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第7話

翌朝は初めて心と静が出逢った日と同じ様に、外は雨だった。奥の壁にある唯一の窓に、これでもかと雨が叩き付けられ、その様子で外は相当な雨だと解る。 バチバチという音だけが部屋に響いて、あとは静かなものだ。静は部屋の奥にあるキッチンカウンターで、誰が用意してくれたのか分からない朝食を食べていた。 あれからやはり深い眠りに落ちてしまい、気がつけば朝だ。どうも調子が狂う。 静は食べ終えた食器を洗うと、ベッドの方へ戻った。この無機質な部屋は人が居住するには不向きな部屋で、どこに居ても何だか落ち着かない。静はそれが嫌いだった。 心は極力、組の人間をこの部屋に入れない様にしているらしく、出入りしてくるのは相馬だけ。 なので、静は相馬以外の組員と口を利いた事がなく、そもそもこのビルには自分しか居ないのではないのかと思うほど人に逢うことはなかった。 心は相馬や他の人間と逢うときだけは、あの何人たりとも寄せ付けない様な圧倒的なオーラを全身から放出する。それを感じた静は、まるで野生のライオンみたいだななんて一人ほくそ笑んだ。 そんな事を静が思っているなんて全く考えてもないであろう心は、いつもの特等席の革張りのソファーで何も言わずに仕事をしていた。 次から次に書類に目を通し、携帯片手にあちこちに指示を出す。それはさながら、上場企業の社長の様でとても極道には見えなかった。 とはいえ静の知っている極道は大多喜組だけなので、日々、彼らがどういう仕事をしているのかはっきりと知っているわけではない。 だが恐らく、この鬼塚組とは違うだろうなとは思った。 心はPCに慣れた手つきで何かを打ち込んだり、時には画面をジッと見つめ、思い出した様にコーヒーを飲む。 時折、振動をする携帯に面倒臭そうに出ては、うんざりした返事を返す。 一体どんな内容なのかとチラリと盗み見れば、数字の羅列がビッチリ画面を埋めていて、まるで解読文書のようだった。 麻薬取引でもしていると思った静はその意味不明な文章を見て、期待外れになのか安堵感なのか、どこかホッとしたような溜め息を漏らした。 「退屈か?」 その様子に気がついた心が、静を見ずに問いかける。静は足を抱えて、心の向かいに座ると唇を尖らせた。 「…別に。今日は大学休みだし…ってか俺、帰ってバイト行きたいんだけど」 大学が休みの日は朝から晩まで働ける。稼げるうちに稼いでおかないと…。 とは言ってもバイトは全てクビになった。日雇い派遣のバイトしか残っていない今は、どこかシフトを多く入れてくれる仕事を探したい。その為にもバイト情報誌等を立ち読みでもして、面接に即行きたい気分だった。 「お前、バイト全部クビになってるやろ。派遣も登録抹消しといたしな。あのアパートなら部下が引き払いに行って、お前の荷物ももうすぐここに運ばれる」 「は…?なっ!?登録抹消って何だよ!それに引っ越し!?意味分かんねぇ!お前、勝手なことしてんだよ!ふざけんな!」 あまりの急な話に心に噛み付くと、タイミングを合わせた様に相馬が部屋に入ってきた。 いつものように上等なスーツに身に纏い、乱れなく整えられた髪。この男は眠る時もスーツで居るのではないだろうか?と思わせるくらい、他のスタイルが想像つかない。 「おはようございます。書類、出来上がりました」 爽やかな笑顔で挨拶をすると、相馬は心にA4サイズの封筒を手渡した。出鼻を挫かれてしまった静は、ソファから離れるとその近くにあるベッドに腰を下ろした。 心は相馬に渡された書類に目を通し、何やらサインのようなものをして無言で返す。相馬はそれを受け取ると、不貞腐れる静の前に立つとその書類を差し出した。 「静さん、この書類に目を通して、サインしていただけますか?」 「え…俺?」 自分に関係あるものと思っていなかったものが、突然、目の前に差し出され静は目を丸くした。 静は手を出さずに相馬の持つ書類に目を凝らす。そこには、はっきりと契約書との文字が…。 まさか、こんな仰々しい書類で作成されるとは思ってもいなかった静は、ゴクリと息を呑んだ。 契約書。まさにそれは静の人生を左右しかねないもの。 ここにサインをすれば、静は心の”物”となってしまう。 「これ…拒否権は…」 ボソリと呟くと、相馬がフフッと笑い心を見た。 心は煙草を銜え火を点けると煙を勢い良く吐き出し、一言、「ない」と言い放った。 どこまでも俺様…。そんな呆れた眼差しを向け、静は書類に目を通した。 そこには、静が大多喜組から借り入れていた借金全額を心が肩代わりすること。 母親をもっと程度の良い病院に移し、きちんとした治療を受けさせてくれること。 親戚に預けてある妹の大学卒業までの学費、生活費を全て面倒をみること。 そして、静の大学の費用まで負担すると書いてあった。 静だけではなく、母親や妹の生活の保証。それは、静が喉から手が出る程に欲する条件。 だが巧い話しには裏がある。それを静は嫌という程に知っている。 但し…と書かれた先には、静は心以外の何人たりともその身体を触れさせない事と心と一緒に暮らす事。 そして心の許可無く、どこかに外出する事を禁止すると書かれてあった。 蜘蛛の巣に捕われた獲物…。まさにその言葉がふさわしいそれ。 「ここまでしてもらう必要はない」 静が小さく言うと、相馬が変わらぬ笑顔で静を見つめた。 貪欲で欲深な人間ならば、一にも二にも急いでサインをするだろう。金銭にも困らず、心の情婦になれるのだから。 だが静は、見る者が見れば宝の箱のそれを開けるのを躊躇している。鍵を持っているのに、その権利があるのに、開けることを躊躇しているのだ。 いや、躊躇というよりも、拒絶と言った方が喩えは正解かもしれない。 これを開ければ最後、自分の中に培ってきたものが崩れると思っているのだろうか? まるで、悪魔からの招待状でも貰ったかの様に顔色が悪い。 「鬼塚からしたら、あなたが手に入るのですから安いものでしょう」 確かに心の静への執着は、長年に渡り心を知っている相馬からしても理解し難いものだ。 心が鬼塚組へ来た頃からその性格や思考を理解しているが、ここまで他人ーましてや堅気の人間に執着するなんて相馬が知る心であるのならば、有り得ないことだ。 心はものぐさな男である。それは常識を超えるもので、しなくてもいいのであればしたくないというのが何事にも勝る人間だ。 人間の三大欲は食欲、睡眠欲、性欲だというが、心はそのどれも欲しがらない。強いて欲しがるとすれば、睡眠くらいだ。 性欲に関しては生理現象なので仕方がなくという感じで、どんな一流のモデル等を連れて来ても心は眉一つ動かす事はなかった。それどころか、心に擦り寄り豊満な身体を寄せ付ける相手を、蔑んで見るとこがあった。 もしかして女に興味が男色家なのだろうかとも思ったが、そういう訳ではないらしく欲求を吐き出すのであれば性別に拘らずに誰でもいいという感じだった。 それほどに基本的に他人には無関心で、誰に対しても興味を持つこともない。相馬の心への印象は、退屈そうに生きているという感じだった。 それがこの豹変ぶりだ。特定の舎弟と相馬しか入ることを許さないプライベートルームに連れ込み、あちこちに手を回し静を手に入れようとしている。 そのためなら、どれだけ尻を叩いてもしなかった仕事までこなすという変貌ぶり。まさに天変地異の前触れだ。 相馬からしてみれば仕事をしてくれるのであれば何をしてくれてもいいので、静のことに関しては特に苦言を言うつもりはなかった。 「どうしますか?選択権はあなたにはないようですが?それともここから逃げ出してみますか?」 相馬の言葉に、静はハッとしたように顔を上げた。 逃げ出せるなら逃げ出したい。この世の中で、最も憎いと思っていた極道の情婦になれというのだ。そんな事死んでも嫌だ。 だが、逃げられるのか?今までの借金をしていた組とは明らかに規模が違う。 それに自分一人ならまだしも、母親も妹も巻き込みかねない。今、自分が耐えれば母親も妹も救われる。 「あんなところで、転がるもんじゃねぇな。あそこで耐えて、這ってでも家に帰ってれば、お前に逢わずにいれたのに」 静はそう言って心を睨みつけた。心はそんな静を見ようともせず、淡々と仕事をこなしている。 静は契約書を睨むように見ると、相馬から書類とペンを貰い何やら書き出した。 サインでもしてるのかと思いきや、それにしては長い。静は書き終わるとベッドから飛び降り、心の元に歩み寄った。 心はそんな静を横目で見ると”サインしたのか”と一言言い、またPCに目を戻した。静はその心のPCの上に、書類を滑らせた。 「昨日言った事が書いてなかったから書き足した。それに応じてもらわないと、俺は契約書にサインしない」 心は何だそれはというような顔をして、契約書を見た。そこに乱暴に書き殴られた文字。 ”鬼塚心は、本人の許可無く吉良静に触れない事" それを見た心は、アハハッと声を上げて笑った。それを見て腹の煮えくる思いの静と、信じられないものを見たという顔の相馬。 長年付き添った中で、心の笑い声を聞いたことのある人間は何人居るだろう。恐らく、一番付き合いが長い相馬でさえないのだ。皆無に等しいかもしれない。 本当に天変地異が起こるかもな。相馬はそう思いながら、激しく窓を叩く雨の当たる窓を見た。 「笑うな!バカ!それ、解ったのか!?」 今だに笑う心に益々腹が立ち、静は大理石のテーブルをガンッと蹴った。 「解った解った。これでええ。昨日言ったやろ。オマエを堕とすんも面白いって」 「てめぇはバカか!誰が堕ちるか!!」 広い部屋に静の叫び声が響き渡った。 契約書を交わしてから間もなくして、静の荷物が運び込まれた。 とはいえ引っ越しを転々とする静の荷物は段ボール4箱。逃げ惑う生活をしていたので、荷物は極力少なくしていたのだ。 自分の全てが段ボール4箱。改めて、自分の小ささを思い知らされた様な気がした。 「荷物少ないですね。そんなに引っ越しばかりしなければいけなかったのですか?」 段ボールの前に立ち、ぼんやりとする静に相馬が問いかけた。それにハッとした静は、頼りなさげに笑って頭を掻いた。 「引っ越しするのも金かかるから、本当はしたくなかったんだけど…」 言葉を濁す静に、相馬は首を傾げた。 「はは、あー、俺さ…あいつらに一度捕まってさ。一回支払いが遅れたことがあって、で、殴られて男専門の店に売られかけたんだ」 ボソリと言う静の口を相馬が慌てて塞ごうとしたが、それはもはや遅かった。 相馬達の後ろで、一気に黒いオーラーと痛い程の視線が突き刺す。そんな視線に気がつくことなく、静は話を続ける。 「おかしいだろ。って、そこの男も俺を買うっていうんだから、おかしいけど…。でも、あいつ等が俺に浴びせた言葉は死んでも忘れない。オマエは金を返す為に、男にケツ差し出してりゃいいんだ。何だったら今ここで犯してやってもいいって。殴られた事より、そっちのが痛かった。違法な金利で金貸して、たった一日遅れただけで…」 「まさか…静さん」 相馬は静の話の流れで、最悪の映像を思い浮かべた。男達に陵辱される、静の姿だ。 それは心も同じだろう。煙草を灰皿に押し潰し、何も言わずに静の背中を見つめていた。 「え?ああ、ないない。ヤラれてねーよ。隙見て逃げた。俺、結構、腕には自信あるんだぜ」 ニヤリと笑う静は、相馬さえも気の毒に思うほどに気丈に振る舞っていた。 自分は弱くない。そう言い聞かせている様にさえ思えた。 静の様な人間を、尽善尽美というのだろう。見た目も中身も凛としていて、とても美しいのだ。 「相馬ぁ…」 そんな相馬の思いを遮る様に、心が大理石のテーブルをコツンと指で叩いた。 相馬が振り返ると、そこには相馬のよく知った”鬼塚心”の顔があった。 いや、それ以上かもしれない。全身から殺気を含んだオーラを隠すことなく吐き出し、恐ろしいくらい鋭い瞳。 こういう顔を見るのは久々だなと相馬は思いながら、”了解しました”と一言告げて部屋を出ていった。 「お前、年上だろ、相馬さん。エラそうだな。ってかあの人エスパー?”相馬”って呼んだだけなのに、了解しましたって何か分かってんの?」 「あれで分からんような男を、側近として置くわけないやろ」 フンッと鼻を鳴らす心の顔は、静だけの知る”鬼塚心”の顔だった。 ”俺様だよな、オマエ”と言う静は知らない。後日、今まで静を苦しめて来た大多喜組が一日で潰され、静を取り立てていた組員が惨殺死体で発見される事になる事を…。 その日、静は自分の荷物を解いて片付けるのに時間を費やした。 何一つ残す事無く持って来たのだろう。静でさえ、何だこれはと思う様な書類などあって、それを処分したり大学の期限間近の課題が出て来て慌ててやるハメになったり。 そんな事をしていたら、陽もどっぷり沈んでしまっていた。 荷物を片付ける静の横で、心は相も変わらず色んな書類に目を通して何やら外部とコンタクトを取っている。 しかし極道というのは、こんなに多忙なものなのだろうか? 電話の会話も物騒なものではないし、怒鳴りつけたりもしない。心と居ると、静の中の極道という概念がひっくり返されろうなそんな感じだ。 静の持つ、いや、静の知っている極道といえば色んな人間に何かしらの難癖をつけて、自分の父親のような”堅気”と呼ばれる人間を食い物にする。 それこそ平和に、何の落ち度もなく普通に暮らして来た人間を、光りの無い世界に葬り去る。そうして自分たちが優雅に暮らす為の肥やしを増やす。 その為に、自分の力を見せつける様に凄み、脅し、怒鳴り散らす。それが静の知っている”極道”だ。 「終わったんか?」 何もしなくなった静に、心が目も向けずに尋ねる。 静は”ああ”と短く返事をして、キングサイズのベッドに寝転がった。 世界が一変してしまった。小さな4畳半の部屋から、何畳あるのかも検討もつかない大きな部屋。 そこにあるべくして作られた様な、豪華な家具。奥には立派なカウンター付キッチンがあって、正直落ち着かないし居心地が悪い。生活感も暖かみもない、一生、自分には縁がなかったであろう世界。 心はゆっくりPCを閉じると、煙草を灰皿に押し付けて静の居るベッドに歩み寄って来た。静はそれを感じて、枕を楯にして牽制する。 「契約違反だぞ」 「何もしてへんやろ。何かするとでも思ったんか、ヤラしい奴」 ククッと喉の奥で笑って、静の持ってる枕を軽く奪い取る。 ヤラしい事ばかりしてきたのは一体誰なんだよ!と抗議したくても、更にそれが恥ずかしい行為の様な気がして、静は押し黙った。 心はそんな静の前髪を指でサラリと撫でる。 「何、やめろよ」 その手をパシッと払い除けて、静は顔を背けた。 この男の目が異様に優しいから、何だかとても居心地が悪い。極道のくせに、どうしてそんな瞳で自分を見るのだろう。 「静…」 名前を呼ばれて、え?っと顔を上げた途端、唇に冷たく少し堅い何かが触れた。 それが心の指だというのに気が付くのに、時間はかからなかった。煙草の香りが鼻を擽る。 そして心は静を見ながら、その指に口づけた。 間接キス…? 「何……」 「触れんなって言うたやろ。これくらい許してもらわなな」 切なげな瞳で微笑まれて、静は何だか自分が本当に悪い事をしている気がした。

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