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第9話

病室を出ると、静かな廊下の壁に凭れ心が腕組みをして立っていた。 「終わったんか?」 静達に目を向けて言う心に、静は何も言わなかった。 元はと言えば、この男に逢わなければこんな事にはならなかったのだ。暁や清子に嘘をつくこともなかったし、こんな遣る瀬無さを感じることもなかった。 沸々と怒りにも似た感情がこみ上げて来て、自分の選んだ道の浅はかさに後悔し拳を痛いほど握る。 「オマエにさえ…オマエにさえ逢わなければ…」 唇を噛み締め口の中で呟く静に、心と相馬は静を見た。 「オマエにさえ…オマエにさえ逢わなければこんなこと!!」 気が付けば身体が勝手に動き、心の胸倉を掴み上げ壁に押し付けていた。 とはいえ長身の心。静が下から睨み上げる形になる。だが、そんな静の行動を咎める訳でもなく、心も相馬も微動だにせずに静を見つめていた。 「オマエさえ…っ!」 怒りに我を忘れ叫ぶ静の口を、心の大きな手が覆った。 「中にいる母親に聞こえるぞ」 囁く様に言われて、静はグッと言葉を飲み込んだ。 どうして、どうしてこんな事に。静の頭にはその言葉しか浮かばなかった。 「オマエさえ…俺の前に現れなきゃ…」 「俺が現れんかったらどうなっとってん」 「な、に?」 静は心が何を言いたいのか分からずに、心の顔をじっと見つめた。 「俺が現れんかったら、オマエは大喜多組の終わる事無い借金払い続けてたやろうな。それで?年頃になった妹は捕まって売りさせられる。オマエはそっちの方が良かったんか」 その言葉に静は顔を歪め、今にも溢れそうな涙を堪え、俯いた。 減らない借金に、妹の学費に母親の入院費。確かに途方に暮れるものだった。 身体も心も限界なのに、夜もろくに眠れたためしがない。少しでも支払いが遅れれば、バイト先等に組員やチンピラが押し掛けて来て静を殴りつけた。 そういう連中と関係のある静をそのまま雇い続ける会社も少なく、バイト先まで転々とする羽目になった。まさに地獄。 だが、心はそれを全て一瞬にして片付けた。まるでそれらが嘘のように呆気なく、簡単に。 支払い期日が過ぎても大多喜組の組員らしき人間が静を探し回っている様子は伺えなかったし、携帯が鳴ることもなかった。こんなこと、連中に追われるようになって初めてのことだ。 無論、喜ばしいことだ。母親も手厚い治療を受けれるようになり、妹の進学の心配をしなくてもいい。喜ばしいことだが…それでも極道。 この話の裏に何があるのか見極めなければいけないし、信用するなんて言語道断だ。 「お前等みたいな連中が居なければ…」 静は心の胸倉から手を離し、心の堅い胸を叩いた。 心が悪い訳ではない。そもそも鬼塚組が静達家族を苦しめた訳ではないのは、百も承知の事だ。 そう、これは八つ当たりだ。だがそうでもしておかなければ、何もかも足下からガラガラと音を立てて崩れて行きそうだった。 何か、何か糧が要る。何か、しっかり踏ん張れる糧が。 冷たく、水に濡れた父親の最後。泣く訳にいかなかった自分。何もかも…。 「お前等のせいだ…」 静の大きな瞳からは堪えきれなくなった涙が、ポトポトと零れ落ちていた。まるで音でも立てそうなほどに、大粒の涙。 心と相馬はそんな静に何も言わず、ただその涙をじっと眺めていた。 悔しくて、悔しくて仕方なかった。 自分たちを苦しめていた極道、その極道の世界に生きる心に自分達は助けられた。 助けられたとは語弊がある。買われたと言うのが正解であり、それは静にとって最大の屈辱だった。 自分にとって有益な極道かもしれないが、信用して良い人種かと言えば、それは違う。 何があっても信用出来ない、信用してはならない人種だ。 ポロポロと流れる涙が止まらず、静は顔をあげる事が出来ずに心の黒い革靴を眺めていた。 思えば、こうして泣いたのはいつぶりだろう? 家に大多喜組の取り立てが来ても自分が捕まって殴られても、こんな先の見えない未来でも、涙なんて忘れた様に出た事がなかった。 その存在に蓋をするようにして、静はその感情を仕舞っていたのだ。 結局、それから食事にも行かずに心のマンションに帰った静は、心の書斎に許可もなく入りこみ篭城を決め込んだ。 社長の座る様な椅子に膝を抱えて座り、壁一面の大きな窓から見える景色をただ何も考えずに見つめていた。 相当、分厚いガラスなのか外の音は一切聞こえないし、部屋の向こうからの話し声が聞こえない。 すっかりと陽は落ちて、外は薄暗かった。それに合わせて部屋もかなり暗く、明かりがなければ心細くなるような薄暗さだが静にはこれが落ち着いた。 部屋に居ても、いつ上がりこんでこられるか分からなかったので、明かりは点けなかった。 まるでそこに誰もいないように息を潜め、気配を消し、部屋の隅で身体を丸めて夜を明かした日々。 そんな世界を当たり前のように送ってきたせいで、明かりが煌々と灯る部屋は静を落ち着かさなかった。 しかし、何時間こうしているのだろう。 部屋の時計を見れば相当な時間ここに居るが、その間、心も相馬も部屋に入って来ようとはしないし声も掛からない。 本来ならば、心の書斎。仕事をしている心からすれば、都合の悪い事だろう。 静はゆっくり立ち上がり、ドアに近づくと息を吐いてそこを開けた。 明るい部屋に、慣れない目が眩む。ようやく慣れて来た目で部屋を見渡せば、いつもの特等席に心の姿は無かった。 「あ、静さん、お腹空きませんか?」 出て来た静に、心の特等席の前に腰掛け、新聞を読んでいた相馬が笑顔を向けてきた。 「え…」 「お腹空いてませんか?何か作りましょうか?」 咎める訳でもなく嫌な顔一つ見せることなく、反対に気を使われてしまい、静は俯いた。 どうして、こんなにもしてくれるのだろう。 心ならばともかく、相馬はただ心に支えてる身。静にこうして尽くす理由は無いはず。 男の自分を囲い、自分の借金や家族の為に大枚を叩いてる心に何か意見は無いのか。 自分を疎ましく思わないのか。 「どうかされましたか?」 「いや、あの、…アイツは」 「ああ、鬼塚なら仕事で出掛けました。少し遅くなるかもしれませんね」 「あの…相馬さん。俺を、俺を疎ましく思わないの?」 「は?」 相馬は、静の質問の意図が分からなかった。 心が想うこの男を、なぜ自分が疎ましく思わなければならないのだろう? どういう発想からそうなるのだと、相馬は暫く思案してみた。だが、疎ましく思われていると思っている静のその理由が検討もつかず、相馬は首を傾げた。 「だって組長がさ、組長だよ?それが俺みたいなのに、大金使ってさ。内情は詳しく分からないけど、大多喜組ともモメたりしてるんでしょ?」 ああ、そういう事かと相馬は微笑み、静に近づいた。その相馬の顔を、静は不安の色が色濃く出た瞳で見つめた。 自分たち極道を信用出来ないのは仕方ない。まだ短いと言っても過言ではない人生のほとんどを、その極道に狂わされて来たのだ。絶望と憎悪しかなかっただろう。 今、自分達を疑っても憎んでも軽蔑しても、それは仕方が無いことだ。 「座りましょうか」 相馬は静の手を引いいてソファセットに向かうと、敢えて隣同士に腰を下ろした。 「静さんや静さんのご家族に起こった大多喜組とのこと、それを思うと私はあなたともっと早くに逢っておきたかったと思っています。今回、確かに静さんの件で、うちと大多喜組が話し合いをすることにはなりましたが、そんなこと取るに足らないことですよ。こちら側の内情を知る必要はないとは思いますが、まぁ、敢えて言っておくとすれば大多喜組は鬼塚組とは同じ土俵にも立てないほどの力のない組です」 「…でも、それなりに事務所も持ってたし、フロント企業でも高利貸してたりとか景気良さそうだったけど」 「そうですね。なかなか好きに動いていたようです。大喜多組は静さんだけではなく大勢の堅気の方に違法な金利で金を貸し、取り立てをしていました。返せない人間には薬を打って逃れない様にして、無理矢理身体を売らせてました」 表情も変えずにそう言う相馬を、静は信じられないものを見る様な目で見つめた。 別に相馬がして来たことではないが、でも、もし自分がこのまま大喜多組に捕まっていれば、その道を辿っていたのだろうか。それを想像して、静の身体は震えた。 ケツを差し出せと殴られ、事務所に連れて行かれた事がある。あのまま逃げれずに居れば、自分は今頃どうなっていたのだろう。 いや、自分よりも女の方が稼げると妹に危害が加えられれば、どうなっていただろう。 青い顔をして俯く静に、相馬がフッと笑った。 「色々とね、そういう事をされるとこちらも困るんですよ。一応、動き回っていたのは自分のところの縄張りだったようですけど、極道にも極道なりのルールがあるんです」 「ヤクザなのに…」 ボソッと呟いて、静はハッとした。 そんな静に相馬はクスクス笑って、”そうですね”とただ返事を返した。 本当に、どっちが常識を知らないのか分からなくなってしまう。 柔らかな物腰に、丁寧な対応。相馬の全てが相馬が裏の人間だという事を忘れさせる。 静は段々と肩の力が抜けていくのを感じ、フーッと息を吐いた。 「あ、そうだ。あの、暁に…上手い事言ってくれてありがとう。助かった」 「ああ…彼ですね。とても心配そうな顔をしていたので。誤解されない様に」 「ありがとう…本当に助かった…あ」 静は何かを思い出した様に立ち上がると、運び込まれた自分の荷物を漁り出した。そして目的の物を発見すると、それを相馬に見せた。 「これ、どうしたらいい?」 「携帯電話ですか?どうしたら良いとは…?」 静の手には携帯電話が握られていた。静の年頃には珍しいガラケーで、まだ真新しい物に見えた。 「これさ、大喜多組に持たされていたんだ」 「大喜多組に?」 「そう、連絡つけるためにね、返済とかでさ逃げると困ると思ったんじゃない?」 「…そうですか」 「俺が返しに行こうか?」 「いえ、大丈夫ですよ。私から返します」 心が指示を出したあの日、ある場所にあったビルが全焼、崩壊する事件があった。それが大多喜組の事務所だ。 焼死体が多数出て、なかなか大惨事だった。その中で一番、遺体の損壊が酷く原型を留めていなかったのだ組長の大多喜本人だ。 たまたま事務所に居なかった大多喜組の組員は、相馬の部下が総力を挙げて捜索している状態だ。見つかるのも時間のうちだろう。 なので、この携帯を受け取る大多喜組の関係者は、もうどこにも居ないのだ。 「そう…助かった」 静は安堵して、相馬の掌にその携帯を乗せた。その瞬間、静はどこか足枷が取れる様な錯覚を覚えた。 大多喜組との繋がりが、これで完全になくなったのだ。もうこれで、本当に終わりなのだ。 「データーとか、そういうのはいいんですか?お友達の」 「ああ、これからは掛けてないよ。通話明細も大喜多組にいって俺は料金を請求されてただけだから、その通話明細から他の人間に迷惑がかかるといけないから」 きっとその通話料金さえ、水増し請求されていたのだろう。それをどうこう言える訳でもなく、言われたまま払い続けていたのだろう。 それを思うと、もう少し違う遣り方で始末すれば良かったと、相馬は一人思った。 「静さん自身は携帯をお持ちではないのですか?」 「今時、俺の年で携帯持ってないのはおかしい?そうだな、そうだよな。でも、そんな携帯契約出来るほど、金の余裕なかったし」 照れた様に笑う静を、相馬は気の毒に思った。 今まで、自分の置かれた境遇をどう思って生きて来たのだろう。 誰に縋る事も、助けを求める事も無く。 普通ならば、何もかも捨てて逃げるだろう。もしくはヤクザの甘い罠にかかり、身体を売ったり、手篭めにされたりするだろう。 だが静は自分の意志を曲げる事もなく、ただ強く生きて来た。どうしてそういう事が出来るのだろう。 「そうですか。あ、そうだ、暁さんの携帯番号はご存知ですか?」 「暁?そりゃ、知ってるけど」 「電話を掛けてもらっていいですか?一緒に食事に行きましょう」 「は?」 「食事ですよ、イヤですか?」 「だって、アイツの許可なく出掛けられないじゃん」 「大丈夫ですよ、私からお話ししときましょう。それに鬼塚は今日は時間はとれません。私が一緒に行く事になりますが、それはお許しくださいね」 相馬は物腰も柔らかく品がある。なので、着ている服さえ何とかしてくれればそういう人間には見えない。 心なんかが来てしまえば、この間の居酒屋の件といい正しく普通ではないのが一目瞭然。 何よりも、相馬は暁と面識がある。 「本当にアイツは来ない?」 「はい。お約束しましょう」 「相馬さん、その…普通の格好で来てくれる?」 「はい?」 「黒の高級スーツなんて、もろそっちの人じゃん。まさか!暁に逢いに行った時もその格好!?」 「いいえ、それは大丈夫ですよ。分かりました。そうですね、カジュアルなのがいいですか?」 「できれば」 静がそう言うと、相馬は畏まりましたと上司にでも言う様に頭を下げ、フフッと笑った。 そして、まるで何かの遊びに付き合うかの様に、楽しそうな顔を見せた。 そこから早速、暁に連絡をつけ、相馬の指示で暁の家に近い駅で待ち合わせをした。 相馬は何所から持って来たのか、ライダースジャケットにジーンズ姿で現れた。カジュアルなものとは言ったものの、静はその姿を見て、思わず”誰?”なんて口走ってしまったものだ。 それくらい、いつもの格好とは想像もつかないほどの姿。 それでも整った顔立ちと、長身で鍛え上げられた身体にはよく似合い、思わず惚れ惚れする様な様だった。 「相馬さんって、アイツと一緒で詐欺みたい」 相馬のカイエンに乗り、待ち合わせの場所に向かっている車内で静は相馬に呟いた。 「そうですか?詐欺ですか?」 「そう…アイツも、一回ラフな格好してたとき、何かヤクザに見えなかったし」 「そうですね、鬼塚はまだ年も若いですからね」 若いというか年下な、と静が言うと相馬が笑った。

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