが、そんな事に耳を貸す事無く強く吸い付く。 「…いた…」 小さな痛みに、静は顔を顰めた。心が顔を離すと、白い首筋に赤い花びらの様な刻印が赤く色づいてた。 心は笑みを零すと、それを指で撫で、いきなり静の身体を軽々と抱き上げた。 「え!?ちょ…!!」 ガクッと持ち上げられたことに驚いて、思わず心にしがみつく。心が向かったのはソファセットの近くにある、キングサイズのベッドだった。 心は羽のように軽い静を、キングサイズのベッドに乱暴に放り投げた。柔らかいスプリングのベットと上等な羽毛は衝撃を吸収し、優しく静を飲み込んだ。 「何すんだよ!」 静は慌ててベットから逃れようとしたが、その身体を心は容易くベットに押し倒す。 「心配すんな、乱暴はせん」 心の行動に混乱する静にそう言って、優しい瞳を向けた。その柔らかい瞳に静は少しだけ緊張の糸が解れたが、それでも相手は極道。自分が忌み嫌う極道なのだ。 大人しくなった静に心は軽くキスをして突然、静のズボンに手をかけた。 「は!?ちょ!!あんた!やめ!!何する…!」 抗議しようとした唇は、易々と心の唇に塞がれて何も言えなくなる。そのまま深い口づけをされて、静は身体の芯が震えた。 静にとって心の溶ける様な口づけは刺激が強すぎて、身体の力が一気に抜けてしまう。 あれだけ恨んでいた極道に、今、組敷かれている。その現実も、この口づけ一つで何もかも分からなくなってしまうのだ。 朦朧とする意識の中で、手際よくジーンズが脱がされている事に気が付いた。それに静は驚き、頭を振り、自分の唇を離そうとしない心の背中を叩いた。 それでも心はビクリともせずに、露になった静自身に手を添える。 執拗な口づけで自分の意識とは裏腹に静自身も興奮して勃ちあがり、先端から与えられた事のない快感に堪える様に、涙の様な雫をポタポタ零している。 それを扱くように握られ、静のキツく閉じられた瞳から涙が溢れた。 こんな事は、されたくない。 自分は男で、相手も男で、そして自分が忌み嫌う極道だ。その男に扱かれ、身体中が快感に震え肌が粟立つ。 自分の手でしか触ったことのないそれは心の冷たく大きな手に絶妙なテクで扱かれ、パンパンに腫れ上がり、今にも欲望を吐き出そうとブルブル震え出した。 「…ああ!やだ!!!」 心の唇から逃れ、静が大きく声を震わす。それでもその動きを止めずに、心は静を攻めたてる。 同じ男の、それもグチョグチョに濡れたペニスを扱くのに、何も嫌悪感はないのだろうか? そんな事を気にする事もないかのように、心の手は躊躇いもなく的確に、静の弱い部分を攻撃して来る。 他人と肌を合わせた事のない静は、たちまち昇り詰め、限界を訴える様に内股が痙攣した。それに抗う様に頭を振りながら、静はボロっと涙を流した。 「いやだ!!ダメッ!!あっ…イクッ…イ…イクッ!イクッ!!やだ!!」 その声を聞いて、心は静の唇に噛み付く様なキスをした。 静は真っ白な快感の海に投げ出される様に身体を仰け反らして、心の手によって欲望を吐き出した。 「…はぁ…はぁ…あ、…変、態…」 脳がジンジンとした感覚のまま、静は心を睨みつけた。そんな静を満足そうな顔で見下ろし、また、快感で閉じる事のない唇に口づける。 だが唇が合わさった瞬間、静は心の唇に噛み付いた。口内に鉄臭さが広がる。 静の唇は心の血で紅を塗った様に赤く彩られていた。心は自分の切れた唇から滴る血を舌で舐めとると、ククッと喉を鳴らして笑った。 どこか楽しんでいる。そんな風な…。 「ええな。お前は。ほんまに気に入った。そうやな、月に二百万やる。お前は俺のもんになれ」 心にそう言われて、静は心の頬を打った。心はそれに顔を歪めることなく口元でニヤリと笑うと、余裕の伺える瞳で静を見た。 「威勢の良いのは好きや」 「俺は…娼婦なんかじゃない!」 上がる呼吸のなか、静は残った力を振り絞る様に心に叫んだ。 月、二百万。ようは身体を、静自身を金で買うという事だ。これを娼婦と言わずして何というのか。 ましてや自分は男であって、豊満な胸も女の様な柔らかさも無い。心の言葉は静にとって、屈辱を味わせるだけの十分なものだった。 「借金の保証人になったお前のオヤジさんは、ヤクザの取り立てで会社も家も奪われ、落胆して命絶った。その借金がまだあるらしいやないか。お前の母親は身体を壊して入院中で、親戚の家に身を寄せてる妹はまだガキ。そのうち、お前の妹が捕まってソープにでも沈められるぞ…」 そう言う心の言葉に、静は目を背けた。 確かに親友の保証人になった父親はその親友に裏切られ、莫大な金利の借金を背負う羽目になった。 その額は三千万。叩き付けられた借用証に、父親は”まさか…”と声を漏らした。 普通の会社に借りた金ではない。それは借用証を叩き付けた男達の身形から一目瞭然だった。 パステルカラーのスーツに身を纏い、厭らしい笑いで自分達を見下したあの顔を、静は片時も忘れた事は無い。 まるで印籠でも見せつけた様に組の名前を名乗り、恨むのなら逃げた奴を恨めと言った外道と呼ぶに相応しい相手。地獄の始まりだった。 その日から毎日毎日、執拗に続く取り立てと嫌がらせが始まった。玄関には”泥棒””金返せ”等、誹謗中傷の張り紙が貼られ、昼夜問わず、ひっきりなしに電話が鳴った。 鬼の様な取り立てに、中学生だった静は真っ暗にした部屋の押し入れで震える小さな妹を抱き締め毎日を過ごした。 祖父の代から守ってきた会社も取られ、マイホームも取られ、それでもまだ足りないとヤクザ達は父親を蹴り上げた。 そんな日々が続いたある日、父親が海に身を投げた。静が高校生の頃だ。 ”すまない”の一言を書いた紙を残し、冷たく変わり果てた父親の姿を見ても、静は涙一つ流さなかった。涙なんて流している余裕はなかった。 これから、母親と妹を守っていかなければいけないのは自分ただ一人だと、覚悟を決めた瞬間だったからだ。 幸い母親が何とか掛けて来た父親の生命保険が下り、それで元金は返せたものの、違法金利で膨れ上がった借金はまだ1000万も残っていた。無論、母親の朝晩のパートでは、そんな借金が減る訳でもなかった。 それどころか金利は容赦なく返済額を肥やしていく一方だった。返しても返しても減らない借金は、まるで悪魔のそれだった。 母親一人で何とかなる訳がないと、静もバイトを増やして家に全額金を入れた。だがそれは金利にすらならなかった。 やがて過労も溜まり、元々身体の弱かった母親が倒れた。静はそれを転機と判断し、母親を入院させ、予てより申し出のあった親戚宅へ妹を預けた。 そして、家財道具も何もかも手放して身軽になった静は、父親の願いでもあった大学に奨学金を受け入学した。 本来ならばどこかに就職して借金返済に務めるべきなのだろうが、父親の命を奪われたまででなく、父親の夢であった自分の大学進学の道まで断つ事はどうしても嫌だったのだ。 大学生になったからといって督促が止む事は無く、極道は何処までも静を追いかけて来た。 母親と、親戚の家に身を寄せている妹の元へ督促が行かない様に、静は毎日バイトをして、母親の入院費と借金の為に働き続けてきた。だが時折、こんな事がいつまでも続くのかと思ったら、正直、気が遠くなった。 それでも、決して静が父親を恨む事はなかった。すべて極道のせいだと、今までそれを糧に生きて来た様なものだ。 静にとって”極道、ヤクザ”という存在は、この世から居なくなれば良い、存在する価値なんてないと思うほどの恨みの元凶でしかなかった。 金と暴力だけで人を支配する人種。そして今、目の前で自分を娼婦の様に金で釣ろうとしている、任侠の高峰に居る鬼塚心。 外道は外道かと、静は心奥で悪態をついた。 「借金も片付けてやる。その組とも話しをつけてやる」 心の言葉に、静は表情を歪めた。 言ってる意味が分からない。静はまさにそんな表情で、心を見た。 「あんた…ホモ?あんたほどの男なら、女には困らないだろ。はっ…何なら、男にだって困らないだろう」 心は実際、端正な顔立ちをしていて、色香も漂う男だ。黙っていても向こうからお願いされそうな、そんな容姿も、そして権力も持っている。 そんな男が、その辺に居る大学生の自分のために、借金を片付けて更に組との話までつけてくれるという。一体、何を考えているのか。 「俺は他人に興味はあらへん。お前に興味があるだけ」 そう言って、心は静に柔らかな羽毛布団をかける。そうだ、静はズボンも剥ぎ取られ、何とも情けない格好をしていたのだ。 その姿に顔に熱が集中するのが分かった。 「…静、俺のものになれ。母親の病院の方も面倒見てやる」 静の柔らかい髪を指に絡ませながら、心が囁く。 「ちょ!待ってくれよ!何なんだ!あんたさっきから!大体、あんたもヤクザじゃねーか!!」 次々と放たれる耳を疑いたくなる様な言葉に、静が慌てて布団の中で暴れる。そんな静を心が、布団ごと抱き締めた。 「お前の関わっている大喜多組と一緒にすんな。うちはヤクもやらへんし、そういう取り立てもない。きちんと株式会社の狼煙をあげて、真っ当な商売している。後ろめたい事も何もない。お前だけやない、母親も、妹も救ってやるって言ってるんや」 静の耳元で、柔らかな声で心が甘く囁く。 絆されるなと、どこかで声がする。上手い話には確実に裏がある。それは静が一番よく分かっているし、世間の常識でもある。 それに相手は極道だ。何も見返りを求めないわけがない。いや、静自身が見返りだなんて、そんな訳がない。 「あんた…おかしい。俺は男だし、あんたも男だ。俺のものになれっておかしい…」 「それで救われるんなら、安いもんやろう」 そう言いながら、心は静の髪を撫でた。 その優しい仕草が静は不思議と心地よく、気がつくとウトウト眠りにつきかけてた。 アパートを転々としているのも大多喜組の嫌がらせから逃れるためで、それでも見つかるんじゃないかという恐怖に震え、ここ何年もろくに熟睡出来た事がなかった。 それが今はその同じ穴の狢である心に抱き締められながら、うつらうつらしている。それに戸惑いながらも、静は眠りの中に堕ちていった。

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