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第4話
こんなに眠るのは何年ぶりだろう。眠りすぎて頭が重いとか身体が痛いとか、いつぶりの感覚だろう。
静はそんな事を考えながら、泥の様に眠り、そのせいで重くなった身体を起こし大きく伸びをした。
関節が気持ちの良い音を奏でる。凝り固まった身体を解しながら、働かない頭で何が起こっているのか整理する。
とりあえず、隣に心の姿はない。部屋も照明が落とされ、出入り口付近にあるブラケットライトだけが唯一の灯りだ。
今、何時だろう。そう思って視線を動かすと、ナイトテーブルの上の時計が目に入った。その時刻を何度か見返して、マジで?と呟いた。
「朝じゃん。どんだけ寝てんの、俺。大体あいつ、どこ行きやがった…どうすんだよ、今から」
夢の中、優しく頭を撫でる大きな手の記憶がある。まさか心だとは思いたくないが、静はその腕の中で安心して眠りについたのだ。
乱れきっていた衣服も整えられ、今更ながら静は羞恥に顔を染め上げた。だが心の手で、呆気なく果ててしまった自分自身に苛立も感じた。
あまりにも自分達を追いつめた連中と違いすぎて、混乱してしまう。いや、新手の嫌がらせの手法かもしれない。
どちらにしても、面倒なことになっているのには変わりはないのだ。
「どうしてこう、次から次と」
静は大袈裟な溜め息をついて、こうしてるとまた眠りそうだなとキングサイズのベットから飛び降りた。
大理石の床は寝起きで温まった素足には思ったよりも冷たく、思わずもう一度ベッドに戻ってしまいたくなるものだった。
「ったく…冷たいし…」
一人暮らしが長い為に癖になった独り言を思わず呟くが、広過ぎる部屋はそれを簡単に消し去った。
何も飾られてない殺風景な部屋に豪華な家具だけが置かれ、無駄に広い部屋は一人で居る事を際立たせた。
人の居る気配はない。もしかして他の部屋に居るのだろうか?勝手に開けて、ヤバい物でも出てこられては困るとは思ったが、広い部屋にポツリと独り残されている状態も居心地が悪い。
静は思い切って、ベッドの近くにある扉に手を掛けた。
光沢のあるドアを開いて中を覗くと、書斎だろうか。やはり広い部屋に黒で統一された家具が置かれ、中央には、どこの大社長かと聞きたくなる様な大きなデスクが置かれ、その上にはデスクトップのMacintosh。
壁を占領する大きな書棚には極道とはあまり縁がなさそうな蔵書から、六法全書まである。
やはりそこにも心の姿は無く、静はドアを閉めた。
「帰って…いいのかな…」
「それは困ります」
独り言を呟いたそれに返答が返って来て、静は大袈裟なくらいに飛び跳ねた。
「そ…相馬さん」
そこには上品なスーツに身を包み、凛とした姿勢で立つ相馬の姿があった。
いつの間に現れたのだろう?と、いうよりもいつから居たのだろう?気配さえ感じなかった事に、静はゴクリと息を呑んだ。
「今、鬼塚は出てますから、もう少し待ってくださいね。お腹が空いたでしょう。何か食べましょう」
相馬はにっこり笑みを浮かべ、ソファに掌を向けた。座れということかと、静はいつも心が腰掛ける黒の革張りのソファに膝を抱えて腰掛けた。
「具合でも悪くしましたか?」
何も言わない静の顔を、相馬が心配そうに覗き込む。静はその相馬の顔を横目で見た。
改めて間近で見ると、心に負けず劣らず人を惹き付ける顔をしている。心のような獰猛さはなく、どちらかというと気品の溢れる顔だ。
一見、神経質そうには見えるものの、色素の薄い目はそれを和らげ形の良い唇は優しく弧を描いている。
こんな男が何故、極道なんて世界に居るのだろう?静はやはりその疑問しか出て来なかった。
「相馬さん、ヤクザって顔じゃないよな。顔はそんなんだけど、脱いだらスゴイとか?」
抱えた膝に頬を載せて、相馬の方を見ながら呟く。
寝起きで醒めきらない瞳は少し潤んでいて、傾げられた首から覗く白い項には、昨夜付けられたのか刻印のように赤い痕が花びらのように散らばっていた。
本人に自覚がないその色香に、思わずゾクリとする。心が狂わされたのも無理が無いのかもしれないと、相馬は思った。
「相馬さん?」
何も言わない相馬を不思議に思い、静が声を掛けた。
相馬は、それにああ…と返事をすると、その感情をすぐさま揉み消し静の横に距離を置いて腰掛けた。
「脱いだらスゴイというのは…どういうことでしょう。私を見れば分かると思いますが、筋肉隆々というわけではありませんし。それとも…ああ、入れ墨とかでしょうか?」
相馬がそう問いかけると、静はコクリと頷いた。
「残念ながら私は、背中にもどこにもそういうものは入っていませんね。何なら見てみますか?」
「え!?いい、いいよ、見るとか」
「そうですか?ああ、鬼塚にはありましたか?」
「はぁ!?そんなん知らねーし!見てねぇし!!」
相馬の言葉に思わず顔を上げ、五月蝿い位に叫ぶ静に相馬は苦笑を洩らした。
あの男が据え膳を頂かなかったのか。よくも耐えれたものだと、感心したそれだった。
「まぁ、機会があれば見てみてください。私が知る限りでは、綺麗な身体ですよ。極道と刺青は世間ではイコールとして見られているようですけど、そうでもありませんよ」
「でも、あれが自慢なんだろう」
般若や牡丹や龍、唐獅子を色鮮やかに身体に彫り込み、それを自分の力を誇示する見栄の様に見せつける。見栄と、もう一つの役割は名刺代わり。
男達の身体に彫り込まれたそれは世界に一つしかないものらしく、それだけでどこの誰だかが分かるらしい。
静を脅していた連中も、彫り込む時の苦痛に耐えた俺に敵う者は居ないと言わんばかりの顔で、背中に描かれた不動明王の彫りをまざまざと見せつけたものだ。
「自慢、ですか。どうでしょう。今は気軽に痛みなく彫り込めるそうですね。ファッションっていうんですか?女性でも背中に蝶を躍らすと聞きましたが」
「え、違うよ、それ。それはタトゥーだよ。知らないの?」
「申し訳ありません。あまり興味が無いもので。勉強不足ですね」
本当に申し訳なさそうに頭を下げた相馬に、静は可笑しくなりプッと吹き出した。
生真面目なのか、それともバカ正直なのか。そんな相馬の実直さに、次第に壁を作っていた静の緊張が解れて行く。
「あれ…いえ、鬼塚は、そういう形式めいたものというか型に嵌ったものは嫌いな男でしてね。極道だからこう、組長だからこうというのは受け入れないところがあるんです」
「ふん、そんなのただのガキの我がままじゃねーか」
「嫌いですか?ヤクザが…鬼塚が」
どこか寂しそうに聞いて来る相馬に、静は視線を逸らした。
嘘をついても相馬にはバレてしまいそうな、そんな感じがした。だが、極道相手だからといって、媚を売る様な嘘をつく気はない。静は相馬の目をしっかりと見据えると、怒気を孕んだ顔で頷いた。
「死ぬほど嫌い。ヤクザは今でも外道だと思ってるし、あいつはもっと嫌い。訳がわかんねー」
嘘偽りない言葉だった。正直なところ、静は困惑していたのだ。
自分のものになれと心は言い、静の身辺を綺麗にして母親の面倒まで看てくれると言う。
本心を言えば、飛びつきたい話ではある。人生を狂わされたと言っても過言ではない、あの連中と手を切れるのだから。
だが連中同様、極道の甘い言葉に裏はある。静はそれを誰よりも知っていて、身を以て経験しているのだ。
「そうですね。確かに暴力団という響きも、ヤクザ、極道…どれも聞こえが悪い言葉ですね。静さんのように、その悪い部分を見続けてきたなら尚更でしょうね」
どこか申し訳なさそうにする相馬の顔を、静は盗み見た。
これは本心なのか、それとも何か企んでいるのか。どちらにしても静にはこの男の腹の内は読めない。
極道というのを抜きにして、敵か味方かを判断するのは容易い事ではなさそうだ。
「相馬さん…そういえば、年、いくつ?」
「私ですか?27…もうすぐ28歳です」
「…え?…は?何、え?」
特に理由もなく、何となく聞いた質問の答えに静は目を丸くした。
「27歳です。免許証見ますか?あまり老けて見られる事はないんですけど」
「ちょ!!ちょっと待って!!…え!?27歳!?」
思わず声が大きくなる。若いなというのは思っていた。見るからに若い。
だが落ち着き払った言動や所作から、もう少し年上だと思っていた。それがどうだ、27だというではないか。
自分とさほど変わらぬ歳を告げられ、唖然としてしまう。そして、次の瞬間、打たれたように顔を上げた。
「え、ちょっと待って。ちょっと、ま…さか…あの男…」
「あの男?ああ、鬼塚ですか。いいのかな… 。静さんは23歳でしたよね?」
「23歳…出席日数足りなくて、留年したから…」
返済日が近づくと返済額の足らずを補うために、寝る間も惜しんでバイトに励む。初めの頃は学業との両立のペースが作れず欠席が続き、結局、出席日数が足りずに留年してしまった。
だが、今はそんな事はどうでもいい。相馬が濁す言葉を早く聞きたくて、仕方なかった。
「そうだったんですね。鬼塚ですが、今年、21歳になったばかりです。つい先日ですので、静さんよりも年下ですね」
にっこり微笑まれたが、静はまるでフルスイングで殴られたような衝撃を食らった気分だった。
まさかとは思ったが、いや、でも、あの容貌で、あの態度で、あの……。
「年下かよ!!ちょっと待って!え、意味わかんねぇ!だって、あいつは組長って、え!?ここ、仁流会鬼塚組だよね!?何、あの仁流会のNO.2があんなガキかよ!!」
全国に名を馳せる指定暴力団、仁流会。全国に支部があり裏世界の首領である仁流会会長風間組の風間 龍一の人脈は広く、その底知れぬ力には警察ですら手が出せないでいる。
その仁流会会長代行が、この間、成人式を終えた様な若造なんてあり得ない!!
「先代が急死したので鬼塚が襲名したんですよ。まぁ、年齢は若過ぎるというのはありますが、組をまとめれていないわけでもありませんし、特に何も問題はありませんよ」
「喋り過ぎや、相馬」
混乱する静の耳に聞き覚えのある声が聞こえ、ハッとなる。見ると、長身で細身の身体によく似合うタイトなスーツを着た心がいつの間にか帰ってきていて、静達を見下ろしていた。
しっかりと鍛えられた肉体に品の良いスーツを纏ったその姿は、静が見ても惚れ惚れする様な同じ男ならば憧れるそれだ。
しかし、改めて、これだけ気品のある極道が居るだろうか?とは思ったものの、心の醸し出す黒いオーラは闇社会の人間以外の何者でもない。
だがこうして改めて仁流会の様な大きな組の人間を知ると、大喜多組がどれだけ下劣な組だったか良く分かる。大喜多組の舎弟連中に連れて行かれて逢った組長なんて、人を騙して巻き上げた金で肥やしを増やし、自らもまるで豚の様に太っていた。
まさに品格も、組長としての貫禄も無い男だった。
それに比べると心はどうだろう。その年齢を感じさせない貫禄と人を射る鷹の様な眦は、他人に口を挟む事を許さない…まさに絶対の服従を黙って相手にさせてしまう、百獣の王といった感じだった。
「おかえりなさい。静さんには出来る限りの事をと、仰ったのはあなたですよ」
相馬はフフッと笑ってそう言うと立ち上がった。
二人が並ぶと圧巻だなと、静は思わずソファの端に身体を寄せた。
「もういい。行け。あと、飯。適当に」
そう言ってジャケットを脱ぎ捨て、いつもの定位置にどかりと座る。そんな心に相馬は頭を下げて、部屋を出て行った。
「詐欺みてーな男だな、てめーは」
静はそう言って、心を睨みつけた。見れば見るほど年下には見えないが、いざ年齢を聞いてしまうと腹立たしくなってきたのだ。
「俺は一度も静より年上だとは言ってへん。年下は嫌いか」
そう言って、心は煙草を銜えて火を点ける。
その手慣れた様子から、昨日今日吸い始めた訳ではないだろう。こうして煙草一つさえ様になっているのだから、静は騙されてしまったのだ。
「老け顔なんだよ、お前は。偉そうにしやがって」
静は心と同じ様に足を投げ出し、腕を組んだ。漂う紫煙が、心の顔に靄を掛ける。
その隙間から見えた口元は、弧を描いていた。
「こういう性格やからな」
心の口調は同じ年の者よりどこか落ち着いている。
今どきよく使われている様な語尾を伸ばす様な言葉は話さないし、短縮文字なんて心が使えば世界が終わりそうだ。
そもそも関西弁なので、心の言葉が今どきかどうかは分からないが…。
「それより、俺、大学に行きたいんだけど。単位ヤバいし」
そう自分で聞いてから、どうして許可を得る必要があるんだと首を傾げた。そうだ、帰ります、さようならと普通に帰ればいいだけじゃないか。
だが聞いてしまってからそう言うわけにもいかずに、心の返事を黙って待った。
「…わかった。送らせる」
少し考えた風だったが、携帯を手に取る心の手を静は慌てて掴んだ。
「冗談。黒塗りのフルスモベンツに送られたら、俺は良い噂の的だ」
ただでさえ何か面白い事がないかと、毎日刺激を求める学生達。
静が借金返済のためにバイトに明け暮れていることは、学内では有名な話だ。それをある日突然、運転手つきの黒塗りのフルスモベンツで登校なんてしようものなら、とんでもない事になる。
「じゃあ、どうやって行くつもりや」
「えー、…歩いて」
というか、それしか手段はない。バイトもクビになり、借金返済に充てる金と生活費を除けば、静の全財産は今時の小学生より寂しいものになっていた。
なので金銭的に余裕は一切ないし、ここ数ヶ月、母親の入院費の支払いも滞納している。ギリギリというよりは、まさにどん底なのだ。
「うちの車が嫌なんやったら、タクシーでも捕まえろ。とりあえず、持っていけ」
心はそう言って、黒の皮の長財布をテーブルに投げた。
どこかブランドの物でもなさそうなその財布は、仕立て具合からオーダーメードの様だった。使い込まれたやたら分厚い財布からは、見た事もないような大金が顔を覗かしている。
「ふざけるなよ、俺はお前の情けを受ける気はない」
やはり自分を娼婦の様に、金でどうこうしようというのか。静は怒りにも似た感覚に、身体が震えた。屈辱にも似た感情。
「お前を買うって言ったやろ。母親が病院から追い出されてもええんか?支払いの遅れたお前の妹の所に、ヤクザが乗り込んでもええんか?」
心は煙草を銜えながら、静を鋭い眼光で見つめた。
これは脅しなのか忠告なのか。静は俯いて、ただ自分の足を眺めていた。
自分が心の物になれば、静の妹も病気の母親も救える。何よりも、あの鬼の様なヤクザから逃れられる…。
自分さえ我慢すれば…。
選択権なんて、この男に捕まったあの雨の日からないのではないだろうか。それよりも、この男の前で何かを選択出来る人間が居るのかさえ疑わしいところだった。
静は拳を握りしめ心を睨みつけた。その静の顔を、心は表情一つ変えずに見つめた。
「契約書…それがないと信じない」
契約書があったところで、きちんと約束なんてしないことは百も承知だった。極道にとって、契約書なんてただの紙切れにすぎない。
それでも、妹と母親の行く末。そして、いつまでも終わらない借金の肩代わりの保証が欲しかった。
正直なところ、あとのことはどうでも良かった。ただ、今のこの現状から逃れたかったのだ。
「契約書な、ええやろ。好きなだけ書いたる」
心はそう言って、不敵な笑みを浮かべた。
その笑みを見て、静は自分がまた今迄以上に暗く深い闇に堕ちていくのを感じた。
学校が終わって真っすぐに帰ってくれば望み通り契約書もきちんと渡すと言われ、静は心の部屋を出た。
エレベーターに乗り、一人になった狭い箱の中で声を出して息を吐いた。これは早まったのだろう。
だが、どう考えてもこれ以外の選択肢を思いつかなかった。今更、間違っているのか間違っていないのかなんて、聞くまでもない。
もう何もかもが限界だったのは事実で、どう抗ってもそれは変わる事がないのも分かっていた。
ならば同じ穴の狢でも品の良い方に逃げるのも、最終手段ではないのかと自分に言い聞かす様に思った。
到着した1階ロビーは閑散としていて、人影は見当たらなかった。えらく無防備だなと思ったが、ここで誰かに逢ってもなと静はそそくさと外に飛び出した。
空は静の淀みきった心とは裏腹に快晴で、その気持ち良さが静を更に落ち込ませた。
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