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第8話

腹が減っただろうと、静は心に連れられて部屋を出た。 てっきり部屋で食事かと思っていたのがそこから連れ出されたときは、この男と外を歩くのか!?と躊躇われた。 だが、鬼塚組の組長がどうぞ狙ってくださいとばかりにガードもなしに外を歩く訳が無かった。 静は心に連れられて、いつも車を乗り付ける地下の駐車場に来ていた。フルスモベンツで出掛けるのが嫌だと言う静に、ベンツではありませんよと待機していた相馬が微笑んだ。 極道は全員ベンツに乗っていると思っていたが、相馬が大学まで送ってくれたのはベンツではなかったし、今、自分の目の前にあるのもベンツではない。 「何…この車。超デカイ」 静の前にあるのは白のHUMMER H2。相馬の愛車のカイエンと同じSUVだが迫力が違う。威圧感がまず違う。 フルサイズのH2は道路を走ると他の車の邪魔になるのではないだろうかと、こちらが懸念してしまうほどの大きさで、更に特注エアロのせいでその存在感も威圧感も倍増されている。 とりあえず、この車を運転しろと言われたら速攻で断るだろう。まず、車幅が全く分からない。ましてやカイエン同様、また左ハンドル。 日本の道路に合わせて、右ハンドルの車に乗れば良いのにと静は一人思った。 「HUMMER H2ですよ。聞いた事無いですか?GM製の車ですよ」 相馬の説明に、静は車を見つめた。 「いや、知らない。マジで車って興味ないし分からないから。これも相馬さんの?」 「いえ、これは鬼塚のですよ」 車談議をする静達を他所に、心はさっさと助手席に乗り込んでしまっていた。 自分の車なら、自分で運転すればいいのに。 「車ばっかり立派で、運転技術は初心者マークなんじゃないの」 車高の高い車を見上げ、チクリと嫌味を言って心を仰ぎ見ても、心は痛くもないと言わんばかりの顔をして大きく欠伸をした。 「阿呆。オマエと一緒にすんな。相馬が一緒やと運転させてくれんからな」 「フフッ…。鬼塚に運転されてしまうと、私の立場がありませんからね」 それが側近ということか。 静は後部座席のドアを開けて乗り込んだ。印象としては、とりあえず乗りにくい。 長身で足の長い二人と違い、そこそこの身長の静が乗るにはなかなか辛い車高だ。小柄な女性ならば、相当、苦労しそうだな思う。 ようやく乗り込んだ車内は、レザーシート独特の香りが立ちこめていた。 静の目の前にはヘッドレスモニターまで付いてあり、これで車内でDVD鑑賞でもしろということかと静は首を傾げた。 車には車内での楽しみが有るだろうに、ここにまできてTVとは。TV自体持っていなかった静からすれば、おかしな話だった。 運転席を覗けば、そこまで必要ないんじゃないのかというメーターの数。シフトレバーが少し変わっている。 「珍しいんか」 「いや、金持ちの贅沢品。普通さ、こんな所までTVつける?」 相馬の車は素直に褒めれたが、心の車となると話しは別になるということか、静はやはり心につっかかっていた。 「贅沢品とはよう言ったなぁ。まぁ、でも後部座席でボケッとするより何か観てた方が時間も忘れるやろ」 「そうか?車では車の楽しみがあるんじゃね?オマエ、友達少ないだろ、だからそんな楽しみ方しか無いんだよ」 そう言う静の言葉に相馬がプッと吹き出し、心は面白くなさそうに煙草に火を点けた。 「もう!煙草止めろよ!!後ろに全部煙が来るんだからな!!」 そう叫ぶ静の顔に、心が吸い込んだばかりの煙草の煙を吹き掛けた。 「なぁ、どこ行くんだよ」 行き先も教えられぬまま車に乗せられて、ひたすら走る車。朝からの雨が嘘のように晴れた空。ゆっくりと夕闇に包まれて行く空を高い車窓から眺めるのも、面白かったのは初めだけ。 とりあえず飽きてきた。大体、どうして大人しく車に乗っていなければいけないのかと段々腹立たしくなってきた静は、我慢なら無くなって前に座る心に問いかけた。 「飯、食うやろ」 「いや、食うけど…でも、飯ぐらい自分で何とかする」 アパートも引き払われて母親の入院費まで面倒を見てもらって、それどころか妹の涼子の学費や成人するまでの金銭の援助まで受け、挙げ句、自分の生活の面倒まで見てもらう気はない。 あれもこれもと、これ以上、借りを作りたくないというのが正直な所だ。 相手は普通の男ではない。任侠の世界にどっぷり浸かった仁流会の会長代行の鬼塚 心なのだ。 契約書にサインはしたものの、このまま何もかも思い通りにされるつもりは静にはなかった。 「お前、本当に自分の立場解ってへんな。契約書にサインしたんやから、お前が何かを自由に出来ると思うなよ」 前を見据えたまま、心が空気だけの威圧感を与えて来る。まるで契約書を書いたのだから、何をするにも心の許可が要ると言わんばかり。 静はそれが腹立たしくて、自分の前の助手席にガンッと蹴りを入れた。 「マジでムカつく、オマエ」 「ククッ…威勢がいいな。静は」 高級なシートの足形がついても、心は気にする事無くそう言う。 人を陥れて稼いだ金で買った車なんだろう。だから、何も気にしないんだ。静はそう思うと、益々腹立たしくなった。 大多喜組がやっていた様な事をしていないと、いくら心が言ったとしてもそんなの信じられない。 極道はこの世の中で、世界一平気な顔をして嘘をつける生き物だ。 家を手放せば、毎月の返済額が減ると言った。それで家を手放したのに、そんな事を言った覚えは無いと厭らしく笑った顔を忘れたことはない。 極道には約束なんてものは存在しないことを、静は嫌というほど知っている。 例えそれが形に残る書面で交わされた約束だとしても、その場その場で相手を欺く知識を多く取り揃えている連中にそんなものは一切通用しない。 そう、何もかもがマイルールで出来ている連中なのだ。法治国家のこの国で、唯一、それが通用しない世界。 その世界に囚われた静たち一家。あの地獄の様な生活。父親の死、何の楽しみもない大学生活、自分の人生…。 そして、鬼塚 心という男に買われた自分の立場。 グッと膝に置いた手を握りしめて、静は唇を噛み締めた。 「唇…噛むな」 押し黙った静に何か気が付いたのか、助手席から長い手が伸びてきて唇を噛み締めている静の唇に、心の指がフワリと触れる。 心の独特の香りが鼻を霞めて、思わずフッと力が抜ける。それに何だか腹が立って心を横目で睨みつけると、静の唇に触れた指を愛おしそうに自分の唇に当てるのが見えた。 「オマエ…キザ」 思わず出た言葉に”触れるのが禁止なんやろ?”と心が口の端を上げて笑う。 そんな事、力に物言わせれば守る必要もないのに…。と思ったものの、そんな事言える訳も無く、静は雨上がりの流れる景色をただ眺めていた。 「着きましたよ」 相馬の言葉で、静がハッとする。 気がつけば、車は駐車場と思しき場所に停車していた。だいぶと長いこと走ったな。一体、どんな店なんだと窓から外を見て目を丸くする。 心達のような人間が来る店といえば、変に賑やかで怪しげな店か一生自分とは縁もないような高級な店と思っていた。だが車窓から見えたのは静も知っている、この街一番の総合医療センター。 「誰かの見舞い?」 静が不思議そうに心を見ると、心は何も言わずに車を降りてしまった。 「おいおい、何だよ。飯じゃなかったのかよ」 「はい、静さんも降りて下さい」 相馬が車内を覗き込んで、静に微笑みかけた。 「え…?俺も?」 渋々と車を降り、心達の後ろを付いて歩く。広い駐車場からすぐに病院の中へと繋がる通路に入る。 確かここ、建て替えしたばかりだったな。昔から大きかったが古びた病院だった。 それが今は、どこもかしこも真新しく傷も少ない。 ふと視線を感じ前を見る。そして静はその視線の理由を知って、二人とは距離を置いて歩きたいなんて思った。 ただでさえ長身で目立つ容姿をしている二人だが、何人たりとも近寄らせない様なオーラで周りを牽制する。 モデル顔負けの容姿でただならぬ雰囲気を醸し出す二人は、どこか異質だ。普通の人ではないだろうとは、皆が皆、思ってはいるようだが、極道だと思っている人間は果たして何人居るだろうか。 恐らくゼロだろうな。 極道を全く知らないわけではない静でさえも、未だに心が鬼塚組組長だとは俄かに信じがたいのだ。 というよりも信じたくない。違うと言ってもらったほうが、まだ気持ちが落ち着く。 しかし一体、どこに行くのだろう。まさか、どこかの組長の見舞いとかだろうか? そう思いながら院内に入ると、やはり街一番の医療センター。中は診察と見舞いだろうか?見舞いの品を持った人で、溢れ返っていた。 それでも心達の通る道は、自然に開ける。 「まるで水戸黄門」 ボソッと呟き、その様子をただ嘆息して見つめた。 エレベーターで相馬が目的の階を押す。 上の案内標識を見れば入院病棟。これは本当に誰かの見舞いか。 エレベーターが停まり心達を吐き出すと、そこは一階の騒々しさとは打って変わって、とても静かだった。 廊下を奥に進み、関係者以外立ち入り禁止の中に心達は躊躇いも無く進む。こんな中に入っていいのか、静も距離をおいて心達に続いた。 「ああ、ここですね」 相馬がある部屋の前で立ち止まりそう言うと、心が静に振り返った。 「…え?」 で、俺にどうしろって?と言わんばかりの顔で心を見ると、心はコンとドアをノックして中の返事も待たずにドアを開いて静を中に押し込んだのだ。 そしてそのまま、心達は中に入らずにドアを閉めてしまった。 「うそ!ちょ…!?はぁ!?」 まさか自分だけが中に入れられるとは思わずに、静はドアを振り返った。 「え、何、マジで…」 一体、何が何だか分からずに病室を見渡せば、どうやら個室の様だ。だが普通の個室ではないのは、異様に広い室内から一目瞭然。 床には毛の長い絨毯。天井も壁も木の温もりの感じられる木目調で整えられていて、優しい色使いが解こされている。 壁には大きなクローゼットが埋まり、ここが病室だという事を忘れてしまいそうになる。 ゆっくりと奥に進めば、豪華なベッドに眠る人影が観えた。 「…あの」 鬼塚心の知り合いですがと言えば、話しが伝わるだろうか?だが心の知り合いならば、何とか組の組長とかだろうか?自分は試されているのだろうか? それこそ、そのまんま極道ですねという人が出てきたら、何をどうすればいいんだろうと思いつつ、おずおずと足を進めた。 「え?うそ……」 静の目に飛び込んで来た人物に、静は思わず声を漏らした。 「か、母さん…っ」 そこに眠るのは、昔の明るくて綺麗で居るだけで華やかだったのが嘘の様に見る影もなく痩せてしまった、静の母親の清子だった。 静は母親似だとよく親類からも言われたが、透ける様な肌の白さに柔らかな目許、芯の強い瞳はまさしく瓜二つだ。 女のような顔立ちだと言われることが多く、あまり好きではないこの顔だが、静は清子のことを尊敬し、そして大切に思っている。 まるで壊れそうなその身体に、静は唇を噛み締めた。ふと人の気配を感じ取ったのか、清子が目を開け出入り口の方へ視線を寄越した。 「あ…」 それに気がついた静は慌てて清子に駆け寄り、すっかり痩せて小さくなった手をぎゅっと握った。それに清子は驚いた顔を見せ、ゆっくりと上体を起こした。 「え…、静?」 「久しぶり、ごめん、長いこと顔見せなくて。体調、どう?」 「あなたこそ、元気だったの?いえ、それよりも…静、これどういう事?急に転院だって言われて、ここに移ったんだけど。おかしいわ。豪華過ぎるし。ねぇ、借金はどうなったの?まさか大多喜に何か言われたの?無茶してるの?」 「落ち着いてって。ね…?」 珍しく早口の清子に、静はただ首を振った。息子が何か無茶をしてるのではないかと気が気でないのか、静の手を握り返してきたその力は、痛くも感じた。 戸惑うのも確かな事だ。まるでどこかの政治家が借り切るような、豪華絢爛な個室。 しかも大病院だ。見る限り、待遇は最高級の扱いだろう。 心は母親の面倒も看てやるとは言ったが、まさかこんな最高レベルの扱いをされているとは、静も初耳なこと。清子が戸惑うのも無理はないだろう。 「あんまり、興奮するなよ。また具合悪くなる。とりあえず落ち着いて」 そういう静に清子は、ほうっと息を吐いて静の手を握る力を緩めた。 「無茶してるとかじゃないんだ。本当に違う。借金、片付いたんだ。組と話をつけてくれる人が居てね」 「そんなバカな話あるわけないでしょ?ねぇ、何があったの?」 さすが母親だと言うべきか。我が子の嘘なんて一発で見抜いてしまう。 どれだけ饒舌に嘘を突き通しても、きっと、どこの子供も母親には見抜かれてしまうのだろう。 もともと嘘を吐くことに抵抗がある静は、その表情がそれを雄弁に語ってしまっているはずだ。 それを証拠に、清子は何かあると顔を青くしていた。 なんと言えば清子は納得してくれるのだろう?どう説明すれば納得してくれるだろうか。 鬼塚組のことは言いたくはない。言えるわけがない。なら、どうすれば…。 そう思っているとドアをノックする音が聞こえ、人が入って来る気配がした。 「相馬…さん」 振り向き見たそこに居たのは、相馬だった。だが、いつもの様に微笑みを浮かべ、穏やかな目許で静と清子を見つめる。 静はハッとして相馬の後ろに目を凝らしたが、その後ろには心の姿は無かった。それにとりあえず安堵した。 だがなぜ相馬がここに?まさか心に自分を売った事を清子に言うのだろうか? 言い知れぬ不安に襲われ、思わず首を振る。そんな静に相馬はニッコリ微笑むだけだった。 「初めまして、弁護士の相馬 北斗と申します」 「弁護士?」 相馬の言葉に、静がマヌケな声を漏らす。相馬はゆっくりと清子に近づき、名刺を一枚差し出した。 そこには弁護士の肩書きの書かれた名刺と、相馬の胸許には弁護の証明である弁護士記章が光っていた。 「相馬北斗さん。弁護士の方?」 「はい。この度、静さんの関わっていた大喜多組との件で、仲介に入らさせて頂きました。違法金利は民法90条の違法行為であることから、支払い義務がないのはご存知ですか?違法金利での借金に、返済義務はございません。相手がいくらヤクザと言えども、それは法律上定められた事。ですので過払い分を静さんに返済して、お母様も私の知り合いの居るここの病院に転院させて頂きました」 「どうして…急に」 相馬の言葉に、清子はただただ戸惑った様子を見せた。 それもそうだろう。自分の知らない所で借金が片付き、普通の人間では入れない様な、こんな豪華な病室にまで移ったのだから。 「静さんとは、静さんのバイト先のオーナーの紹介で知り合いましてね。これは放ってはおけないと手を貸させて頂きました」 ニコリと微笑む相馬は、鬼塚組若頭としての面影もオーラも無い。もともと極道には見えないのだが、今は何所から見てもやり手の弁護士という風だった。 というよりも、こちらの方がしっくりくるのがどこか解せない。 清子は血色の悪い唇を噛み締め、急にベッドの上で正座をすると、それこそ布団に額を押し付けて相馬に頭を下げた。 「本当に、本当に申し訳ございません。本当に、本当にありがとうございます」 涙声で言う清子もまた、これであの地獄のような日々から逃れられたと心から安堵しているのだろう。そんな清子の姿に、静は視線を逸らせた。 まさか自分が男、それも大多喜組よりうんと規模の大きな鬼塚組の組長の情婦になったなんて、とてもではないが口が裂けても言える訳が無かった。 親不孝な事をしている。 借金が片付いても自分がこんな事をしていれば、清子が喜ぶはずが無い。泣いて、やめてくれと言うだろう。 それこそ無理をしてでも自分が働きに出ると言うだろう。我が子にそんなことをさせて平気な親なんて、この世にはいないはずだ。 「ごめんね、静。何もかも静に押し付けて。涼子みたいに普通に生活させてあげれなくて」 痩せて青白い清子の掌が、静の手を包み込む様に握った。ホロホロと涙を流して償いの言葉を言う清子に、静はただただ首を振り心の中で謝罪した。 本当にこれで良かったのか。 本当に自分の判断は正しかったのか。 静には、もう何が何だか分からなかった。 「静さん、これ以上お母さんに無理をさせても何ですし、少しお母さんを休ませて差し上げれば如何ですか?」 相馬は俯いて、何も言えない静の肩を叩いた。恐らく相馬を見上げた静のその表情は、今にも脆く崩れそうなほどに危うかっただろう。 こんな親を騙すようなことはしたくないと、声に出さずともその表情は相馬にそう訴えていた。 相馬はそれに気がつかない振りをして、静に立つように促した。それに静は頷いて、感動に咽び泣く清子の手をもう一度しっかりと握ってから部屋を後にした。

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